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2007/03/30

覚え書き & 『芋たこなんきん』 によせて。

 ※CWG/ DVD より、 ポイント抜粋 : 
 
 You are your own rule-maker.
  You set the guidelines.
 
  the question is..... 
 [ What would love do now ? ]
 To live your life without expectation,,,,, without the need for specific results,,, that is Freedom.
 
 You are constantly in the act of creating yourself.
 You are in every moment deciding who and what you are.
 
 
 
 
※ 「芋たこなんきん 」 より
 
  ”ねば ならない” は、 やぼ・・・・
 
   ----- ☆ ----- ☆ ----- ☆ ----- ☆ ----- ☆ ----- 
楽しみにしていた (NHK-BS2) 
  『デスパレートな妻たち』 も、 『ドクター・フー』 も、終わってしまった・・・
 
 NHK 朝の連ドラ 『芋たこなんきん』も、明日が最終回だ。 この 芋たこなんきんは なぜか、永久に続くと思われるくらい
 日常にフィットしてしまって、このドラマ(番組)が終わることなんて 考えもしなかった・・・、取り立てて ”これ!”という
 インパクトは、なかったが、ストーリー自身に退屈することがなかった。
 *インパクトというのは、たとえば、「ファイト」の時は、馬のことと家族の復活、前作の「純情きらり」では、純愛とピアノ、
 「風のはるか」では、湯布院とお父さんのレストラン、など、ドラマの軸になる職業というか・・・・。
もちろん、『芋たこなんきん』では、 主人公は、小説家で、その夫は町医者であるけれど、小説家としての&町医者としての生活ゆえに
描かれたドラマではない・・・・。  もっと日常の、どちらかというと 、戦中戦後から今現代へと、私達が忘れてしまった何かを、家族の日常を
通して (・・・といっても、画一的 ホームドラマではなく、どちらかというと 画期的な感覚の、、、)伝えてくれているものだったから。。。。
 その一つが、「ねばならぬは、やぼやねんよ・・・」 です。 
 例: 父が 再婚した相手を 新しいお母さんとして お母さんと呼ばせることなく、主人公を 「おばちゃん」と呼ばせること・・・など。 
   これにより、呼び名や形ではなく、人間関係、コミュニケーションや思いやりが、 本当の絆を 育むものだと、 現されています。
 
   ----- ☆ ---- ☆ ----- ☆ ----- ☆ ----- ☆ ----- 
 
すべては、モノの 見方(見解)、視点、受け留め方、捉え方次第・・・・・。
 
他人が自分をどう思うか ではなく、
自分がどう感じるか、  自分が自分に どう思うか、それが 肝要だ。 
 
 
 というわけで やはり肝心なのは、 ↑だと思う次第です。
 
 
 
 
2007/01/31

愛は、どこにあるのか?!

 
邦題 「愛への帰還」という本がある。 『A Return to Love』 というのだが、私が読んでいるのをみて娘が言った・・・。
 
「愛ってさ、そこにあるもんじゃん。。。 どうやって 戻れって言うのよ?!
 それとも、戻らなくちゃならないほど 拒絶してたわけ?!」 
 
そうそう、本来、愛というのは、見つけるものでも、与えてもらうものでもなく、
そこに・・・ 私達の ところに もともとあるものなのだ。
 
それどころか、私達自身が、愛そのものなのだ、という解釈もある。
これは、間違ってはいないと思う。
 
だが、、、、 自分達が「愛」という存在だということを忘れ、争ったり、傷ついたり、という 恐れの気持ち・愛の欠如を
あまりにも 周囲から見せ付けられ、自分のことも「愛」なのだよと、教えてくれる人さえも いなければ、
「愛」から 離れてしまったり、「愛」であることを 拒否しているような 状態で 生きていくことになってしまう。
 
愛は、、、そう、見失ってしまった愛は、 実は、すぐそこに・・・自分の内部のどこかに 隠れているだけなのだ。
愛は、私達の心の中にあり、愛は、私達そのものを生かすエネルギーの源だ。
 
☆私達の内部にある 愛が、私達の人生に「愛」を作り出す。それが、「天国」という意味だ。(地上に天国を実現するという言い方)☆
 
 
愛への帰還・・・・ それは、私達が 「愛」なのだということを 思い出すために、、、その道案内をしてくれるものなのだ。
 
2006/05/25

雑草、雨上りにて

引っこ抜くのが ためらわれたので、 そのままにしておいた 雑草の一つに、花が咲いた。
マメ科のような葉っぱと蔓が少し伸びていて、小さな薄紫色の花。 
スイトピーを思わせるが、もっと 淡く儚げだ。 
別の雑草からは、穂のようなものが 出て来ている。
雷雨の後、
今朝、 陽光を浴びて 雑草たちは、元気だった。 
 
実は、苗から育てたラベンダーが 2株、枯れかかったのだけど、なんとか 最近、緑が増えて生きてきた。 その苗に話しかけていて、ふと 思ったんだ・・・。
 
野菜も花も、音楽を聞かせたり、話しかけたりすると、綺麗に咲いたり、美味しく大きく実ったりする、って よく 言われる。 私も賛同する。
それで、これを踏まえて考えてみたのだけど、ってことは・・、植物にも 心があるのか?
=鉱物や植物にも、魂・魂の源に繋がるエネルギーはあると私は思うけど、= 
もし、心があって、何かを感じるのだとしたら、雑草にも、その心があるってことだよね。
 
心、感情があるかないか、私に証明をすることはできないし、どうしても結論付けたいわけじゃない。
でも、私たちは、鉱物の時代からは、じ~っと耐えること、とにかく、そこに存在し、耐える・待つ・そして、他者の役に立ったり、共存するために存在する(BE) ことを体験し学び、植物になると、そこから少し、変化して、状況・環境に応じて柔軟に対応していく、ただ、そこに存在するものの、鉱物よりは、生存するということを意識するように、(日光を求めて、とか、水を求めて、植物の茎や根は、動いていく・・・)なり、環境に左右されてではあるが、生命を維持することを体験し学ぶのだと思う。
そこに、感情があるのは?! 動物の、ある一定のレベルになってからだと、ある学者筋は言う。
((ライオンには、感情=怒りなど=が、あるが、蠍には、サバイバルのために反応すること=本能があるだけで、感情次第で行動するということは、ない。人間は、感情を意識して、結果を予測し、行動する思考がある・・・のだそうだ。))
だとすれば、
植物には、音楽や言葉に反応する、、、心・感情は、ないのかもしれないが、では、何によって、
大きく育ったり、美味しくなったりという差が 生み出されるのだろう???
感情・心では、ないかもしれないが、何か、植物の生命に備わっているエネルギーが、世話をしたり話しかけている人間の”エネルギー”に、反応するのだろうか?!  音楽は?!その音楽が奏でる波長に 反応するのだろうか???
 
雑草を抜くことは、、、もし、雑草に感情がないとしたら、可哀想・・・ではないのかもしれない。
でも、葉が伸びて、花がさいて、穂が出てきて・・・。
たとえ雑草でも、こちらの心の持ち様、エネルギーは、伝わるってことだよね、。
 
2006/05/17

人間が弱くなっているわけ・・・

除菌、殺菌って、何でも 除菌・・・ そして、なんでも 抗菌。 
 
衣料用スプレー、 洗濯機、 洗剤、 柔軟剤、 抗菌ボールペンまで!
 
そんなことしてるから、人間弱くなって来てるんだよ。
 
昔は、そんな除菌なんて なくても、 みんな 生きてきたよ。
 そりゃ、今よりも、 性質の悪い 伝染病とか、流行ったかもしれないけど、
今だって、いろんな病気が ある。 
あのね、
病気を治したり、病原菌を退治したりするのは、 外から ”注射” ”除菌” したって、
だめなの!
 だって、みんな 理由があって、そこに 存在しているんだから!
 
暗いところで電気つけるよね?! 
電気消したら、一応、見えなくなる・・・無くなったように 感じる・・・。
でも、そこにあるものが 消えたわけじゃない。 目が、暗さになれてくれば、また見える!
朝が来れば、電気つければ、そこにある、っていうのが、よく解かる・・・。
ね、除菌だって、予防注射だって、結局は、一時的に電気を消してるだけにすぎないんだよ。
 
人間 弱くなってる・・・
別に、 ジョギングしろ、とか、スイミングして体を鍛えろ、って言うのじゃない。
体っていうのは、 心・精神が 宿っているに過ぎない。
体をコントロールする 心、精神(脳じゃない!)が、肝心なんだよ。
だから、
なんでも、 除菌とか、予防なんとか、って頼りすぎない方がいい。
もちろん、 機械に頼りすぎるのも、どうかと思う・・・
精神を、心を、気持ちを、もっと 敏感に 感じられるように、そして、自分に素直になれるように・・・。
 
だってね、例えば、誰かのため、っていいながら、自分にウソつくのって、最悪なんだよ、最も酷いウソなんだよ。 自分がウソをついているってこと、自分では、よ~く 解かってるからね。
だから、病気になるんだよ。
除菌したって、何したって、 それは消えないんだから・・・。
 
2006/05/13

雑記 :Ramtha との再会

 ≪昨日の出来事≫
 
時々、情報の多さに、頭が痛くなる。
良い、悪い なんて関係ないんだ、って 自分では解かっていても、
精神世界を説いている人たちが、「これは、良くて、あれは 間違ってる、それは、だめ、」なんていうことを言ったり、書いたりしているのを見ると、疲れが ど~っと 肩にのしかかる気がする。
 
もう、随分昔に、八方美人は、やめたんだ。
誰からも・みんなから 愛される、 好かれる、 そんなのは、自分が疲れるだけで無理だと、あきらめた。というか、みんなに好かれる努力をするのを 放棄することにしたことがあった。
以来、ずっと、嫌われるよりは、好かれる方が良いけれど、無理して 自分を好きになってもらおうなんていうのは、私の在り方ではなくなった。
だから、誰が、何を どう 言っていたって それは、その人たちの考え方で、それはそれでいいのだし、
私と ぴったり 合っていなくたって 問題はないのだ・・・
それを 自分で知りえたことの方が、私にとっては大切なんだ。
だから、誰がどういう説教をしていたって、私は、見ざる・聞かざる・言わざる・・・でかまわないのだ。 
 
ふと 思った・・・・。
しばらく 考えるのをやめようかな~ なんて・・・。
疲れた・・・・。
どうしてもっと シンプルに 捉えられないかなあ~~~、 
 
そんな時、すごく久しぶりに ラムサの 本を目にした。  
ブログ上で 私がお邪魔したり、 また私のところに来てくださる アンナさんの本(【奇跡の起こし方】という本です。)を探しに書店にいて、その分野のあたりをウロウロしていたから・・・。 
結局、少しラムサの、その日本語訳の本を立ち読みしたけれど、昨日は、買うのをやめた。
 
※: ラムザ だと思ってきたけれど、それを訳した人は、ラムサと書いていた。 この Ramtha の存在を 精神世界のことに興味を持っている人なら、知っている人は、多いと思う・・・。
 
しかし、そこで 久しぶりに見た・・・ So Be It  ということば・・・・。
 
家への帰り道、 こんなこと ↓を思いながら、歩いた・・・。
 
You do what you have to do.
I do what I have to do.... I do what I came here to do.
So Be It.
There is no right or wrong. 
There are Only choices for creating ourselves.
So Be It.
 
