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日志


2009/8/29

夏休みの自由研究をやめさせよう

日本の学校の、、、夏休みの宿題ほど、理解に苦しむものはない・・・。
 
その中でも、特に、自由研究というものについては、親の立場になって、さらに、
どうして こんなこと・・・・?!と 嫌でしょうがない。
 
そりゃ、やりたい子は、やればいい。 
それこそ、夏休み中でなくたって、好きな時に、好きなように“自由研究”をすればいい。
それが、本来の、勉強に取り組む~研究する~実験に取り組む~何かやってみる姿というものだ。
その子がそれを学校の先生に、「こうゆうの、やってみました~見てください~!」って提出したら、
見てあげて、評価してやるなり、関心を持ってやるなり、他の生徒たちに紹介してやるなり、、、その子の
力をさらに伸ばすような 指導をしてやればいい。
 
けれど、、、自由研究を いやいや するということは、あまり プラスにはなっていない気がする。
それも、せっかく 嫌々でもやったモノに対して、 単なる宿題の提出以上の 関心も評価もされないとなれば、
やる気も失せる。
 
近年は、書店やデパートで、自由研究グッズや キット、そのための参考書とか、が出回っているし、
今朝のニュースによると、上野動物園では、自由研究のために動物園を訪れる子供たちのために 小冊子を作って協力体制をしいている・・・。
この動物園の飼育係りさんの心遣いは、とても うれしいものだと思う、自由研究であれ、なかれ、その動物のことをより詳しく、身近に
知る、良いチャンスになるわけだし、子供の宿題の苦労を知って、なんとか役にたてば、と考えてくださっているわけだから、すごいと思う。
 
が、問題は、そういうグッズや本、自由研究のための●● みたいなものが これだけ出回っているということは、それだけ
子供たちが、苦労している~別の言い方をすれば、 やりたくもないのに 何かやらなくてはならないから、仕方なく 何かをする~ことになっている・・・
という点だ。
 
本当にやる気のある子は、そんな販売されているものに 頼らなくても、何か考え尽くし、思い尽くし、やる気になるものだ。
また、インタビューの子供が正直に答えていたが、やっぱり 夏休みにギリギリになると 親に手伝ってもらったりするということ・・・。
 
手伝ってもらうのが悪いわけではない。
が、やりかけてあるものを手伝うのなら、まだしも、親だって、何をしhていいのかわからないのが、本音だろう。
だから、やっぱり 市販されている自由研究グッズに頼ることになる。
 
自由研究グッズが出ていることが悪いのでもない。
要は、、、そんなにしてまで、 その宿題をやらせる必要があるのか?!ということだ。
単に、◆昔からそうだから・・・  ◆夏休みという長い時間を利用して、何か普段できないことに取り組んでみましょう~ なんていう理由だろうと
思うのだけど、そんなんで、夏休みの宿題を出される子供はたまったもんじゃない。親だって、うれしくない。
 
夏休みという長い時間・・なのだから、だからこそ、こどもを のびのびと 宿題や勉強を気にせず、遊ばせるべきなのだ
 
もっといえば、先生方だって、二学期になって 自由研究を各児童、各生徒が 苦心して(参考書を使ったにせよ、独学にせよ、)やってきたものを
ざ~っと見るだけ、、、なんていう のは、やめてほしい。 子供が苦労した分、先生たちにだって じっくり 見てほしい。
が、先生方だって、そんな クラス何十人もの分を 時間をかけてみるような余裕は、ないだろう。
特に、日本の学校の場合は、夏休みには、 他の宿題だって、出ているんだから・・・・それらの採点や評価だって、しなくてはならないはずだから。
だとしたら、 自由研究なんて、いっそのこと、やめてしまった方がいい、と思う。
 