もっと 人生 楽に考えられる方向があるのに、 どうして みんな 恐がらせるんだろう。
Fear と Love は 同時に同居できない。
私たちは、 Love なのに、 Fear を教え込まれると、本来の私たちの姿が消されて見えなくなるし、
思い出せなくなる。
良いとか、悪いとかっていうのは、すべて ものの見方次第なのに、、、、。
どうして、アレは駄目、コレは駄目、アレは間違ってる、これは悪い、って、善悪に分けるんだろう・・・・。
私は、自信過剰なのだろうか? 
------   それくらいじゃないと、自分の反論を、声にできなかも・・・。 ------
 
 
ああ、考えたくない・・・
 
夜、寝るときに、久しぶりに Ramtha の本を 開いてみた・・・。
※ : 私が持っているのは、英語の RAMTHA  INTENSIVE : SOULMATES  という本。
 
ramtha は、時々、きついことをいうけれど、的を得ているので、言われても傷ついたりしない・・・
それが、私の本を通しての ramtha への印象だ。 もちろん、会ったことはないけれど・・・。
でも、彼の人間への愛は、伝わってくる・・・。彼なんて書くと、性はない!って怒られそうだけど・・・。 
 
  The spiritual communication is   emotion.
  The voice of God is  feelings.  
 
  Never make a decision when you are confused.   Allow the answer to come.
 When you  allow  it,  the path will become clear because it will  Feel good.
  If it makes you happy, stay there.
 
そういえば、最近読んだ別の本でも、改めて言ってたよね・・・ 
 
 Feelings are the language of the soul.      
 
これもまた、私の basic だったなあ・・・。  
ありがとう、ラムザ。 やっぱり、私は私だね・・・。
 
2006/05/12

go back to my basics

約一週間前、ある人が、私に、
「It's time to go back to your basics, who you are & why you are here.」  と言った。
さて、、、どうしようか・・・。
 
偶然など この世にはない。  
もちろん、偶然を 偶然=取るにたりない、ただ そうなっただけのこと・・・と解釈するも一つの選択だ。
が、私は、そうではない。
偶然でも、なんでも、 全ては その人がそれをどう解釈するか、どう受け留めるか、そして それによってどうするか・・・・であり、私は、それが 人生の秘訣(健康であれ、平和であれ。)の一つだと思っている。
 
昨夜、突然 娘が、ホルストの ジュピターの英語歌詞を知りたいと言い出し、確か、うちにCDが
あったんじゃないか・・・と私に尋ねた。 どこかで聴いたことがある、ウチに在るんじゃないかという。
答えは、 イエス  アンド  ノー だった。
探したら、確かに、あったのだ、英語で歌う ホルストのジュピター・・・。 
ただ、私が見つけた我が家にあったCDの曲は、タイトルを 『 world in union 』 と言うもので、娘が求めていた 例の平原何某さんが出だしを英語で、あとを日本語で歌うものとは歌詞が違っていた。 娘は、こっちの方を探していたが、それはなかった。 この『 world in union 』が入ったCDは、二枚もあった。 確か、この world in union は、1995頃のサッカーのワールドカップ時の曲だったと思う。 各国の国家や応援歌(?)が収まったCDも当時、買ったのだが、それには日本の♪サクラも入っていた。もしかしたら、これにも world in union が入ってるかもしれない・・・(3枚目!)。
 それから、今朝になって、今年、NHKの【氷壁】の主題歌を歌った英国のグループ、リベラのCDにも、ジュピターが入っていたことを思い出したのだが、こっちは、world in union とは、歌詞が違うもので、タイトルを " I Vow To Thee My Country " という。 この曲は、英国ではかなり昔から、聖歌として歌われてきたようだ。
 
 さて、昨夜見つけた二枚のCD、World in Union の入っている一枚は、10年前、まさにこの曲が欲しくて購入したもので、歌っているのは、 Anna・Maria Kaufmann だ。 もう一枚は、その数年後、私が友人からプレゼントされた 南アフリカのヴォーカリストArina de Witt のCDだ。 贈られた時、目の前で 彼女が直筆のサインをこのCDの上にくれた。
 
なぜ、娘が急にそんなことを言い出したのか、理由は定かではない・・・が、ここしばらく気になっていたらしい。 そして、そのおかげで、私は、ここ数年、聞いていなかった Arina のCDを昨夜、そして今朝も聴いた。このCDには、いろんな曲、Ave Maria,  Colours,  Voices, Hallelujah, などが入っているが、私の 一番のお気に入り 【 I've always been a friend 】 を紹介したい。 
 
 
♪ I 've always been a friend  ♪
 
you've had to go away.
i know you would have stayed
if only there could be
between us a little bit of freedom
 
but I'll be here for you
and though it's hard to do
i'll be the one to hang on
i'll be strong
 
if you can tell me when
i will wait 'till then
if only you could see
what you mean to me
i've always been a friend
 
if you can tell me when
i will start again
in every fight you'll fight
i'll be right by your side
i'l stay there till the end
 
and after all these years
so many doubt and fears
why am i loosing you
why can't i be the one you dream of
 
but deep inside of me
i know there'll always be
a spark of light
i'll keep bright and i'll fight.  
 
----------    ☆    ----------    ★    ----------   ☆   ----------    ★   ---------
 
 
Arina は、とても美しいソプラノで歌う。 美しいのは声だけではなく、ルックスも良い。 美人だ。  
私の友人が、このCDをくれたのは、この曲が入っていたからだ。 
 
偶然など意味はない、と誰かはいうだろう。
でも、
この曲が、私のもどるべき basic の一つを思い起こさせてくれた。
偶然思い出した・・・と解釈する人もいるだろうが、私は、それなりの意味があって思い出されるように
導かれていたのだと解釈する。
待ってて・・・私は、私の心が癒される場所へ、もどっていくから・・・・ もう少し、待ってて・・・。
 
 
そうそう、〔私のこと③〕で、天使の本を読んだと書いたけれど、その中には、宇宙人というか、宇宙から地球に来ている人のことも書かれていた。 
(( 何のことか、解かる人は解かるだろう、そう、一部の、walk-in もそうだし、インカーネートして人間になっている人もいる・・・・。え?解からない!? ま、それは、解からなくてもいいのですが・・・。 ))
さて、私のミッションは?!
そんなことを考えていたら、昨日は、急に映画 〔 エリン・ブロコヴィッチ〕が見たくなって == コレを見ると元気になる!== そのビデオを見た。 その直ぐそばに、映画  〔 K-PAX 〕もあって、今日は、続けてそれを見た。 前にもブログに書いたが、この映画には、私の名前が出てくる。考えてみれば、父は、大そうな名前をつけてくれたものだ・・・・私はこの名前が大好きだけれど、、、、。
しかも、トリッキーなのは、音にすれば、同じだけれど、父はそのままの漢字を使っていないことだ。
彼なりの理由があって、漢字を当てているが、言われて見ると私のミッションにピッタリの名前・・・。
さあ、この名前を再度 耳にして、ああ、そうだったね、やっぱり、関係してるんだろうね、、と思った。
ある人が分析している、≪言霊に関係しているのだろうが、≫ インスピレーションによってつけられる名前というものの多くは、生まれてくる子供もしくは、ガイドが、これから生きていくうえで、その人生の目的、理由を秘めた、人生の糧・ヒントになるような名前がつけられるように、囁いているのだと・・・。
名前だって、”偶然”ついたわけではないということだ。   
だから、私の名前の 響きと、文字とを合わせると私の人生の方向が見えてくる・・・。
私の故郷は・・・・どこなのか、そして、私は 何のためにここにいるのか・・・・
しっかり意識してみよう・・・・。  
 
あなたの故郷はどこですか?
あなたは、何をするためにここに来たのですか?
あなたの人生で大切なものは、どんなことですか?
 
== おしまい ==
 
2006/04/10

あなたのことは、好きですが、あえて反論。

 
美輪何某さん、、、が、昨夜あるTV番組に出ておられて、こんなことを語っていた。
番組を始めから見ていたわけではないけど、気になったので書いてみる・・・。
いろんなコメントをなさっていた中で 私が 気になったこと 二点 :
 
①幸せは、長続きするものじゃない。  
 幸せ(な気持ち)というのは、充足感(満ち足りた気持ち)であるから、それは、ずっと続くものではない。 たとえば、お風呂に入って気持ち好い!って思っていても、一時間も入っていれば、上せてしまう・・・。 
 
 
②この世の中は、何かを捨てて(マイナスー)、何かを得る(プラス+)、ということで成り立っている。 
だから、好きな仕事をして、その上、それによってお金(収入)を得ることができるというのは、とても
贅沢なこと。 仕事の給料というのは、我慢料みたいなもの:、(マイナスー)苦労して、嫌なこともがんばって辛抱して、(プラス+)お金を貰う・・・。
 
------ というようなことを 話しておられた。
 
ところで・・・、私は、美輪さんのことは大好きだけど、(あえて反論・・・) ちょっと 違うと思う。
 
① 幸せは、どんな状態・状況になるか、なっているか、ということで測られるモノではない。
 幸せとは、その人が、その状況を どう捉えるか次第なのだ。
だから、例えば、温かいお風呂に入って幸せ・・・。
( そして、美輪さんは、一時間もしたらのぼせるだから、幸せは続かない・・・と言ったけど、)
 
確かに、のぼせてしまうと、幸せ~っていう気分は、どこかに 蒸気とともに消えてしまいそうだけど、
そのほかにも、◎温かいお湯が、蛇口をひねると直ぐに出てくる・・・幸せ、 ◎シャンプーや石鹸など、自分の好きなものを使える、不自由なく買える・・・幸せ、 ◎お風呂やシャワーからあがったら、
清潔なタオルで 体を拭くことができる・・・ 幸せ、 ◎清潔な自分の好きなパジャマで身を包むことができる・・・幸せ、 ◎風呂上りの、ビール、アイスクリーム、あ~ 気持ち好い!・・・ 幸せ、 
などなど、私たちの身の回りには、自分が、そうだと意識しないだけで、私たちの捉え方次第で、私たちは、いくらでも幸せの状態を保ち続けることができるのだ。= 幸せとは、自分が感じているその状態のことであり、自分がどういう状況に要るのか、何が起こっているのか、ではない。
 
 美輪さんがもう一つ、「大好きな人と一緒になって、その人に抱かれて幸せ!って思っていても二年・三年も、そんな気分は、続かないものでしょ、幸せというのは続かないもの、~ 」という例も出していたけれど、これも、同じように、捉え方・意識次第なのだ。 
”その人と結婚できて幸せ!”というような状態を幸せ、と呼ぶのではなく、その人が自分の人生の一部であることを幸せに思うことができれば、その人と抱き合っていようが、その人と向かい合ってコーヒーを飲んでいようが、その人と離れて仕事をしていようが、”幸せ”な気分でいられるものだし、好きな人に抱きしめられて幸せ、っていうことの 次には、その人と ・・・
(例えば) ◎一緒にご飯を食べられる、 ◎好きな人にプレゼントを選ぶ喜びを感じる、 ◎旅行に行く計画を立てるワクワクした気持ち、 ◎自分が風邪をひいて寝込んだ時に、好きな人が見舞いの花を届けてくれた感激、 ◎夜、星を眺めていたら、「元気?君の事を思い出していたんだ~」ってメッセージが届いて、嬉しくなる、 などなど、いくらでも、私たちの周りには、その好きな人を巡る”幸せ”があるのだ。 
 
 幸せが長続きしないのではなく、
 物事が、ず~っと同じ状態でいないだけなのだ。
 
状態が変わっても、幸せな気持ちを持ち続ける・自分の意識をその状態(幸せ)にしていくことは可能なのだし、本来、幸せというのは、 何がどうだから幸せ ということではなくて、 
自分がその何かについて どう感じるか、の認識次第なのだ。 
 
全ては移り変わる・・・それが、この世の条理de真理なのだ。
けれど、自分が幸せ (幸せだと感じる) であることは、 自分の置かれた状況にたいして自分がどう感じるのか、どう思うのか、どう捉えるのか (あれがない、コレがイヤだと不満を抱くのか、上記のようにささやかな喜びを幸せと受け取るのか・・・)は、その人次第だということ
 
 お風呂に入って気持ち好い!幸せ~ と思った次に、 「このバスタオルよりも、もっと大きい違う色のタオルが欲しいなあ~」と 欲を前面にだして 今もっているタオルの幸せではなく、そこにないものにフォーカスして(美輪さんが”幸せ”だと言っている充足感を、自らマイナス=不足感に変える瞬間である!) あれこれ、不満を数え始めたら、幸せなんて どんな 幸せが実はそこにあったとしても、あなたには、見えなくなる。  柔らかい、清潔なバスタオルがつかえるだけで幸せなのに、==想像してみたらいい、お風呂にもろくに入れなかったり、そのお風呂だって、薪を使って火をおこさなくてはならないような状況だったり、タオルも数が足りなくて使いまわさなくてはならなかったり、いや、それどころか、タオルがないこともありえる・・・== あれこれ、今あるものを感謝せず、ないものねだりをはじめたら、「アレが欲しい、コレが欲しい、」といっているうちは、目の前の幸せにだって気づけないだろう。
私は幸せだ・・・ と 感じる状態 (多分 英語の方がわかりやすいかな・・・) つまり、
 
I =happy  であるわけで、 I do happy、 じゃないのだ。
 
でも、美和さんの捉え方だと、 I do ●× = happy , I get/got △× = happy ということになる。
その do の部分は、 美和さんのおっしゃるように、長続きはしないのだ。
でも、 I feel happy  ではなくて、 I am Happy つまり ⇒ I = happy でいることは、可能なのだし、
本来の 幸せというのは、そういうものなのだ、と私は 思う。 
 
例えは、 
映画【エミリー・ローズ】 の エミリーは、悪魔に取り付かれて、かなり悲惨な状況に追い込まれ、
(単なる 精神異常患者と違うと、はっきりいえるのは、エミリーが ”正常”な状態であるときに、自分が”異常”な状態であることをきちんと把握し認識している点から判る、と 科学的な医者も認めていた。)
誰から見ても 彼女は 幸せな状態ではないように見えるし、 彼女も 聖母マリアに 「なぜ、こんな目にあうのか?」と 問いました。  彼女は敬虔なクリスチャンであったのに・・・。 
でも、聖母マリアの 言葉 (あえて、ここには書きませんが・・)によって、エミリーは、”幸せ”になった、と私は 思います・・・直にエミリーに会っていないので、推測ですが。 
なぜなら、マリアの言葉を聴いて、エミリーは、「このままでいる。」と 応えるのです。 
彼女は、はっきりと 『神が自分を見捨ててたのではなく、自分は、神に選ばれたのだ、この状態でいる意味、使命があるのだ、』と 自覚し、それを甘んじて引き受けるのです。 = とたんに、彼女の体の中の悪魔が反撃したことは、言うまでもありません。 = 彼女の魂・精神が、その 悪魔に憑依された状態を受け入れた、ということです。 この”受け入れた”ということが、 強いえて言えば 美和さんのおっしゃった ”充足感”に あたる部分ですけど、つまり、悪魔にとりつかれたような、悲惨な”不幸な状態”は、相変わらずだけれど、マリアと会った後のエミリーは、精神的には”幸せ”なエミリーでいたのです
 
さて、次は・・・ お金のことです。 
 
②好きな仕事をして、なおかつ、それで充分な収入を得ることができる、とてもぜいたくなことだ、と美輪さんは、言っていたけど、確かに、これは、贅沢な、ありがたい、”幸せ”な、事です、でも、これは、
決して、悪いことではないし、基本的には、”特別”なことでもないのだ。 
なぜだか、人間は、 好きなことをして、且つ お金をもらう ということに 罪悪感を抱くようになっているようで、社会的な仕組み、これまでの習慣において、そういう”考え方”が植えつけられてきた。
 
「好きなことをして お金をもらうなんて、二重の喜び= そんな、悪いことできない!」 という誤ったシナリオをみんな信じて、演じているのだ。  お金というのは、苦労しないと得られないもの、 幸せとか、欲しいものを得るっていうのは、何か苦労して・がんばって・そして、ようやく その ご褒美に与えられるもの・・・、苦労しないで得る”あぶく銭”は、よくない、という感じで、苦労して手に入れてこそ、意味のある・・・と、そんな風に信じ込んでいるだけだ。
 
 だた、それが、贅沢に思えるのは、つまり、『好きなことをして充分な収入を得る、』という状態の人が、それだけ今の世の中、少ないからだ。 だから、それができる人を羨ましいとか、特別だとかおもったり、場合によっては、そういう好きなことと高収入が結びついている人を 妬んだりする。
 