そう、私が言いたいのは、それ。
 
夏休み、、、自由研究がある、というだけで、 休みだ~!という 解放感は、半減する。
自由研究が 苦手(気が重い)子供ほど、それを 後回しにしがちだ。 また、他の宿題だってそうだが、やっぱり 遊びたい気持ちが先にでるだろうし、
そうなれば、宿題は後回しになる
~~~ 夏休みだから、と、塾の時間が増えたり、新たな 教室に参加したり 、そういう子も中にはいるだろうけれど、それは、各自の事情、理由で
 (行きたいか、行きたくないか) 決められているものであるから、行きたいのなら、行けばいい。
 が、だったらなおさら、学校からの宿題なんて、お荷物になるのではないだろうか。
 
もっと、自由に夏休みを使わせるべきだ
 
日本の学校は、なにかというと、 すぐに、「夏休みのうちに、一学期の復讐をして、苦手なところを克服しましょう~」と、子供に言い聞かせ、
休みを 勉強に費やすことが当たり前のようにスローガンを掲げ、社会でさえも、そうしないと いけないような風潮(塾のテレビコマーシャルなど)を
して、それをあおっている。
 
なぜ、夏休みに、思い切り 遊んではいけないのか?!
 
 
何はともあれ、、、 日本の子供は、可哀想だ。
夏休みには、 宿題があるのが、 あたりまえだと 思いこんでいる・・・。
宿題のない 休みが、存在することすら、想像しようとしない。。。
 
自由研究参考書やグッズに頼るような時代になってまで、自由研究をさせる必要がどこにあるのか_?!私にはわからない。
 
普段から、 宿題に追われ、小テストに追われている日本の子供たち。。。
夏休みは、宿題がない!(自由研究がない) と、 のびのび、自由に 過ごせる~!と 思うだけで、どれだけストレスが減るだろう~。
(教師のストレスだって 減るはずだ。 二学期の初めに、宿題のチェックに時間を取られることもなくなるし・・・)
 
頭は、フルにしておくと、一杯に・満杯になってしまう(=それ以上、入らなくて、こぼれおちる)ということを ご存じか?!
 
子供たちに、もっと 勉強させたいのなら~もっといろいろ学ばせたいのなら、 頭をからっぽ(全くのからっぽではなく、
脳が自動的に整頓をしてスペースを作るという意味)にする時間を 適度につくるべきだ。
また、 勉強から離れて、 リフレッシュする 期間を 与えるべきだ。
 
自由研究があるというだけで、 その楽しみが 半減する、夏休み・・・。
本来、夏休みは、それこそ その“長い休み”に意味がある~ 夏であるということで 田舎に帰るとか、家族で海水浴にいくとか、いろんな行事もある~のだ。
それなのに、自由研究なるものが、それを邪魔している。
それがある、というだけで、夏休みが、“楽しみ”から、厄介なもの・・・になってしまう。これは、とても、悲しいことだと思う。
 
ひらめき夏休みの宿題をなくせ!と 言いたいが、 それがダメなら、 (漢字の復讐(笑:復習)やら、計算ドリルやら、、、読書感想文やら、ホント、日本の宿題は多い!)
せめて、自由研究を なくすべきだ。 現状は、自由研究ではなく、 ~課題を選ぶのだけが、“自由”ではあるが、~ 強制研究になっているのだから・・・。
 
イヤミ蛇足:
宿題って、、、、そもそもが、 強制的なものだよね。。。
辛いね、夏休み。その上、夏休みの日数まで、また、減りつつある。 
「日本人、そんなに(授業日数)増やして、何学ぶ?!」
量より、質だよ!!! 、時間の長さより、なかみ~ 内容だよ!!!
 
 
2007/9/19

何だかな~(我が子は関係ないとは言え・・・)疑問

ひらめき 腑に落ちない ・・・ ため息がでてしまう、、、 そんな ニュースひらめき
 
 先日、学校教育の授業、保健体育の中に、武道を必修とする云々というニュースがあった。
礼儀作法とか、日本の伝統文化だとか、男女参画のジェンダーフリーとか、子供たちが生涯に渡って(スポーツを)楽しめるようになどという尤もらしい理由が
つけられていて、武道を男女ともに やらせるかわりに、創作ダンスも 男女共に、、、、ということだった。 
礼儀作法・日本の文化という点だったら、武道でなくても、茶道などでも いいのではないか? ・・・これなら、いままで すでに総合学習の中で
日本の伝統文化・工芸などを取り入れているところがあったのだから、そのまま続けることができて、経験も生かせるのではないだろうか?
そもそも、なぜ 武道がでてくるんだろう? 一口に武道といっても、 柔道なのか?剣道なのか?合気道なのか?空手なのか?・・・いや、それをちゃんと子供たちが楽しく学べる・体験できるような指導ができる教師・大人がどれだけいるだろう? 
ならば、茶道、尺八、華道、そういうものを武道とあわせて、日本の文化を学ぼう~みたいな時間を設ける方が、ずっといい。
それに、礼儀作法なんて、教えられるというより、見て覚えるものだ。また、見て学ぶものだ。 武道(たとえば、柔道)が保健体育にあるからといって、
それが 礼儀作法に結びつくのか??? あったとしても、微々たるものだろう。 もっと広く子どもたちに接する大人の態度次第だと思うのだが。
ジェンダーフリーのため、武道とバランスを取るために、創作ダンス?!  創作ダンスの何処が?って感じだ。 武道が男子っぽく、創作ダンスは女子っぽいものだから? いっそ、両方なくせばいいのに・・・。  
ジェンダフリーというのは、 そういうタイプのものではないのではないだろうか? 
武道をそれらの理由で必須に加えることは、どうも 腑に落ちない。 がっかり
生涯に渡って体を動かす楽しみを子供たちに・・ということなら、武道や創作ダンスをわざわざ 加えなくても、体育の授業自身をもっと楽しいものに
したらいい。
体育が楽しくない、嫌い、苦手、、、そういう潜在意識から、学校を離れて後、体を動かす=スポーツを あまり楽しめない~すすんで体を動かさない~
そういうことにつながるのではないだろうか? 
私自身がそうなのだが、今の学校教育の体育では、体育は、苦手な者にとっては、苦痛の時間だったり、肩身がせまかったりする。
これでは、中身が何であっても楽しめない。 こんな状態のまま、武道~創作ダンス、といわれても、ゾッとするだけだ。
スポーツは、もっと楽しいことだ~と 実感できるような工夫を望む次第だ。
 
まあ、いろいろ 私の異論はあるが、今朝のニュースで、 ①国が定めた教科書を使っての「道徳」を教える道徳というのは、問題だということで、作ろうとされていた「徳育」という科目は、やはり定めないことになった。  ②小数点以下二桁を(今、現在)小学校では教えていないが、それをまた教えることにする・・・、などと行った話を聞いた。  
こちらも、ありゃりゃ~ 困ったである。
いつから、「道徳」の時間がなくなったのだろう?! 
私達の時、(私の小学生時代は、約30年前と言えるだろうか?)には、 道徳という科目があった。
徳育だろうが、道徳だろうが、ある意味、この科目に関心が集まっているのは、先の”武道”が、”礼儀作法”の期待を背負っている点とも無関係ではないだろう。
あまりにも昨今の子供たちの状態・若者の言動や生活態度・価値観などが、”昔”の人たちに比べて、乱れているとか、オカシイとか、不味いとか、困ったことだ、、、という類のものになっている・・・と見えるからだろう。
でも、それは学校教育だけが、やっきになって科目をいじったところで 解決されるものではない。
そもそも、なぜ?道徳がいつの間に?消えたんだろう?! 
”国が定めた教科書”によって 道徳を教えるということが 問題なのだとしたら、道徳は、”教える”のではなく、”考える”時間にすればいいじゃないか?!
===== 日本の教師は、教科書通りに、答えはこれが正解。コッチは、まあまあ、でも、これは×、間違い。これは正しくて良いけど、あっちは、悪い誤ったこたえ、、、なんていう白黒つけるマニュアルがないと、子供たちを指導できないのかもしれないが・・・ =====
教科書なんて 堅苦しく考えなくても、昔話の絵本や紙芝居を見て、、、いや、現代なら、ビデオ鑑賞をしながら、思ったことをノートにつづっていくとか、感想文を書くとか、そういう指導だって可能だ。(点数をつけるということではなく) 、今の子は、大人の目の色をうかがって、大人が喜びそうなこと(感想文など)を紙に書いて出すことにが多いようだが、○×・良し悪しの採点が就かないとなれば、少しは 本音を書くことも可能になるだろう。
児童・生徒が誰かにジャッジされているかもしれない、という気持ちであるとしたら、確かに、それは、「道徳」の科目が子供の心理に与える弊害と言えるだろう。
”これが正しく、あちらは、間違い、”などと 道徳・徳育 で教えるのではなく、周囲で・世界で・地球で・こんなことが起きている、こんなことがあったよ、、、ということをたくさんたくさん 子供たちに伝える・・・その中から、子どもたちが自分なりの価値観を見出し、創っていけばよいのだ。
不思議なことに、良し悪しをくっつけなくても、世界各国 感動秘話とか、話し継がれている心をうつ物語というものの 価値観は、意外にも似通っているのだ。
また、イソップ童話でも、グリム童話でも、日本の昔話でも、世界各地の神話と呼ばれているものであっても、モラルといわれる点で紐解けば、人々に教えよう、伝えようとしている内容は、多くの共通点がある。
虹仲良くしましょう、親や老人を敬いましょう、小さいモノ(動物や子供など)をいたわりましょう、互いに助け合いましょう、
ずるいことはしないほうが身のためですよ、嘘をついてもいつかばれますよ(自分の心が痛みますよ)、 植物、動物を大事にしましょう、