その証拠に、”好きなことをして良い収入を得る” というのではないけれど、世の中、不景気になると、公務員を叩く風潮がある。 景気の良かった・良い時期は、一般的に”高収入”とは、間違ってもいえない公務員を 誰も、羨ましいと思わないし、公務員の給与のことを とやかく言う人はいない。 なのに、不況になったり、民間企業(いわゆる中小企業で、経営が行き詰まっているとか、銀行から上手く借り入れできないとか、不況に関連して、職を失ったという人が多いエリア。)で収入が落ち込んでいる(落ちていなくても、上がらない・・とか、)という人口が増えてくると、それまで無視していた公務員を叩き始める。 一方で、不況の最中にあっても、子供を持つ親が、子供に将来就いて欲しい職は?というと、公務員が上位に来る・・・これは、つまり、公務員は”収入や社会的地位が安定している”から、景気の良し悪しに関わらず、安定した将来を子供には与えたい、ということなのだろう。 つまり、決して高収入が望めるわけではない公務員だと、誰もが解かっているはずなのに、一般の状況が悪くなると、その”安定しているように見えている”公務員を、給与を減らせとか、年金を減らせといって、苦しい社会状況なのに、痛みを感じないでいる公務員は、悪者だといわんばかりに、引きずり降ろしたくなるのだ。 ここにも、お金は、苦しまずに貰っていたら、悪いもんだ、という誤った価値観が観られる。
私は個人的に、日本の政権が、あんなにコロコロ変わるのに、経済成長を続け、酷い社会混乱も起こさず、日本が戦後、こうやって”水と平和はただ(無料)”といわれるような状態になってこれたのは、元来、日本人というのが、まじめで、一生懸命働くという民族性をもっているからで、その日本人の”公務員”が、「お役所仕事」と陰口を叩かれつつも、それなりに働いてきたから、≪中央官庁の”役人”は、威張るばかりで、国民の税金を無駄遣いしていると 責められているけれど、≫ そういう役人が、彼らなりに真面目に働いてきたからこそ、政府が変わっても、日本が”社会事変”を起こさずにここまで持って来たのだと私は思う。
 なのに、都合が悪くなると、公務員が悪い!ずるい!といわんばかりに、叩くのは、それこそ 卑怯・アンフェアだ。 もちろん、公務員だろうが、民間の会社であろうが、その中には、真面目な人も、イイカゲンな人もいる。熱心に働く人、人当たりの好い人もいれば、適当に世渡りをしたり、汚いやつといわれている人もいるだろう。 それは、どの仕事であれ、同じだと思う。
なのに、税金で給与を貰っているから、という理由で、叩くのは、お門違いだ
なぜなら、「子供に就かせたい職業」で親が公務員を選んでいるように、つまり、公務員と言う仕事が、”良い仕事”のように見えているからで、それによって、公務員になりたいという人が(給与の安定か、社会的安定を望むのか、人の役に立ちたいのか、動機は、人によって異なるだろうけれど・・)、いて、その人たちが、それなりの”試験”を受けて 公務員になるわけだ。 == 学歴社会といわれる今日、大学受験の偏差値うんぬんで、ランクの高い大学に受かった時や、卒業した人に対して、羨望の眼差しをおくり、この大学のランクについては、誰も文句を言わないのに、== この受験同様の、公務員になるための試験を 通って、その職に就いた人に対して、後になってから、ズルイ!と評するのは、ヘンだと私はいうのだ。 
 公務員を羨むのだったら、そういうその人も、公務員になればいいのだ。 でも、その人は、なんらかの理由で、別の職を選んだわけで、それなのに、 ≪大学などに関しては、本人達の選択でその後の道が変わっても誰も文句を言わないのに、≫ 職、つまり、収入=お金が絡む段階になると、個人の選択によって&試験によって得られたモノ(公務員という職)なのに、それを選ばなかった人たちが、それに対して、ズルイ!といい始める、しかも、不況の時に限ってである。 景気の好いときには、公務員の給与が、民間ほどに上がらなくても、誰も、公務員の給与を上げてやろうなどとは提案しない。なのに、景気が傾くと、一気に公務員(地方はどうか、わからないが、少なくとも国家公務員は。)の給与水準は引き下げられる。そして、民間は、その企業の業績次第で、業績が上がると給与がそれに反映されるのに対し、民間の企業がアップしてきても、公務員は一度下がった給与が、民間が上がったからといって元に戻ったり上がったりはしない。 
私が言いたいのは、このシステムのことではなく、人間・この場合、一般的日本人が、自分の状況が悪くなると、自分よりも良い状態でいる人や安定している人の足を引っ張ることを”集団”で、平気で行うということだ、そして、それは、”お金を苦労しないのにもらえるのは、オカシイ”という 卑屈な誤った価値観から、もたらされている、ということなのだ。 
景気の悪い民間の中小企業や、職を失った人と、痛みを分かち合え!と 公務員を攻めて、言っている人を観たことがあるが、それは、ヘンだ。 仮に、不況になても安定しているから、公務員という職が”親に”人気があるわけで、その不況でも大丈夫だという安定があってこそ、彼らは、しっかり仕事ができるのだ。 不安定な状態で、国のために仕事ができるか?! 日本は、この真面目な民族性が、公務員という安定した職で生かされた人が多かったからこそ、戦後、議員があれこれ揺れても、政府がコロコロ短命で変わっても、国家が安泰だったのだ。     ---と私は思う。
 ((*もちろん、公務員の中にも、冗談でしょ!と思うような態度の悪い&仕事に不誠実な人もいることは知っている。私自身、役人の横柄な態度に腹を立てたこともある。でも、だからといって、収入をどうのこうの、と結びつけるのは、オカシイと思う。))
ちょっと、公務員の方に、話がずれてしまったが、つまり、
 
お金・収入を得る ことは、好きなことをしていようが、 生活のためと割り切って、好まない仕事をして我慢料みたいな感じで仕事をしてようが、どちらが 好いとか悪いということはないということだ
苦労してお金を得ていても、苦労していなくても、それは、どちらも同じ、良し悪しなどないのだ。
だから、好きなことをして稼いでいるからといって、他の苦労している人に、申し訳ないなどと思う必要は、少しもない。  
そして、それゆえ、
【 何かを捨てて・我慢して・辛抱して、苦労して、 その代りに、
 お金なり何なりの対価を得ることができる、 】 という考え方は、オカシイ。
もちろん、この考え方は、お金に困っている人、苦労している人、には、指示されやすいだろうけれど、だからといって、苦労したから、報われるという図式が 必ず 万人に当てはまるわけではないのだ。 だとしたら、やはり、「捨てて、得る」 「辛抱する(-)、そして 報われる(+)」ということは、
単なる プラス+、マイナス- であるけれど、宇宙の摂理ではない。 一見、因果応報に見えるけれど、”捨てて得る”のではなく、宇宙の摂理である因果応報は、与えて&もらう ものなのだ。
 
 私は、美輪さんのように、「苦労して、辛抱した、我慢料が お給料なの」という考え方はできない。
もちろん、今の世の中、「楽しみながら、好きなことをして働いて、且つ、収入を得られる。、」というのは、少数派だろうし、好きなことを続けたくても、それじゃあ食べていけないという理由で、好きなことをあきらめたり、 生活のために、不本意でも仕事を続けていると言う人は、世の中、大半を占めるだろう。 でも、ここで 勘違いしてはならないのは、≪大多数の人がそういう状態だから、それが・その状態が世の中の、真の姿、本来あるべき姿、”正しいあり方” である≫ワケではないという点だ
 
【赤信号、ミンナで渡れば恐くない・・・】とか、【民主的に、多数決で決める、】に 代表されるように、大勢の人の有り様=正しい状態 という図式を 当たり前のように思っている人がいるかもしれないが、決してそうではないのだ。  大勢の人が そうしているから、 そう思っているから、といって、
それが、人間社会の仕組みの、 ”適切なあり方” だったり、”みんなが好む状態” だったり、
”人間らしい生き方” だったり、強いて言えば、つまり、”正しい”こと、とは 限らないのだ。
 
好きな仕事をしている 、ということは、すでに そこで (プラス+) 喜び=充足感を得ているのだから、 お金を その上、、貰おうなんて、思ってはいけない、、 お金を貰わなくても、充足感を得ているのだから、それで いいだろう!、 世の中、みんな 嫌な辛い仕事でも、我慢して、それでようやくお金を(我慢料として)貰っているのだから・・・ というようなことを、美輪さんが、ゲスト(?)の人に対してコメントしていたけれど、 これは、 ちがう! 好きなことをして 高収入を得ることは、悪いことでもないし、少数派だからといって、多数派(苦労して、対価・我慢料としての給与を貰う、)に 頭が上がらないような気分にさせられる、そんなことはあってはならない。
むしろ、そのゲストの人が言っていた ≪好きな事をしていて(=している本人に喜びが伴う仕事)、ただ、その結果として、収入がついてくる・たまたま高額になることもありますね~、≫ ということが 本来の、「因果応報」なのだ。
【何かを失って(-)、何かを得る(+)】  という 美輪さん式の 【 苦労・我慢(-) して、給与を貰う(+) 】 ではなく、 好きなことであろうと、なんであろうと、その人が、どこかに give 与えているもの :目に見えるものとは限らない: 笑顔だったり、熱意だったり、差別のない開かれた気持ちだったり、ユニセフへの募金だったり、そういういろんなものが、 巡り巡って take に変わるのだ。
これが、本来の 成り行き= 与えたものが与えられる、 因果応報なのだ。
 
 
というわけで、
美輪さんのことは好きだけど、昨夜(土曜の夜)見た 番組中の コメントは、どうも、私には納得できないものでした。 ゆえに、 反論させていただきました~。 
 
2006/03/23

日記 : はじめまして

10年前に知り合った友達Kは、私の、滅多に会わないけれど親友と呼べる人で、
その友達Kは、私のメールアドレスを持っていてーーー。
その友達Kが、私が11年前に知り合ったある知人Sと 私&別のMという共通の友人がいた縁で数年前から行き来するようになった。
数週間前、その知人Sのところにやってきた婦人Aが、あるセミナーのため日本に行くと知り、知人Sは、日本には、宇宙がいるから、会ったら好い・・・、と話をした。 
Sは、私のメールアドレスも電話番号も知らないので、Kに訪ね、KからSへ、そして 見知らぬ婦人Aに、私のメールアドレスが渡った。
このいきさつは、すぐにKから私のところに伝わった。 
 
そんなことを忘れかけていた今日、その婦人Aから、いついつ日本に到着するから、もし時間があったらコーヒーでも飲みましょうと、連絡が来た。 
残念ながら、彼女の訪日予定は、短く、しかも私の住んでいる所から、遠い場所が訪問目的・場所だと判った・・・・。ちょっとや そっとでは、コーヒーのために訪ねていける距離ではない・・・。
婦人Aからのメールには、日本で彼女達が会う予定の人Mの連絡先が書かれていたので、私は、まず、そちらに接触を試みた。 彼女の携帯電話の番号もあったので、国際電話もかけた。
あいにく、両方とも、留守番電話だったので、見知らぬ日本人Mには、婦人Aの件です、連絡くださいと残し、婦人Aにも、かけなおすから、とメッセージを残した。
 
 会ったことのない 見知らぬ婦人Aと、見知らぬ日本人M。
その後、その2人と、今日、電話で話をすることができた。
婦人Aと 日本人Mは、お互い、あったことはないが、共通の関心事があるため、ここで線が繋がっている。
私は、婦人Aに、会いにいけないけど日本滞在を楽しんでください、Mさんにも連絡をしました、お国に帰ったら、知人Sにヨロシクと・・・、
日本人Mには、婦人Aに会ったらヨロシク伝えてください、と話をした。
 
「はじめまして・・・」と 見知らぬ人 2人と、話をした。  
顔も知らないけれど、新鮮な 出会いだった。
私達を繫ぐものは?????  
友人Kも、知人Sも、そして 私の会ったことのないけれど 今日、言葉を交わした2人とを繫ぐものは?!
『 we are all one  』という 一つのメッセージ・・・・。 
 
 
2006/02/28

覚え書き・  精神世界より

 簡単な例題、そして練習問題から、応用問題へと移っていく・・・ 途中でやめる事もできるけれど、
でも、その問題の解き方が きちんと 理解&把握されていないかぎり、また、いつか 同じパターンの問題に当たる・・・。 あ~、  how far we have already come ・・・        忍耐は、信頼の別名だよ・・・。 
 
 
 
Do not see anyone as a victim and refuse to label anyone as a villain.
People are just acting in dramas being played out so healing can occur.
 