独り占めしないで分かち合いましょう、乱暴よりも話し合いを持ちましょう、 などなど・・・・ひらめき 
 
”教えよう・教えよう” とするから 行き詰るのではないだろうか?  
与えて、考えさえて(考えるチャンスを与えて)、押し付けるのではなく、疑問に応えて、一緒に考えて、方向を探る、見守る、そして 導いていく・・・
そういった ゆとり、寛容さが モラル・道徳を”教える”にも 必要ではないだろうか?
 
 
子どもたちは、すでに その 一人ひとりの 魂・精神の中に、 光の種を宿している。
いや、光と愛の種から、子供たちは生まれ、その精神が育っているのだ。
 
分け隔てない 陽の光と 恵の雨が、植物を種から芽吹いて、大地に守られ根をはり、その資質に沿ったものへと大きく育むチャンスを与えて見守ってくれる、
そのように、わたしたちも 子供たちを まずは、彼らの持っている種の、その存在・その子の資質が 自由に育っていけるような 広々とした環境を 彼らに
与えてあげること・・・・今の世の中では、心の糧やスペースではなく、人間の過去が作り出したものを その種~芽の上や周りに がちがちに 被せ、与え、
囲んでいるような・・・・まるで ↓、 種から芽を出した植物は、 双葉のうちから、枯れるのが当たり前のような環境に必死で適応しようとしている気がする。
”陽が当たらない、水をやりすぎ、大地は掘り返され、ぎゅうぎゅう詰め、勝手に葉っぱは選定され、アサガオなのにハイビスカスに似ていないと文句を言われ・・・”
こんな過酷な環境で 育つ 芽・子どもたちは、、、その心が病んでも 不思議はないだろう。 
そこに 道徳などといって、価値観を押し付けられても、確かにそれは、ドームを被せられて呼吸・光合成すらもできなくなるようなものかもしれない。
 
しかし、確かにモラルを考えること、他人と共存・共生するために&そして自分を大事にするためにどうしたら良いのか、考えられること、
子どもたち一人ひとりが、 自分で分別を意識していくこと、(分別臭い大人に早くなるようにというのではなく、いずれ、大人にアンッたときに、分別をつける際に参考になるような 経験や事例をたくさん 吸収しておけるということ) そういうことを考えたり、育む場・チャンスを子供たちに与えることは、欠かせない。
道徳の時間より、学力向上より 何より、 まずは、親・大人の価値観を軌道修正することと、もっと ゆとり を子供たちに&学校教育に与えることが肝要だろう。
また、今の日本では、本来、子供たちにとって、1番 身近なそういう場であるはずの、「家庭」 や 「周囲の大人」から、それらの肝心なモラルのお手本やサンプル、地図のような手引きが、得られなくなっている。 今の社会では、大人にとって、子供は愛すべき対象ではあるが、同時に、自分の人生を満足させるパーツのようなものにもなってしまっている気がする。 子ども自身のアイデンティティや、将来どんな人間として、どう生きていって欲しいか、どう生きていけるか・・よりも、親の希望・期待として、どんな子供に育てたいか;どんな風になって欲しいか・・・ 人並みの生活と顕示欲の 一理由でしかない気がする。
例えば、団塊の世代が育てた大人(今の若い大人)、そして、団塊の世代を育てた(戦後の)大人たちが、 物質的・経済的な豊かさを得るために がむしゃらになった、必死に働き、勉強し、(子供を高校へ、大学へ、行かせることがその子のためになると信じ・・・)親の苦労をさせまいと、子供には、テレビを初めとし、何でも与えてきた・・・そういう 物質主義(唯物主義とまでは行かないかもしれないが・・・、経済的豊かさの追求、大学受験を頂点とした教育の混乱) が、本来人間が社会の中で生きていくために必要不可欠となる コミュニケーション、 相手を知ろうとすること、自分を伝えること、そういったことよりも優先されてきた結果だと思う。
平たく言えば、IQ よりも、 EQ を (ようやく世界でも注目されつつあるが、日本の社会や教育現場ではあまり関心がもたれていないのは、残念だが・・・) 重要視することが、子供が幼ければ幼いほど大切なのに、今の日本では、幼稚園からして、IQ重視なのだ・・・・。 
EQとの バランスがあって始めて、IQ も生かされるというのに・・・。ひらめき
 
経済発展、経済・物質的豊かさ、が、第一優先事項のようになり、そのための、 学歴、そのための 成績、塾、点数、幼いうちから他人に差をつけられては不味い、などなど・・・そういった競争意識が幼いうちから子供に降りかかる。
親の期待に応えなくて(競争に勝つこと、成績を上げること、などなど)は、愛してもらえないかもしれない・・・そんなプレッシャーが幼児期からその心理を侵食jしていく。
子供をわがままにすることと、子供の個性を伸ばすことは大きな違いなのに、それをごちゃまぜにした考えが蔓延ってきた影響だろうと思われる。
これは、とても、不味いことだ。 
体育で武道などというまえに、 電車で騒ぐ子供を親が叱る、ことができるように、大人自身が自覚をもつことが一番大事だろう。
この時、叱るのは、”親が恥ずかしいから”、ではなく、”周囲の迷惑になるから”、・・・である。場所によっては、騒ぐことは避けなくてはならないということを 子供に諭すのだ。単に、”人が見てるでしょ!”といって怒るだけでは、子供にはその理由が、”人の目を気にする”というサイン・理由になるのであり、公の場でのお行儀を考えなくて名ならない=他人との共存=という理由・状況サインには、行かない。
このように、子供が混乱してきたのは、その家庭・大人たち自身が、モラルというものを蔑ろにして育てられてきた結果なのではないかと思うが、
ならば、むしろ、道徳だのその教科書だのと言う前に、家庭内の躾けや、大人の子供への接し方、大人自身の行動を省みることが先決だろうと思うのだ。
 
算数の、、、小数点以下二桁を加えても加えなくても、このような 本来の種にあった中身が育ちにくい環境にいる 場合、
国際学力テストで、その成績が低迷するのは、自明の理だろう。   あくび
生気がない子供たちに、それ以上、フォアグラのように 学習内容だけを高度に教え込んでも、消化できなくては、どうしようもないのだ。
教えられる内容が難しいとか高度だとか、レベルの問題ではないのは、他国の算数・数学レベルを知っている人には、よく解かるだろう。
日本は、今でも、 算数・数学は、同学年の西洋諸国よりも 高いレベルを教えているはずなのだ。 日本人は数学が得意・・・と、。
しかし、日本の数学のテスト結果が揮わなかった 原因の 一つは、 以前、テストに参加していなかった 他のアジアの国が参加したこと、である。
それを踏まえれば、何を基準に 国際的にも学力低下だと 騒いでいるか、考え直すべきだ 直ぐに解かるはずだ。
いずれにしても、日本の学校は、算数のみならず、 詰め込みすぎだ。 (植物だって、水のやりすぎでは根が腐るし、日光ばかりでは暑くて枯れる)
それなのに、「ゆとり教育」を見直そうなどと 言っている。
こういうものは、結果がでるのに数年以上かかるというのに、僅かな年数で 思うような結果がでないから・見えないからといって
それを辞めようとしている。 こんな愚かなことはない。 しおれたバラ
 
これら、教育のニュースを聴くたびに、私は、 日本で子供を(小学校)育てなくて 良かった・・・と思ってきた。
また、今も、 すでに高校生になっていて、好かった と思うのだ、、、。
”武道必須、授業時間を増やす、夏期休暇短縮 云々 、こんなニュースを聞いていると 胃が痛くなる。
冗談じゃない! 
これ以上、子供の育つ環境(経済的なものではなく、精神的なゆとりと 与えられる無条件の愛情のことである)が、
経済・物質優先主義の 延長にある 学歴・給与・個人の生活優先主義に 侵されたら、どうなるのだろう?!と
頭が痛くなる・・・・ 目を閉じて、何も聞きたくない!と 叫びたくなる。
ああ、我が子は、こんな お馬鹿な中教審に 翻弄される 教育現場・学校で 神経をすり減らさずにすむだけでも幸い!と
思いつつ、しかし、姪っ子、甥っ子、それに、その他 子どもたち全般、、、彼らは、いったいどうなるのか?!
まずいだろう、、、日本の教育がこのままでは、まずいだろう・・・ 中教審だけではなく、親の・大人の 人生の価値観・優先順位を
変えていかなくては、不味いだろう,,, ”子供の種がその種から本来花咲くはずだったモノにはならずに、枯れてしまう、、、”
将来を考えると、大変 困る・・・・。 
私一人が あれこれ 反論したところで、どうにもなるものでもない・・・、ぶつぶつ 言うだけ、書くだけ、疲れるだけかもしれない。
でも、自分の子供のことではないから、、といって 黙っていては、それこそ、 ”自分さえ良ければいい” という、
人間が末永く平和に生きていくため上での1番 の 勘違い = 共生から遠ざかる考え方= に 陥ってしまうので、
自分には直接関係がなくても、 気になることは ちゃんと受け留めて考えていこう、自分の考えは表していこう、訴えて行こう、
そう思ったので、ココに書くことにした次第。
 
ひらめき
武道・創作ダンス を必須にするのも 疑問だけれど、
道徳・徳育 を 削るというのも、大いに疑問だ・・・・ というわけでした。
 
激怒
☆授業時間を これ以上増やす、夏期休暇などを短くする、 土曜日に学校がある、などというのは、もってのほか、夏休みの宿題なんて冗談じゃない、、
私は 大声で 叫びたい・・・・・。ガマン
 
そして・・・ 何よりも・・・
 
子供たちが、 生きることが 楽しい、毎日 楽しい、 そこにいるだけで 明日が楽しみって思えるような 社会になるように・・・
平和で、 将来の憂いもなく、 泣きたい時に泣けて、大きな声で”子供らしく”笑えて、好きなことが言える、そんな社会であるように・・・
生きる喜びとはどういうものなのか、それは決してパソコンの中にあるものではなく・他人をイジメ虐げることではなく・誰かにと自分を比べて優越感を持つことではなく・好きなだけモノを買うことではなく・たくさんモノを持つことでもなく・・・・ 全て全て 含めて 自分の喜びを見出せるように、、、、
ほんとうの ゆとり が 子供たちに、 学校教育を含めて、 ゆとり <時間と 空間と、 愛情と > 自由に花開く 機会と ゆとりが 与えられるように・・・。バラ
 
『人間優先、日本優先、自分の仲間優先、自分の会社優先、そういう 競争主義ではなく、みんなが 共生 していける 価値観と 優先順位に気付くように・・・、
 世界が争うことなく平和で、 人類が他の動植物と、鉱物と、この地球上で 共生・共存していけるように、
  一人ひとりが自分の素質・希望・夢などを叶える勇気を持ち、自分以外の人のそれらも同じように妨げることなく応援し、受け入れ、芽を伸ばしていけるように・・・
 「愛してるよ」って 子供を 素直に 抱きしめて 声に出して言えるように・・・・。
 世界が平和でありますように・・・。虹
 
 
 
 
2007/5/18

ぐるぐる回る・・・ 回るだけ?! 教育改革

今朝のニュースで、ゆとり教育を見直し、授業時間を10%ほど増やすために、 公立でも、土曜日に正規の授業や補習授業ができるようにするとか、
夏休みを短縮するなどを学校が判断できるようにする・・・云々というアイディアが出されていることが報じられていた。
 
学力低下を改善するためなのか? 学習以外の学校生活の側面を柔軟にするためなのか? 
 
それにしても、教育再生委員会、教育制度の根本的見直し、教育基本法の改正などなど、いろいろ言われているが、
今朝のニュースを聞く限り、何も目新しい物はない・・・。 根本的な見直しなんて、何処にも見られない。
 
同じところを ぐるぐる回っているだけにしか 見えない。
 
授業時間を増やすこと、休みを削ることが なぜ、学習能力・学力低下に 歯止めをかけることになるのだろうか?
また、
ゆとり教育は、何年前に始まったというのだ?!
ゆとり教育めいたことが行われ始めたのは、昭和の時代かもしれないが、実際に、週五日制になったのは、つい
数年前(2002年?!)だ。それでも私学では、土曜日に授業を行っている学校がある。
また、「総合」という科目が始まったのもこの頃であるが、学力低下が取りざたされるようになったのは、その二年ほど後。
で、国際的な学力比較で、低下しているとされ、ニュースになったが、ただ、ここには落とし穴も、あって、
かつて参加していなかった国(中国や韓国)が、この2004年度のテストに、参加していることなどを踏まえれば、
単に順位が下がったことが、自国の学力低下だという結論に結びつけるのは、片手落ちだと思われる。
 
そもそも、人間の子供は、牛やカルガモの子供と違って、生まれてから歩けるようになるまで、巣立つまで、大人としてひとり立ちするまで、
、かなりの時間を要する。 また、母親の胎内にいる間も、他の動物は生まれてから直ぐに立ち上がれる程度の状態で生まれてくるのに対して、
人間の子供は、生まれた後、成長する余地をかなり残して、生まれてくる。 どちらにしても、人間が成長するには、時間がかかるのだ。
その人間を育てる、家庭生活とともに大きな比重を負っている学校教育において、
一つのやり方の成果が直ぐに・数年で・現れないから、といって、あれこれ変えてばかりいたのでは、親も子供も、混乱はしても、馴染めずに終わるのがオチだ。
子供を育てるのには、時間がかかるものなのだ。 教育の成果だって、ほんの数年のテスト結果の数字をみるだけで、「ゆとり教育」は、間違いだったとか、
授業時間が少ないことが学力低下を招いているというのは、早すぎる。 人間の子供が歩くのに、約一年かかるのだ、そして、そこから走れるようになるのだ。
子供を育てるのには、時間がかかるのだ。 
言い方を変えると、子供の成長結果が現れるのにも、時間がかかるということだ。 幼稚園時代に、人見知りだった子が、一生、そのままとは限らない。
小学校時代に、苦手だった算数が、高校の頃には得意になっていることだってある。 乱暴で、手を焼いた男の子が、意外と、大人になったら、温厚で、女性をうまく
エスコートできるタイプの人物に変わっている事だってある。 
さらに、言い方を変えると・・・
これまでのというか、現代の 若者・子供達に現れている弊害(イジメや自殺、犯罪の凶暴化、ニートやフリーターに見られる無気力化や目標のもてない状況、不登校、他人・友達との関係を上手く作れない、など) は、それまでの 教育の弊害ではないのか?!
膿がようやく出てきた・・・のだ。 その膿、、問題がどうして起こったのか、それは、学力というテストの点数で計るものではなく、子供たちの精神的な側面から
掘り起こし、見直すことが必要なものだと考えられる。
「Home Coming」という本をご存知だろうか?! これは、家族&家系の中での、問題が後の世代の子供に表れる、というものだが、
現代社会で、日本のみならず、各国が抱えている若者・子供の問題は、これまでの社会の矛盾や隠されてきた歪みが、じわじわと浮き出てきたモノではないかと
私は思うのだ。                ※HOME COMING  by John Bradshaw 
 
しかも、2006年1月の大学入試センター試験の結果、(Wikipedia 「ゆとり教育」より)
〔、現役受験生は中学3年生から新学習指導要領で学んだ1期生となった。新学習指導要領では学習内容が減り、入試で高校生の学力低下が表面化するのではないかと注目されていた。ところが、予備校の実施する模擬試験などの結果によると、ゆとり教育世代の現役生が例年に比べ、学力が極端に落ちたという傾向は出ていないという(これについては「出題される範囲も減っているため、正答率がある程度上昇するのは当然のこと」という意見もある)。〕 
という結果も出ているように、一概に、これまでの数年の結果が、直に学力低下に結びついているとは言えない、また、これまでの「ゆとり教育」方針が、悪影響を
与えているとも限らないといえる。
学力が上がったのか、落ちているのか、それは、どこから どう 調査するかによって、変わるかもしれないが、
何よりも、児童・生徒の学習意欲や生活への意欲、喜びみたいなものが 低下しているのは、学力低下よりも、重大問題だと思う。
 
イジメ、自殺、不登校など さまざまに問題が提起されているが、学力低下云々よりも、こちらの方を優先するべきで、だとしたら、
「ゆとり教育」のまま、それを踏まえて どうしたら子供の心を救えるか、、、を考えるべきだろう。
教育改革だとか、根本を見直すというのなら、それこそ、教育とは いったい 子供達にとってどういうものであるのか、
どういうものが子供にとって、成長していく過程で、プラスになるのか・・・、将来、世の中で生き生きと生きていくために、「教育」は何ができるのか、
そういう根元から考え直すべきなのではないのか?!
授業時間数を増やす、土曜日登校、夏休みを短縮などというのは、どう考えても、ゆとりある教育になるとは思えないし、それが、学力向上へと
結びつくとも思えない。
 
むしろ、徹底して、土曜日を休みにするとか、夏休みの宿題を減らすというのが、根本的な改革・変化といえるのではないか?!
たとえば、土・日が休みで、教師も自分の家庭に関わる時間を充分にもてるようになる、とか、
夏休みは、宿題を気にせず、気持ちをリラックスさせるとか、そうやって 家族で過ごす時間を見直すことで、今、問題になっている
親子のコミュニケーションというものを見直す機会にもなっていくだろうし、また、
休み中の時間の使い方も、塾に行くとか、勉強を補う時間として捉えるだけではなく、田舎のおじいちゃん・おばあちゃんを訪ねる、学校行事以外の
アクティビティをするといった、他者や自然との関わりを深める時間として、見直す時が来ているように思う。
日本の学校は、週末はもちろん、休暇中も、そこから離れずにいる。つまり、メリハリがない。 それどころか、部活動など、課外活動が盛んで、
盛んなのは、悪いことばかりではないが、しかし、それが 暗黙のうちに優先されるということは、多くにおいて”学校”関係のものが優先される帰来がある
という側面でもある。 
今の子供達は、ゲームやビデオ、携帯電話など、機械・バーチャルな世界、目の前にいない・見えない相手との本音の見えない関係、そういうものに
囲まれて育っている。 
たとえ、学力低下が問題だとしても、それは、授業時間数や、勉強量だけの問題ではないと思われる。子供の精神が、精神的に摑まるところがない・支える物がないところで、おぼれているのだ。幼児期から、勉強することを良しとされ、見かけは強いられていなくても、”読み書き記憶”することが、”いい子”の条件のような
玩具や環境の与えられ方をしていては、子供達の精神が伸び伸び育つ精神的状況&スペースは、どこにもないではないのか・・・。
やる気が起きなければ、、毎日 すごしているところで楽しみがなければ、満たされた気持ちになれなければ、子供達は、勉強をしているようにみえても、
結局は、身に入らない・・・そういうことになっているのではないだろうか?! 表面上、塾やテストなどは、こなしていても、「言われたことだけやる」
「与えられたものを覚える」そういうものだと、結局は、応用力、自分で考える力は、身についていかないと思われる。ゆえに、国際間のテストで、文章を書いて