REMEMBER ; GOD DOES NOT MAKE MISTAKES!
 
 
 
 
2006/02/17

さあ、今日も・・・・

 
 
何気なく、毎日が過ぎていくけれど、、、
どうせなら、、、楽しい方が好い。
同じ 一日なら、 嫌なことや 悲しいことも、 ”止まない雨はない”の言葉どおり、
どうにかなるさ~と、 これも人生の一ページ、として楽しむくらいの気持ちがあったら、
過ごしやすいだろう・・・。 
 
* 今日のことば :
 
I  will  trust
and
enjoy  life's  process.
 
 
今日は、雨でした。 降ったり止んだり、細々と 雨が降っていました。
近所のお店で バスケットを見つけました。
ピクニック用の藤籠のような、蓋のついた四角いバスケットです。 
内側には、ピンクのチェックの布が張られています。 
ひと目見た途端、買いたい!気持ちがムクムク 沸き起こりました。
妹達が住んでいる場所の近くに、毎年、桜の並木があり、花見が楽しめるところがあります。
きっと 今年も出かけるでしょう。
ピクニックに使わないとしても、何か、小物を入れておいてもいいのです。
特に、誕生日などの理由はないけれど、妹へプレゼントするのに、買いました。
毎日、育児、たいへんだね、
・・・たまには 青い空の下、緑の草の上、桜の木の下で、ピクニック気分も 好いと思うから・・・。
そうそう、 衝動買いも、、、人生の楽しみ!な~んちゃって・・・。
 
2006/02/15

全てにおいて・・・

 
  
 
ALL  THAT  I  GIVE
 
I S
 
GIVEN  TO  MYSELF.
 
 
 
 ⇔       ⇔      ⇔      ⇔   
 
 
 
☆ What you give, what you get ・・・ ってことですね。
  人にした親切は、いつか 自分のところに返って来ます・・・。 みんな、仲良くしましょうね。
 
2006/01/14

人生を考える機会

  
Q: あなたは、自分が、エイズ、つまり HIV+ のキャリアーかもしれない、と思ったことがありますか?
 
とはいえ、エイズ というのと、HIV+というのは、同じではないのですよね。
HIV+ の人が、エイズという症状を発症させる可能性がある・・・ということです。
受験者は多いけれど、合格者になるとは限らない・・・っていうのと 似ている?!
 
さて、最近見た、ドラマで、 かつての恋人が、突然、連絡してきて、「話したい事があるの。大事なことだから、連絡待ってるわ。番号は、 XXXX~」と留守電に残すのだが、オトコ J は、連絡をしなかったため、彼女が彼を訪ねて来て、『大事な話』を打ち明ける・・・。
 体調を崩した彼女、医者にかかって判明したのが、エイズを発症した・・ということだった。
 が、自分がHIV+ のキャリアだったとは、その時まで知らなかったわけで、彼女にしてみたら、
 (おそらく”薬”の時に廻していた注射針から感染したのだろうと本人は推察するが・・・)
はっきりいつから自分がそのキャリアになっていなのか、判らない。 彼 J と関係を持つ前だったのか、後だったのか、はたまた彼から移ったのか・・・。 とにかく、検査して欲しい、するべきだ、あなたの新しい恋人のためにも・・・。というのがk連絡してきた昔の彼女の言いたいことだった。 
結果、オトコ J も、その今の恋人も、考えた末、検査を受けることにし・・・・・。
 
さて、上の Q の私の答え、
A: 私はあります。   もう、随分前です。20年前くらいかな・・・。 80年代半ば、日本でも
あれこれエイズについて取りざたされました。 (薬剤エイズ問題の、もっと前です。
私は、あの時、もし自分がキャリアで、いつかエイズになったら、どうしよう?! と 本気で心配しました。 真剣に悩みました。 もし、そうなったら、(あの頃の私は、)友達にもいえないだろうし、いや、友達は、去っていくだろうし、実家にも帰りづらいなあ、、、世間の目っていうのがあるから、まずいだろうなあ、頼みの綱の実家を頼れないとなると、どうしたらいいんだろう、仕事を続けられるのかなあ(発症して、体調を壊したら、OL・仕事を続けるのは、大変でしょう?!)。
なぜ、私がこんなふうに頭を悩ませたか(ニュースを見るたびに1人で自問自答、ドキドキの日々・・)というと・・・・・
なぜなら、当時、付き合っていた人が、その人のそれまでの人生で、safe sex だけをしてきたとは考えられないし、彼と、プロテクションなしでのセックスをしたことがあったからです。
この人を除けば、感染するルート(可能性)は、ほぼゼロでしたが、その彼に関しては、???でしたから。 
 ところが、メディアからエイズが、薄れるにつれ、私の中の危機感も、消えていきました・・・。
あのときの、私は、エイズになったら、どうやって生きていったらいいんだろう、、、とそればかり考えていました。親や、世間から 締め出され、独りぼっちになったら、どうやって生きていけるのだろう?!と。
 
 
さて、ドラマでは、結局、オトコ J と現在の彼女は、HIV- でした、が、今日の御題はこれではありまえん。 
 
-- 本日の御題 : それは、---
彼らはこの”HIVかもしれない”と知り始めてから、彼らの人生は、一転しました。
私みたいにどうやって生きていこう・・・ではなくて、 これまで、どんな人生を歩んできたのか?!を
彼らは省みたのです。 そして、死ぬかもしれない病気にかかる可能性を考えたこと、それは、彼らのこれからの人生についての、考え方も、変えてしまいます。
嫌なことや辛いことがあっても、【 生きているだけで素晴しいんだ、生きていることが喜びなんだ、】 
と、気づいたのです。 
これからの人生、日々が、これまで考えていたものと違ったものに見えてきたということでしょう・・・。
  
  今回のドラマの中で、オトコ J に会いに来た前の彼女は、もし、自分が彼に移してしまっていたとしたら、、、という懸念から、責任を感じて”大事な話”を打ち明けました。そして、それは、オトコ J が恋人に対する責任でもあるのです、『HIVだってことを知ることに、いったい何の意味があるんだ?!いつか、爆弾のように破裂するまで放っておいても同じじゃないか!?』と J は、一時期やけになりますが、この場合、”知っている(自覚する)こと”は、とても大切なことなのです。 なぜなら、無知でいることによって、他人を巻き込むことがありえるからであり、防げるものを防げなかったり、自分の健康管理にも影響するからですね。 
 
たいてい、自分のことを不幸に感じると、誰かを責めたり、卑屈になったり、どうせ自分なんてとか、逆に、なんで自分が?!と怒り、世間にたいして皮肉になったりします。でも、
本当に、この”不幸な転機”を 人生を考える好機と考えて、振り返るとき、オトコJ の所にやってきた彼女のように、他人にも同等の責任と思いやりを持つようになると、思うのです。
だから、ドラマの中の、オトコ J が、恋人に 「もし、俺から君に移してしまったとしたら、すまない。俺が馬鹿だったんだ・・・(プロテクションを無視したこと)」 と、謝ります。ここまで、達して、初めて、彼らは、人生を振り返り、人間らしく、生きるということに気づくのでしょう。 自分の人生が大事であると同時に、他人の人生も大切だ、と思えるようになる、それが人間らしいってことだと思います。
 
 
 あるとき、私の知人が、テレビ出演した時に、語っていました・・・「 みんなが、みんな、そんな辛いレッスンを得て、人生の尊さ、生きていること(生きているという時間をもっている)喜びを再発見する必要はない。 そのために、私は、こうして話しをしているんです・・・。」 と。 それは・・・、
多くの場合、人々は、何か大事故とか、大病とか(ドラマでもありますね、癌と告知されて・・・などなど)、人生の危機に直面したり、大切な人を失うという苦悩といった人生の転機をきっかけに、人生とは何か、なぜ生きているのか、どう生きればいいのか、などと、これまでを振り返り、これからをみつめる・・・・ものです。
でも、必ずしも、全員がそういった悲劇や苦悩を体験しなくても、人生というものを考える事ができるはずなのです。 
別の言い方をすれば、今、世界中で起きているいろんな悲劇・惨劇、個人的なレベルでの、不幸な出来事というものを、他人に起こったそういうことを 見聞きすることで、わたし達は、幸いにも、それらから、彼らから、学ぶことが出来るのだと思うのです。
「あ~、自分じゃなくてよかった~」と 安堵するだけではなく、もし、そういうことが自分の身の上におこったとしたら、どうなのか?!を考え、人生の儚さ、わたし達がもっている今生きている時間がかぎりあるものだということ、を肝に銘じて、生き方を考え、人間性を考え直して 生きることが 現代社会に、とても必要なことだと私は、思います。 
 
≪自分にして欲しいことは他人にもすること = 優しくしてほしいと思ったら他人にも優しくすること、≫
≪与えられたこの世で生きている時間を無駄にしないように、他人の人生も、自分の人生も同じ・・・互いに、大事にしよう、≫  
≪自分らしく生きよう、= 自分を受け入れて欲しかったら、他人もことも認めよう、≫ 
人間らしく、互いを思いやって生きていきたいものです。 
 
さて、 娘を妊娠した時、豪州ではHIV検査も血液検査に含まれていたので、あの時の自分の心配は、豪州で、クリアになりました。 
--- その後のことは、わかりませんけどね^^。 ---
 
 
 
2005/11/12

今日のひと言

 
 
Beliefs create Behaviors.
 
 
 
 解説は 後ほど・・・。
 
 良い週末をお過ごしください。
2005/11/02

機会 ・ 選択

 
 
  あらゆる場面の わたし達の課せられた選択 は、 
  その選択によって、わたし達が 何者であるかを 表す チャンスでもある。
 
  
  選択する時 = 機会 opportunity  を与えられている時
 
  
  食べるとき、 人と接する時、 読む本を買う時、 怒り方、 笑い方、 話し方・・・すべて・・・。
  どんなふうに 自分が 生活をするか・・・ すべては わたし達次第 = 選択次第だから・・・。
 
  

違い ・ 選択 

 【 いつも考えること 】
 
 それが、 出来るから といって、 それを しなくてはならない、 わけではない。
 
 
 それが、 あるから といって、 それを 使わなくてはならない とは 限らない。
 
 
 それが、 作れるから といって、 それを 持たなくてはならない ことにはならない。
 
 
  わっかるかナ~~~???
 