答えるタイプの問題だと、半数以上が出来ない・・ということになるのだ。それでは、採点結果が芳しくなければ、それが他国と比較され、結果、学力が”低下”
しているようにみえるだろうが、実は、学力が低下というよりも、学んでいる内容、学び方=教え方に問題もあるのではないか?!
 
今の子供たちは、家庭での居場所もままならず、学校でも、求められている子供像を演じている、そんな状況では、学力が思わしくないのも
全然 不思議ではないだろう。
中学生の4人に一人がうつ病とか、 四人に一人が朝食を独りで食べているという現状を改善するためにも、
もう少し、学校優先=受験優先(=塾などを含む)から、家庭優先に戻すべきではないのか・!? そのためにも、土曜日の休みは大切なのだ。
 
今、「わたしたちの教科書」というドラマが放映されている。
主題歌に、こんな節がある、「小さなウソで 世界が振り向くのなら、嘘つきなる・・・」♪ 
子供達は、親の、大人の関心が欲しいのだ。テストや学力といった学校の成果で一喜一憂する関心ではなく、彼らと接すること、話をすること、
いっしょに過ごすこと、、、何をしたいのか・尋ねること、そういう関心がほしいのだ。 自分はここにいる、とわかって欲しいのだ。
たとえ、親の期待通りでなくても、”愛している”と言って欲しい、愛されているということを感じたいのだ。
それには、、、授業時間つまり、学校で過ごす時間は、これ以上、増やしてはいけない。
楽しい学校生活を送ることは、大切だ。子供の、この成長期には、学校生活・友達との豊かな関係は、大切だ。
しかし、それが全てになってはならない。優先されるべきは、学校や勉強、受験の結果ではない。
人間らしく生きること。そのためには、どう生きていくか?、他者との関わり方も大事になってくる、 コミュニケーション力だ。
そういったものは、学校の前に、家庭で育まれるもの、家庭で、躾けられるものではないのか?
学校は、先生や友達という環境で、それを応用する場と機会なのではないか?
そして、生きる術の教育の、その次に、学習教育というものがついてくるのだと私は思う。
 
「知恵・勇気・思いやり」これを子供たちに伝えたい、と 話されたある先生がいる。
知恵というのは、学校の勉強として得る 知恵も、含まれるだろうが、それだけではなく、「生きる知恵」=他者との関わり、自分を知ること、
そういう知恵なのではないか、と私は考える。
教育を根本から考え直す、こんなチャンスは滅多にないのだ。 よくよく考えて欲しい。 教育とは、何なのか? どうあるものなのか?!
 
でも、、あいかわらず、お偉方は・・・
 ぐるぐる 同じ議論を繰り返しているようだ・・・。  ぜんぜん 根本的改とは言えないだろうと、思う次第だ。
 
2007/4/19

すごい!って思ったこと

昨日、妹のところに、子守に行った。
妹の長女、つまり私の姪っ子が、この春、幼稚園(年中さん)に入園した。
で、その入園準備や受験(?面接)などのときも、子守兼留守番に何度か出かけたのだけど、昨日は、新学年始まって初の、
”親子懇親会”みたいなもの〔 一時間ほどで、組ごとに親が集まり、ジュースを飲んだりしながら、年中行事に携わる役員や係りを決めたり、簡単な自己紹介をして
名前と顔を合わせたりするという目的 とのこと。〕 があって、飲み物が出されたりするため、甥っ子(只今、2歳半)を連れて行くと大変だ・・・ということで
私の出番となった。 こういう小さい子の面倒を見てもらえる人がいない場合は、幼稚園に連れて行くことも可能なのだろうけど、
私の妹は、こういう場合、私が暇なことを知っているので(苦笑)「来てくれる?!」と ・・・いうことになる。
そうして、私は、片道一時間かかるけれど、姪っ子、甥っ子の顔を見に、でかけることになる・・・・。
私は、娘の幼稚園児代を南アフリカで のん気に過ごしたので、妹から聞かされた幼稚園の話は、驚き!で いっぱいだった。
 
役員を決めると言うことから始まって、 幼稚園の行事の係りを決める時、妹は、お遊戯会みたいなものの後で、衣装を洗う「洗濯係り」に
名前を記入したのだとか・・・。 行事にしても、当日の世話係りや、前日までの準備係り、さまざまあるらしいが、一クラス 30人ほどで、
年中は、三クラスあるのだとか・・・。 ちなみに、この30人に 先生が二人とアシスタントが一人、計三名の大人が子供の世話している。
 
「そういえば、先週、”検尿”を忘れちゃったよ。。。 あんなの向こう(外国)じゃ、ないからさあ~」と私が言うと、 妹は・・・
「あったよ! 検便!!!!! 驚いちゃった、三十年経っても、やり方って同じなんだね~!」と・・・。 それを聞いた私は、
「え? 幼稚園で?!」 と、さらに 驚いた・・・。 
そういえば、私達も、保育園(?)や小学校のころ、 ”ギョウチュウ検査”という名前で、そういう ”検便” が あった。
が、これだけ 衛生面で日本全国 行き渡るようになった昨今でも、そういうのがあると聞いて、 いや~、日本ってすごいね~!
至れり尽くせりだね~ (本心= 過保護!あきれてる・・・。) と思った。
日本では、健康診断・身体測定というのは、新学年の初めには、欠かせない学校行事(?)だろう。
三年前、娘が中学校(私学)に入学して間もなく、 帰宅後、「今日、血を採られたよ。、」と娘から聞いて、私は、学校に抗議の電話をかけたことがある。
何の事前予告もなく、「健康診断」の一部として、採血があったというのだ・・・。
学校側は、もちろん、「健康診断以外の目的では、使いません。生徒の健康状態を事前に把握しておくためです。」と言ったけれど、こちらとしては、(未だに!)納得していない。 多人数で行われる検診での、「針」を使うことなのだから、そういうことは承諾を得て欲しいというのが、私の言いたかったことなのだ、が、、、。
もちろん、針は、一人ずつ、変えている・・・と ( I hope ) 思うけれど、そういうことをきちんと連絡して欲しい。それこそ、個人情報 & 各自への健康管理(感染防止)だと思う私は、親・保護者の承諾なしに、子供の採血をするなんて、理解し難いことだった。が、日本の他の 親御さんたちは、学校で”健康診断”があるというのは、小学校から、当たり前と思っているらしく、内容がなんであれ、疑問には、思わないらしい。
ちなみに、今年、娘が入学した私学の高校では、健康診断で、「心電図」まで、とってくれるらしい。 血液検査は、ないようだが、心臓に何か、問題があるかどうかなど、事前に学校が把握しておくことが必要だ。。。 という理由が、プリントに書かれていたが、そういうのって、保護者の責任範囲じゃないのかな?! 
私学だから、余計に そういうことに神経が細かいのだろうか? それとも、 ”授業料以外の諸施設費”みたいな 経費を使うための 一環なんだろうか? 
== 制服なり、副教材なり、こういう 健康診断なり、 やるにしても多すぎる!とおもうことが よくある。 が、業者・医者と学校側が、持ちつ持たれつ 
お互いに利益を得るように連携プレーということなのだろうか? 学校独自の副教材の制作や印刷、制服の大量注文が減ったり、無くなったりしたら、困る業者もいるだろうし~など・・・。==
私の高校時代(県立)は、身体測定みたいな健康診断( 含: 歯科検診、および 視力検査)があっただけで、心電図は、なかった・・・・、
もちろん、採血なんていうのも、覚えがないけど・・・。
 
前にも書いたと思うが、幼稚園の制服もすごいもんだ! 妹の所は、姪っ子なので、女の子用のものだが、
かばん、ぼうし、カーディガン、ポロシャツ、スカート から、 運動する時の シャツ、半ズボン、ズック、 作業したり遊んだりする時のためのスモック、
それらは、サイズを測り、指定業者から、購入するのだけど、他に、 サイズを指定された 二種類の”布製のかばん”(道具箱入れ、運動着入れ用)や、副教材として購入させられた 「お道具箱」 (まるで、私達が小学校入学時にもらったような、おはじきなどのセット) に すべて名前を書くとか、制服などにも、すべて 小さい白い布に記名し、それを衣類に縫い付ける(衣類に直接書いてはダメ!)など、幼稚園から 細かい指示が出ていた。
制服といえば、娘の中学、高校でも、同じように、「ここまで するか?」と細かい購入表をみて驚いたが、、、、。
幸いなのは、中学が、夏も冬も指定のソックスだったのに対し、今の高校は、ふだんは、白なら、何でもOK (ただし、入学式などの学校行事の時は、学校指定のソックス。)ということ。 ただし、高校になって、「うっそ~!」と驚いたのは、 市販もされているメーカーの靴なのに、通学の靴は、学校指定でないとダメ!、という点。 あとで、こっそり、普通の靴屋さんから、同じようなローファーを買おうと思ったら、、、なんと 制服注文時にサイズを測って、注文&購入した 学校指定の靴には、校章が、表面にうっすら刻印されているもの!!!!!  いや~、驚きましたね・・・。  しかも、彼女の通う この高校は、学校内の屋内履きのシューズがなくて、そのまま 通学時のローファーの靴で、一日中過ごすのだ。 (体育館用と グラウンドでの屋外運動用のシューズは、それぞれ指定された。)
~~~ そこまでするか?!  心電図をとってくれるくらいなら、 靴を 自由にしてほしい。 一日中、履いているということは、かなり足に負担がかかるのだから、
生徒個々、個人の足に合う靴を 履かせることが、”健康”によいのではないか、と私は 思うのだ・・・・。
娘は、「湿気のある日本なのに、一日中、履いてたら、水虫になっちゃうよ~!」と 嘆いていた!
 
話を妹に戻す・・・と、。
姪っ子の制服購入の際、カーディガン(上着)の中に着るポロシャツは、2枚セットで 注文し、届けられたものなのだが、
これから、春、暑くなることを考えて、もう一枚、購入しようか、、、と思ったらしい。
が、改めて、制服のリスト(値段表)を見て、「やめておこうかな~」と 一言・・・。
「せめてさあ~ 上着の下に着るものは、自由ってことにして欲しいよね~。 白なら、どんなTシャツでもいいとかさ~。」と 妹の本音。
 
私の実家にある保育園などは、園児用指定スモックは、あるものの、その下は、スカートもズボンも、通学ズックも、通園鞄も自由だ。 
これは、私の時代から、変わっていない。 スモックと呼ばず、「上っ張り」と呼んでいたっけ?!・・・。
以前、そのリストを見ててもらった時の記憶では、ポロシャツ一枚3000円くらいだったと思うが、値段もさることながら、いちいち 業者に
注文しなくてはならない、というのも手間がかかる。 ジャスコとか、ユニクロなどで、適当に購入したものではダメなのだ。 
制服というのは、一見、便利なところもあるが、いろいろ 考えると、不便& 割高でもある。
娘の中学の時の制服も、知り合いのお嬢さんが、この4月から同じ中学へ通うことになったので、ブラウスなどは、別としても、夏・冬の上着や、冬のセーター、
スカートなどをさし上げることになっている。 万が一、汚れた時のこと (洗濯機で洗える品物ではないので、クリーニングに出さないとならない、それを考えて、
たとえば、スカートも夏・冬、それぞれ二枚購入した。)を考えて、我が家は、2着注文したので、予備として、さし上げることになっている。
なぜでしょうね~、
健康診断も、 制服も、、、 too much な気がする・・・。
こういう お金の掛け方、 保護者に お金を出させる仕組み、 すごいもんだなあ~ と感心する
 