 
手がある・・・ 目の前に マッチがある・・・ 
その手で、 マッチを 擦る・・・・ マッチを することが出来る。   
 
だからといって、 マッチを 手当たり次第いつでもどこでも何にでも 擦るのか?
使い方しだいでは、 大やけどになる。 
使い方を知らない場合は、役に立つはずのモノも、何の役にも立たない。
 
 
テレビがある・・・  スィッチを押して どの番組を見るか? いや、 つけずにおくこともできる。
 
手がある・・・  その手で、 誰かを 叩くか? 握手するか? 
 
核兵器 ・・・ 造る技術を持っている、 だからといって、それを 作らなくてはならないのか?
 
 
 
目の前に、チョコレートがある・・・ 食べなくちゃいけないのか? ・・・ いや、今は、ガマンしよう!!
 
そういうこと・・・・。
責任をもって選択する。 
 
☆ チョコレート、おやつの時間に食べよ~っと!     
 
 
 
2005/10/30

ウィルスはそんなに怖いか?

 
今日、某TV番組で、ウィルス感染の恐さというものをやっていた。 
日本人にはその危機感が少ないのだそうだ。
1970年代から、 それまでになかった 病原体・菌・ウィルスなどと接触がふえ(以来30個ほど)て来たそうだ。 新種なのではなくて、人間が それまで未開だったところ(ジャングルとか・・・)に入りこんだり、開発したりしたことによって、新たに”野性動物”とそれまでとはちがう接触の仕方をするようになり、つまり、人の世界と 行き来するようになったってことらしい。 エイズも、サーズも、そういうものだと。 私は学者じゃないから、 そのウィルスや ばい菌や、 病気についてあれこれ言うつもりはない。
 
ただ、思うのだ・・・。 つまり、、それって、すべて 人間の驕りが 原因なんだろうな~と。 
 
天然痘が撲滅された、とか、インフルエンザのワクチンがどうのこうの、、とか、人間は、様々な人体への悪影響を及ぼすもの(病気になって、場合によっては死んでしまうようなモノ・・・)に対して、研究を重ね、ワクチン開発、予防接種などの対策を取り、その”悪影響” =たとえば、天然痘、をやっつけるために努力してきた。 その努力を 悪いとは 言わない。
 
でも、思うのだ・・・。 もともと 自然界に あったそういうものをコントロールしよう、支配しよう、撲滅させようなんて そんなことを 人間はしてよいのか? それって人間のおごり高ぶった考えに過ぎないのではないか~と。 
 
番組で紹介された こわ~い症状を引き起こす原因となる 菌 が、日本にも、わたし達の身近にも、あるという・・・・。 ペットに キスするなんて、危ないですよ~とも言っていた。(ウィルス研究の第一人者である番組に出ていた細菌のスペシャリスト博士が、あれこれ恐いことを話していた・・・)。
たしかに、症例を見ると、『うん、日常のどこにそういうものが潜んでいるのか、解からない・・・』とおもわなくもない。 サーズにいたっては、結局 ハクビシンじゃなくて、コウモリが原因だったが、世界に広まった原因は、たった一人の医師が、自分自身が感染していたことに気づかず香港という都会へ出てホテルに泊って~~というルートをとったことだという・・・空気感染じゃなくて、おそらく洗面所とかを共有した(機内のトイレとか、ホテルのフロアのエレベーターのボタンとか、)ことで広まったと・・・詳しく教えてくれた。 この医師は、ハクビシンを食べるという中国のある地域での 患者さんを診た医師なのだろう、原因はコウモリだけど、人へは ハクビシンから 移ったわけだ・・・。 ハクビシンを 食べるな、とはいわない。
 
言わないけど、思うのだ、、、人間はいろんな動物を食べて生きている・・・。 私達は、動物の肉を食することを当然のように考えているけれど、それって、そんなに無神経でいいことなのかな?って。
食べるってことは、その動物の命を貰っているってことなのだ。 
単に、食事の前に 『いただきま~す』っていうだけじゃなくて、『 thank you father for this food ~』ってお祈りするだけじゃなくて、 普段から、私達は、もっと 食肉に対して 感謝の気持ちをもつべきなのではないだろうか?
 
ニワトリだってそうだ・・・。 生きているんだ。 人は、中絶したことを嘆いたり、中絶は命を絶つことだとそれを非難したりしているけど、誰も、ニワトリなどの ”卵”を 食することを 責めたりしない。 それどころ、人工的にクローンや遺伝子操作した豚だの羊だの鮭を作って、それを市場に出そうとさえしている。  狂牛病の時にようやく問題になった 肉骨粉、、、想像してみて欲しい、あなたは人間の部位が砕かれたものが混ざっている料理を進んで食べたいと思うだろうか?!
 
 
ウィルスだろうが、 恐いバイ菌だろうが、牛も、ネズミも、みんな この地球上に存在している理由があるのだ。 
海中のプランクトンから、狼や 鯨に到るまで みんなそこにある、影響しあうこと、生きていることでバランスが取れるのだ
人間が、勝手に 自分たちにとって 悪影響だから、といって コントロールしたり消し去ろうとしたりする権利は、ないはずだ
 
 
ウィルスが恐い、ばい菌が恐い、インフルエンザや サーズが恐い、狂牛病が恐い、鳥インフルエンザが恐い、 etc. etc. という前に、私達は、自然界の 生き物に対してもっと 謙虚になるべきだ
 
ウィルスが恐いという前に、 わたし達が 食べるために そこに存在してくれている 牛、鶏、を初めとする生き物、魚介類も 野菜だって・・・、そういうものに 感謝の気持ちをもつべきだ。 
 
そうやって 相手(人間以外の生命体)の気持ちになる・・・ことで、ウィルスとも 仲良くやっていけると 私は信じている。
 
『恐れるものなど、何もありません。 すべては 理解されるためにあります』 by キュリー夫人
 
ウィルスの気持ちになるのは、難しいかもしれない、理解するのは至難の業だろう、でも、少なくとも、
人間が ”これを 亡くせばいい、撲滅させよう!” ”再生させれば、もっと儲かるぞ!”などと おごり高ぶることをやめることで、 自然界と ”気持ち”を通じさせることができると、私は信じている。
 
ウィルスを恐がる前に、 わたし達、人間は、 他の生き物に対して、謙虚になるほうが 予防の近道ではないか、と思うのだ・・・
 
〔了〕
追伸:
私達は、 自然界から学ぶことがまだまだ山ほどある・・・それは 技術の進歩のためではなく、
わたし達の 精神的なもの、生き方= 息の仕方、そのもののためである。
飽食の時代、ではあっても、飲料水さえ ままならない人々がまだ世界には多数いるのだ。
先進国のスーパーマーケットに 山と積まれている食品・・・。 腐ったら、捨てる、食べ残しも捨てる、そんなことが 当たり前 と思われている・・・。 はたして???
必要以上の食べ物を殺さない・・・ 弱肉強食の 動物達の世界の 常識だ。
わたし達も、これに習うべきではないか? もともと、人間もそうなのだ。 
生まれたばかりのあかちゃんは、自分が満足すれば、たとえ ボトルにミルクが残っていても、母乳が溢れていても、 飲まない。 離乳食のころも、まだ、 満腹感を覚えたら、それ以上、食べない。
((赤ちゃんが、乳首を話したら、無理矢理それ以上飲ませなくてもいい、などと指導されたお母さんもいらっしゃるのでは?! 飲む量、食べる量を 数字や見た目で気にするのは、大人の方だ。))
ところが、、、、大きくなるにつれて、胃袋が満足していても、”目”が 欲しい、食べたいと訴えるようになるのだ。 必要以上の 食物を買わないように、食べ残しのない量を調理するように、(エンパナ~ダ、作りすぎたけど・・・)、なるべく 食べ残さないように、 日々、努力する私です。 
 
 
2005/07/17

パウロの話?!

 
パウロの話じゃないけれど・・・・ 
 
そうそう、 乗り越えられない 壁・ 問題 なんて、ないんだよ~
 
壁の厚さも高さも、壁が続く左右の距離も わからなくて、 
 
いざとなったら、横ヵら 廻ったっていい・・・ 急がば回れ、ってね。 
 
 
次から 次へと いろんな 問題が やってくる、 一難去って また一難。。。 
 
でも、それって、 1つ乗り越えられた証拠だし、 次の、更なる 困難に立ち向かえる準備が整った、ってことだったりする。 モノは、考えようだ・・・。
とはいっても、もちろん、問題や困難は、ないければ、ない方が、ありがたいですよね。 
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
今日は、ひさしぶりに 近所の喫茶店(カフェ)で、 アイス ティ・フロート を味わった。
ガムシロップを加えたら、一瞬、甘い!って思ったけど、よ~くかき混ぜたら、甘すぎず、ちょうど良い
濃さの ティー になった。  ひとり、(エアコンの効いたカフェで^^)読書。 たまには、珈琲じゃなくて紅茶系もいいもんだ。  また、行こう~っと!! 
 