私学・私立の幼稚園だから、そうなのではないか? ・・・ とも 思うが、我が家だって、妹の所だって、特別にお金が余っているから、
私学に通わせているわけではない。 妹の所は、たとえ、保育園に行かせたくても、空きがないし、それには、妹が働いて、共働きであることを証明しなくてはならないが、じゃあ、その ”働いていることを証明するために働いている”間は、誰が、子供を見てくれるのか?! ・・・ 保育園に入るには、なかなか 難しい 現実がある。 公立の幼稚園も、私立の幼稚園も、少子化なのに、倍率が高く、通える範囲で、 少しでも自分達の子育てに合う方針の幼稚園、、と思えば、選ぶのも、
大変だ。。。しかも、選んだところに入園できるとは限らず、結局、「入れるところ」に行くことになる。
そうしたら、制服の購入などに お金がかかるということは、妥協しなくてはならないことになる・・・。
妹なりに、近所の人から聞いたりして、調べたところ、姪っ子の通っている幼稚園(お寺が母体)は、制服や月謝も、他と比べて特に高いわけではなく、
中間くらいだという・・・・。
娘の通う中学、高校も、確かに、 べらぼうに 高いものを購入させられているわけではない・・・。
されど・・である。
検尿、検便、までは、許容範囲 (集団生活だから?!)としても、 心電図、血液検査、どうかなあ~?!
本当に生徒の健康管理に必要なのだろうか・!? それらは、学校が管理する責任の範囲なのだろうか? 
おそらく、親・保護者でさえも、そういうこと(ヘモグロビンの数値とか、心電図から知りえる体のこと)は知らないだろう・・・。
なんでもかんでも、学校が 面倒を見てくれる、学校が管理している、、、そう思いこんでいる保護者が 多いのだろうか? 
日本の学校での、歯科検診だって、(自分の時は、毎年あったので、当たり前だと思っていたが、)娘が通った海外の学校では、
なかった。 ああいうのは、各家庭の、保護者の責任の範囲だろうと 今の私は、思うのだ。 
そういう学校などでの集団健診が 必要なのは、ある程度経済的ゆとりのある教育水準が安定している日本みたいなところよりは、
途上国(保護者に、そういう子どもの健康管理などに経済的、時間的ゆとりのないところ。)などでこそ、だと思うのだが・・・。
それでも、娘の話によると、体重、身長と、視力検査は、あったらしい。 視力は、黒板の文字を見たりする必要から、先生方には、把握しておく必要が
あるとおもわれるが・・・。
至れり尽くせり・・・ なのか?
  過保護なのか?
子育てをしていると、、というか、学校に関わると、驚くことがたくさんある・・・・という お話でした。 
2007/4/15