 
2005/06/13

理屈ではなくて・・・

先日、 BSクラシック・クラブという番組で チェンバロの演奏を放送していた。 曽根さんという方が バッハを弾いていた。 家事の合間、テレビを消す前に他のチャンネルで何をしているかな、と思っていたら、 この番組にあたった・・・というか、チェンバロの音で、手を止めて、そのまま番組が終わるまでテレビをつけていた。 

ガボットが流れた時、ふと 思った・・・・ ああ、踊ったことあるなあ、ゼッタイ・・と。

そういえば、メヌエットもそう感じる。 ピアノで弾いたことがあるからではない。 

意外と誰もがそうなのかもしれないが、メヌエットを聴いた時、すごく馴染みがあった。

 いくつ前の前世かわからないが、メヌエットも、ガボットも その頃、聞いていたし、踊っていたのだ、と思った。

『初めて来た場所なのに、以前、ここに来たことが、此処に居たことがあるような気がする』という話しを聞くことはあるが、私自身、そういう経験はまだない。

前にも書いたが、中国、韓国といったアジアには、明確な理由は自分では解からないのに、無性に”行きたくない”という気持ちがあったり、逆に、その名前の響がとても心惹かれるものだったり、名前さえ知らないのに、見たポスターの景色が懐かしいようなどこかで見たことがあるような、そんな気がしたり、そういうことは、何箇所かある。 生まれてからそれまでに、単にどこかで実は、見たり聞いたりしたことがあって記憶に留まっているからに過ぎない、ともいえるが、理屈抜きに心惹かれるもの・・・若しくはその逆、というものがある。

小学校の時に音楽で習い歌った ♪「ボルガ~の流れは、はてなく続き~ 今宵も 宴は 妖しく 響く ~」 という曲。(曲名は忘れた)。唄うたびに、涙が出そうになった。他の級友がどうであったかは、解からない。が、ステンカラージンが、ひとり、悩み、乙女を海に投げ捨て殺さなくてはならないことを決定する、それを思うと、胸が苦しくて、悲しくて、たまらなかったのだ。  

 ラムザウという南ドイツの小さな村がある。 ベルヒテスガーデン(ヒトラーの別荘が在った所だそうだ)の直ぐそばだ。 この村の、教会を臨む川と林の景色は、ひと目で私をとりこにした。 その場所がどこなのか、解からなかった(ドイツとしか、書かれていなかった)が。 後年、親しくなったドイツ人の男性が、ドイツの写真集をプレゼントしてくれて、その中にその写真を見つけた時は、大感激だった。それまでのなぞ・地名が判ったのだから。未だに、そこを訪れてはいないが、いつか実際に行きたい。 

バッハの 『Jesus Bleibet meine Freude』 【主よ、人の望みの喜びよ】と という曲は、実は、かなり有名な曲で、だから、どこかで聞いたことがあり、気に入っていたのかも知れない。が、そういうことではなくて、やはり、これも、私の特別な何かを刺激していた曲だ。 数年前、娘(当時、小学の低学年)を連れて初めてウィーンに降り立った時、彼女がバス停で何気なく手に取った小さな土産物のオルゴール、それもこの曲で、彼女はこの教会の曲など聞いたことは、まだなかったはず(クリスマスの曲はたくさん知っていたが)だった、ー彼女自身、この曲を知ってるとは言っていなかったー が、ゼッタイ欲しい、と結局、買って帰った。 

私は、はるか昔、塔に住んでいたことがある。というか、そこが私の居場所、入れられた場所だった。 しかし、自由を得るため、結局、私は、入水自殺をした。 私は、あれ以上、人に自分の運命を決められたくなかったのだ。自ら、選べるうちに、死を選ぶ、それが私の抵抗であり、私が私について決定できる唯一残されたことだった。蓮の花が 浮いている湖だった。   

バッハの 【主よ、人の望みの喜びよ】を聞いていると、今でも涙が出てくる。♪  

2005/05/28

また、泣いた・・・。

  昔、「赤毛のアン」を読んだ時の印象に残っている部分・・・アンが、どんな赤ちゃんにも、必ずいいところ=褒める所があるのよ、というところ。目がぱっちりしていてかわいいとか、口元が愛らしいとか、薔薇のような頬だとか、、、そして、顔などの見てくれで褒める場所が見つからない場合でも、「健康そうね、元気な子」と言えばいいのだ、と。そんなものか、と思った。ちなみに、この話が書かれたのは、病院のNICUで新生児がガラスケースの中で命を永らえるために闘うという状況など、考えられなかった時代だ。しかし、考えようによっては、このアンの言葉は、とてもポジティヴなものなのだと思う。

そして、その後、私は思うようになった、「どんなに悲惨な事件、辛く苦しい出来事、酷い状況、であっても、そこには、そして、そこから、必ず、1つは何か良いもの、良いことがあったり、導き=未知引き出されたりするものだ、」と。 災い転じて福となす、というほど単純ではないにしても、私たちの考え方、捉え方しだいで、その不幸な状況から、幸いを、喜びを見つけることも可能なのだ。 

今日、NHKスペシャル【望郷】 (再放送) を見た。太平洋戦争、その後の捕虜の方々の辛苦のサバイバル、そういうものごとは、文字どおり、不幸な、悲惨な出来事だ。日本に限らず、戦争に巻き込まれたところで、多くの人々・民族が経てきた苦しみ・悲しみ、戦争により失ったものは計り知れないだろう。 このドラマ(実話)が私たちに伝える状況もかなり悲惨だ。が、私は思った、でも、この戦争、そして敗戦のおかげで、(戦争のおかげ、といっても戦争が良いものだったと言っているわけではありません、あしからず。)、このW氏は、ルーマニア人のA氏と出会い、国境を越えた二人の間の固い友情を得ることができたのだ。戦後、40年以上を過ぎてから、消息をたどり、この再会を果たした時の喜びというものは、全ての苦痛・悲しみなどを超えるものではないか、その喜びを体験することは、まさに苦しい戦争の時代があったからこそ、なのではないか、と私は考える。 番組の最後でW氏ご自身も、この戦争で唯一の良かったことは君に会ったことだ、というようなことを、A氏の墓の前で涙して語っておられた。 (また、泣いちゃったよ~、週末になると泣くなあ~)  

実は今朝、私はとても寂しかった・・・「さびしくて たまらない」と日記に一行、書いたほどだ、朝なのに・・・。 愛がないと、とてもとても さびしい。 与えるほどに、与えられる、愛も例外ではない。が、現実物質問題として、ひとりきり、気持ち的にも相談する人も、泣きつく相手もいない状況で、「ああ、寂しいなあ」と切に思った。 与えても与えても、与える分が多ければ、多いほど、私のキャパが広がりすぎて、それが埋まるのは、実は、容易ではないのだ。(都合のいい、言い訳) 穴の開いたタイヤに空気を入れ続けるようなものだ。走り続けるために、必要充分な空気は入ってこない・・・。いつか停まりそう・・・。ちょっと休憩が欲しい~~。(停まったら、つぶれそうだけど)。 昨日、ビデオに録って置いた映画を見たら、私の名前が出ていて、かなり驚いた!え?今、なんていったの?思わず、巻き戻し・・・。発音も完璧! なんでも、理由を見つけるのが好きな私は、早速、今朝の私が寂しすぎる理由を、その映画から、相棒がいないせいだと解釈することにした。愛がないと、生きていけないよ~と。 でも、理由をくっつけたところで、気分が明るくなるわけではない。更に悪いことに、暗いドキュメンタリーなんぞ(やはり録画)を見たら、余計に悲しくなった・・・・世の中、どうしたらいいんだろう?!って。 そして、極め付けが、この「望郷」だった。見る予定ではなかった、がチャンネルを変えていたら、ドイツ語が聞こえて、そのまま見入ってしまった。きっかけとは、不思議なものだ。あれが、日本語の会話の場面だったら、私は、その番組を見なかっただろう。日本兵の会話ー戦争映画、見たくないな~と・・・。でも、見た始めた場面はドイツ語だった・・・見始めたら、最後まで観てしまった、泣いてしまった、なぜ泣いたか?悲惨だったからではない。再会が嬉しくて・・・。会いに行こうというW氏の思い、待っていたA氏の思いを画面を見ながら想像したとき、戦争という背景があってこそ、湧き上がる・込み上げる想いというものが、そこにはあるのだ、と思った。 

そして、視点を変えた。私が寂しい、と思うのは、寂しくない状況を知っているから、、なのだ。さらに、変える、、、愛されていないと感じることの寂しさ、愛している人のそばにいることの出来ない寂しさ、想ってもそれが通じない寂しさ、全てを投げ出したくなるけれど、それを投げ出したら、私の身勝手な理由を”自分のせいだ”と誰かが思うかもしれない、、、それは、まずい。仕方がない、また、寂しさと向き合っていかなくては、と・・・。 昨日、見た例の映画でも、言っていたではないか、私が常に言ってるのと同じこと・・・・今、この時が全てであり、 present (現在) は、pre-sent  現在=未来から送られてきたもの、過去から積み重ねによって、予め、与えられたもの。 で思った、今回、上手に生きないと、またここに戻ってくることになる。 (それは、嫌だ、もう、楽になりたい・・・) だから、めそめそしていられない・・・。 『this time is all you have』  

 下記の詩、二日ほど前、見つけた「フロリダ通信」というブログから借りてきました・・・寂しい病にかかり始めていた私の心に沁みました。 よろしかったら、あなたもどうぞ・・・・。 良い週末をお過ごしください。

元の記事からの引用

疲れている人へ

WILD GEESE

by Mary Oliver

 

You do not have to be good.

You do not have to walk on your knees

for a hundred miles through the desert, repenting.

You only have to let the soft animal of your body

love what it loves.

Tell me about despair, yours, and I will tell you mine.

Meanwhile the world goes on.

Meanwhile the sun and the clear pebbles of the rain

are moving across the landscapes,

over the prairies and the deep trees,

the mountains and the rivers.

Meanwhile the wild geese, high in the clean blue air,

are heading home again.

Whoever you are, no matter how lonely,

the world offers itself to your imagination,

calls to you like the wild geese, harsh and exciting ––

over and over announcing your place

in the family of things.

* * * *

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確かに、私は疲れているかもしれない、考え過ぎかも知れない、もっと忙しくしたら、余計な事、考えずにすむのに・・・・。 と、想いつつ、この詩を呼んだら、私を愛して想ってくれている人がどこかにいるような、、、気がした。  (でも、今朝、また寂しくなった。)

追伸: 偶然というものは、おそろしいもので・・・ 

といっても、全ては私たちが選び、意味づけし、決定することなのですが、前回の「100匹のサル」で、ウランの影響は、かなりの年月、人体の内部・卵巣にさえ影響する、というところまで書いたのでしたが、書いた直後、確か、昨日(?)NHKのBSドキュメンタリーでヨルダンのアンマンにある癌センターにイラクから治療を受けるために子供達が来ているというのを見ました。予定していて見たわけではなく、(我が家は新聞を取っていないので当日の番組、わかりません。)いつものように、単に、チャンネルを合わせていた(興味のないトピックは見ない)ところ、米軍の劣化ウラン弾の影響で云々という解説が聞こえたので、何それ?とTVの前に引っ張られ、見たのですけど、、、まさに、湾岸戦争は12年ほど前ですね、湾岸戦争以後に生まれた子供たちに今、ぞくぞくと白血病や癌が増えていて、イラクの子供たちの発症率は(私の記憶が正しければ)他の国々の80倍だそうです。 仮にクウェートに侵攻した元フセイン大統領が悪い、と言ったとしても、劣化ウラン弾の悪影響を隠して(米兵の中にも、すでに体調に影響を受けている人はいて、それについての調査・研究結果を発表したドイツの博士はその職を解雇されるとか、そういうことも幕内ではすでに起こっている)その武器を使って攻撃をしているのは、米軍ですから、イラク国民には、責任はないと私は想うわけです・・・ で、何がいいたいかっていうと、プルトニウム、ウランの影響について書いたら、偶然そういう番組を見た(放映された)、、、偶然って面白いわね~ってことです。ハイ・・・。

2005/05/11

心の自由

私たちは、愛、そのものだ。また、私たちの魂は、常に自由だ。 互いに思いやりを持ち、愛し合うことは、自由であること、と、矛盾しない。 愛すること、愛は、自由である。  

私の自由は、あなたを不自由にしません。」 金八先生 

「----みんな ひとりひとりが・・・どんな人間でも・・・・・ 人間であるかぎり・・・ だれの奴隷にもならない・・・・・・だれの所有物にもならない 心の自由をもっている--- 燃えあがる革命の火の巻」    ベルサイユのばら/池田利代子作 より 

「Free 自由とは、ボクにとって、好きなことをする事。したいことをする事ではない。自由には常に責任が伴う。もし、ボクが自分に責任を持っていられるかぎりボクは自由だ。ボクは君に、自由でいたいから君とは一緒にいられないと言った。でも、君と一緒にいても、ボクは自由でいられるのだと解かった。愛をこめて、Oscar*」  

 そもそも、愛とは何だろう、と人はよく考える。いろんな形容の仕方があり、いろんな表し方がある。また、よくあるのは、愛し愛することで相手を自分のものだとする勘違いだ。 「私と仕事、どっちが大事なの?」ともよく耳にする。 これは、ペットの犬と、恋人と、どっちが大事?というのと同じくらいヘンテコは比較だ。 その人とその相手(ペット、仕事、恋人、何でも)となる対象が違うのだから、愛のタイプが違って当然だ。タイプというと誤解を招くかもしれないので、、、関係、と置き換えてみる。その人と、その愛をそそぐ相手・対象との関係だ。 関係が違うのだから、愛も違って当然だ。 同じ愛とはいえ、対象が異なると、その人の感じ方、受けとめかた、付き合い方は、変わってくる。 たとえば、兄弟(子)を持つ母親が、同じように兄弟を愛している、といっても、子供それぞれに対する付き合い・世話の仕方は異なるだろう。 仕事であれ、趣味であれ、友人であれ、恋人であれ、その対象が異なるのだから、愛していることにちがいはなくても、関係のあり方は異なり、それを「どっちが大事?」と比べることは、かなり困難だ。というか、比べることは滑稽だ。 「私と仕事、どっちが大事?」って、その人の全てが好きなら、愛しているのなら、仕事を含めて、愛するしかないだろう。それが出来て初めて、”愛して”いるといえるのだろう。 (注:良好な人間関係(恋愛関係)を保ち続けるためには相互理解が必要なことは、解かりますよね?!仮に、仕事を含めた僕を愛せよ、と言ったところで、理解し合えない場合も多々あります、エゴがぶつかります、そして、互いの期待を外れた関係は、壊れてしまうかもしれません。今回は人間関係を論じるつもりではないので、この件はここまで・・・。)

人がペットを可愛がる、愛するのは、ペットの愛が、純粋だからではないか? ペットは、黙ってそこに居てくれる。飼い主が、何をしようと、多少、イジワルをしても、変わりなくそばに居続けてくれる。飼い主の意に沿わないようなこと、飼い主が嫌がるようなモノは言わない、その上、都合のいいように扱える、寂しい思いをさせても、「ゴメンね~」というだけですむ。埋め合わせもいらない。時には誰にもいえないことを言えたり、弱みを見せたり、素直になれる。飼い主、こっちが何をしても、どうなっても、変わらずそばに居て愛情を見せてくれる。無条件で愛してくれる。だから、癒されるのだ。彼らは、飼い主を束縛したりはしない。もちろん、寂しそうにするとか、感情は表す、が、そのペットのあれこれに縛られることなく飼い主は、自分の生活を続けることができる。怪我をしたり、病気になったりして、手がかかることはあるだろう、が、それは、自由を奪われていることではないし、飼い主のあなたは、不自由を感じるだろうか?可愛いペットの世話ならば、多少の不都合、面倒はあっても、不自由だと不満を言ったりはしないのではないか?それに、ペットは見返りを望んで、飼い主に愛情を向けているわけではないだろう。彼らは、無条件に愛を注いでくれるのだ。そして彼らの心は、自由だ。私たち人間のように、相手のあれこれに、こだわらない。そうしてみると、私たちの周囲には、私たちを癒してくれるもの、たくさんの愛がある。桜の花、すがすがしい朝陽の光、茜色の夕暮れの空、夜空の星、庭のバラ、海の波の音、野山の野鳥の声、心安らぐもの、癒してくれるもの、私たちの周囲には、愛があふれている、そして、それらは自由なものばかりだ。太陽の光は、地球のどこでも、だれにでも、分け隔てなくそそがれる。だれがどこで何をしていようと、関係ない。日焼けをしたくない、といってパラソルの陰に隠れる人にも、「陽の光、キライなんでしょ~」なんていって次の日は、窓から朝陽が覗かないなんてことはない。「ここから、あっちへ行ったら、光をあててやらないよ~」などとは言わない。私たちの生活を不自由にさせたりしない。愛を陽光に例えるなら、そういうことだ、相手が何をしていても、変わらず愛してくれる。 

金八先生のことばは、愛、恋愛などの人間関係に関係ないように見えるかもしれない。が、この言葉は、究極の愛の表現だと思う。 愛することは、相手を思いやり、尊重することでもある。自分に自由がほしければ、相手に(周囲に)も、自由を与えなくてはならない。 付き合っているから、といって、友達だから、といって、相手を自分の思うように、好みどおりに、コントロールしようとすることは、愛しているからといっても、強制するべきことではない。愛しているなら、なおさら、相手をそのまま受けとめるか、もしくは、相手の望みを優先するなり、尊重するなり、理解に努め、互いの自由を侵害しないことが大切だ。恋愛関係に限らず、友達同士であっても、異民族同士であっても、自分の自由の権利だけを主張するのではなく、相手の自由も認めなくてなならない。だから、自分が自由だからといっても、それで相手を(周囲を)不自由にしてしまっては、ならないのだ。

ベルばらのこの文は、マンガを読んでいた当時、私は単にフランス革命に向かっての民衆の自由のことを言っているのだろうとしか、思わなかった。が、これは、あらゆる場面で、あらゆる人たちにの立場で言い換えることの出来る事なのだ。 年貢を取り立てられていた百姓、戦争の捕虜、家庭内暴力の被害者、イジメに苦しんでいる子、脅されて強制されている人、理不尽な扱いを受ける間柄、政略結婚、どんな状況であっても、その人の心の自由は、奪われることはない、ということだ。地動説を認めてもらえなかったコペルニクスやガリレイの心の中も、自由だったはずだ。ロミオとジュリエットも、そうかもしれない。また、(これを読んでくれている方の中には、不謹慎だという人もいるかもしれないが)配偶者以外に好きな人がいるけど、別れられない場合とか、忘れた、といいつつ昔の恋人をたまに思い出したり、結婚していても・誰かと付き合っていても、そのパートナー以外の人を心配したり恋しく思ったりすることができる。姦通だ、不倫だと世間で言われても、当人達の心は自由だ。色恋だけではない、勘当した子供を表立って心配できなくても、心の中では常に気にかけている、そんな場合もあるだろう。音信不通になったとしても、事情が何であれ、また遠く離れた家族や友達を思う気持ちなど、顔に出さず密かに思い続けることもあるだろう。1人を心配するからといって、心がそれだけで占められるわけではない。そう、心は自由なのだ。動物園に捕らえられている動物たちも、無実の罪で囚われている人も、彼らの想いを縛ることは誰にも出来ない。慣習、法律や、契約などで、縛ること、服従させることはできないのだ。 

Oscar は、はじめ、私と ”ボーフレンド・ガールフレンド”の関係になると、自由でなくなる、と考えたようで、(互いに気持ちの確認をした後だったが、関係を成り立たせるいわゆる”ことば”をためらっていた。)また、彼自身、自分を”自由=free ”と評するくらい自由奔放な性格だった。しかし、彼は、たとえ、私と付き合ったとしても、彼の好きな人と話しをすればいいし、好きな人たちと一緒に食事のテーブルにつけばいいし、バスで隣に座るのも、私でなくても他の人の隣に座ってもいいのだ。自由に、バーに行ってビールを飲めばいいし、好きな子と踊ればいい。私の顔色を窺ったり、何でもかんでも私を優先にすることはない、ということに気付いたのだ。私との関係に服従する必要はないし、”つきあっている”という状態にしばられることはないのだ。ただ、私も彼も、互いに相手を傷つけないように等の配慮は、必要だ。が、私と一緒に居ても、彼は、自由なのだ、と彼は気付いて、この手紙をくれたのだった。相手を独り占めすることが、愛することではない、と。--残念ながら、私が、その愛=自由という本来の意味に気付いたのは、もっと後になってからだ。

愛し合っていても互いに自由であること、自由でありながら互いに愛し合うこと、それは可能なのだ。いや、もともと、愛するということは自由なのだ。心が自由なのだから・・・。愛には、いろんな形、表現がある。愛することは、たいへんなのだ~愛には、決まりはないし、限界もないのだから・・・。

*Oscar が誰のことか解からない方で、知りたい方は、私のカテゴリー『思い出』の「月のない夜~」シリーズをどうぞ。ベルばらのオスカルではありません、念のため。

(注: 自由=無責任では、ありません。)