週休二日

今年、高校生になった娘・・・。
前にブログにも書いたけれど、
三月まで通っていた私学の中学は、中高一貫教育だったので、そのまま 同じ学校の高校へ進むこともできた。
が、あえて、違う高校へ行くことを決めた。
第一志望の I 高校は、残念ながら、合格できず、急遽 探した 別のK高校に 縁あって、合格できた。
こちらも、I両方 実は、私学である。
今までの学校は、土曜日に授業があった。
中学受験の説明を受けていた時、土曜日も学校がある、と知って、とても驚いた。
日本もてっきり週休二日になっていると思っていたのだけれど、私立の学校は、独自の教育カリキュラムで 指導できるということで、
土曜にも授業をしている学校がけっこうあるらしい。 
”ゆとり教育”について、学習(授業)時間数が減ったことに危機感を感じた父兄や 学校側が、土曜日にも授業をしている、、ということらしい。
だから、公立は、土日が 休みでも、私立では、学校の方針によっては、土曜日に学校があることがあると 聞いて、 正直 ショックだった。
が、他の”利点”を考えて、その中学を受験 (受験といっても、我が家は、たった25日しか 受験勉強をしていない にわか受験だった。
別に娘が特別賢く優秀だから短期間で合格できたわけではない。選択と学校とのニーズが合ったというところだろう。 我が家は、今でも、
三年前、あの学校に娘を拾ってもらった、縁あって幸いだったと思っている。) し、合格できたので、三年間、そこへ通った。
 
そして、今回、、不合格になった第一志望は、土曜日もある私立の高校なのだが、合格した K高校は、土曜はl基本的に休みの高校だ。
入学式や、何かの行事がある場合 (たとえば、PTA総会や、校内スピーチコンテスト、学園祭など )に、それを土曜日にあてることがあるので、月に一度くらい、土曜日に登校することもあるが、授業はない。
さて、本日・・・・
三年ぶりに、土曜日の休み! だった。
もちろん、これまでも、平常以外で(春休みとか!試験休みとか)土曜日が休みになったことはある。 
が、レギュラーの週末の、土・日は 休みではなかった。
なんと 心休まるものだろう~。
土曜日が休みだというのは、とても 素晴しい! 週休二日は、 すばらしい~! と改めて思った。
 
我が家は、結婚した時から、「週休二日」の生活で、 娘が生まれてから、日本に帰国した時も、 ちょうど 公務員などが週休二日に定められた直後で 
企業も週休二日が中心になっていた頃だったので、そのまま 週休二日の生活だった。
娘が幼稚園に入る年頃には、アフリカにいたので、こちらでも、もちろん 週休二日だ。 当然、職場も幼稚園、学校も週休二日。
その後、ヨルダンに移ったが、こちらも、 金&土の 週休二日だ。
我が家は、娘を補習校へは通わせなったので、フルに 週休二日だった。 通わせている家庭は、金曜の午前中が 補習校に関わることになるし、
時によっては、午後からも、父兄の集まりなどがあって、「週休二日」とは、いえない状況だ。
うちが、補習校へ通わせない方針にした理由の一つに、この”金曜日の休みを確保する”ということもあったことは否めない。
それが、日本に帰ってきたら、近所の公立小学校へ通っていた半年は、土・日が休みの週休二日だったが、
上記のとおり、私立中学になったら、土曜は学校の日になった。
しかも、三年目は、学校の方針で(学力低下の憂いで、国語の時間などを増やすということで) 土曜日は、三時間から、四時間授業になった!
これは、私の教育方針の逆を行くものだったが、部活をしていたので、授業の時間が一時間増えたところで、土曜日に学校にいる時間は、変わらない・・と、
納得するしかなかった。        *授業時間が増えたからといって、国語力が増すとは、思えなかったが・・・。
 
 今朝、娘が、
「 あ~、いいね~ 土曜日が休みって、最高~!」 と言っていた。
私も、単にお弁当を作らなくてよいというだけではなく、土&日 の両日が休みというのは、気分的にとてもリラックスできると思った。
 
二日のうち、一日を外出にあてても、もう一日、家でゆっくりすることができる、
一日、何かの用事についやしても、もう一日は、家族で過ごせる、そういう使い方、過ごし方ができるのだ。
それに、やはり一日しか休みがない、というのは、(二日の休みに慣れてしまうと、) 6日分の 疲れを癒したり、普段出来ないことをやろうとしたり、
するには、短いように思う。 何をするでもなく、のんびりと過ごしたとしても、それで精一杯だろう。
それなのに、娘達の時代=中高生は、 それなりに宿題もでるし、勉強以外に、やりたいことだってたくさんある年代だ。
部活動をしている子だってたくさんいる。部活があると、週休ゼロ ということだってあるのだ。
だんだん 家族よりも 友達優先という 気持ちが芽生えてきて、親と一緒よりも、友達と一緒にどこかへ出かけるようになる。
そういうときだからこそ、週休二日の方が、よいと 私は 思うのだ。
日本は、学校優先という感じが どうしてもする。 個人よりも 集団優先とでも言おうか・・・。
集団ならば、家族という集団も あるはずなのだが、学校へ行っている子どもがいる家庭では、どうしても、(なぜだか?)学校行事が優先される。
部活動などに勤しむのは、悪いことではない。体育祭や文化祭、そういった行事に励むこと、学校生活のアクティヴィテイィをすることは、貴重な体験となるだろう。
しかし、だからといって、何でも学校行事(模試などを含む)を優先していたのでは、ますます 家族との時間が少なくなる。 
それでなくても、昨今は、学校のほかに、週末も塾へ通っている子が増えている。
そして、それが、当たり前のようになると、忙しさに追われて、子供とのやりとりがどんどん減っていく。
もっと 保護者・親が 子供に関わって、いろんなことを話し合うことができる、そういう年齢になっているというのに、そういう時間が
削られてしまっているのが現状だと思う。
家庭によっては、働いている親が、土日の休みとは 限らない。 私の父も、日曜休みではないことが多かった。
だからこそ、である。互いに時間をやりくりして、家族が顔を合わせ、一緒に話をし、過ごす時間を作ることが必要となる。
それゆえ、子供の休みは、貴重だ。
たった一日ではなく、二日ある方が、それぞれ都合がつけやすいのではないだろうか。
もちろん、休みが何日あろうとも、共に過ごそうという気持ちがなければ、擦れ違ってばかりになるだろうが、そういう状況が助長されると、
現代社会で問題となっている 親子の会話がない、とか、子供が何を考えているかわからない、とか、会話が減ってしまった。とか、そういうことになる。
できることなら、そういう問題を 不必要に増やさないためにも、時間の余裕は、ある方が、各個人にも、社会にも、望ましいと私は思うのだ。
 
朝、すこしだけ ゆっくり 起きて、朝食は、パン屋さんに焼きたてのパンを買いに行こうと思った。
あいにく、そのパン屋さんは、今日、休日であいていなかったので、別のところで 食パンを買って帰った。
今日の予定はどうしようか? と娘と話しながら、コーヒーを飲んだ。
昼過ぎ、娘と買い物に出かけた道すがら、「あ~、土曜日休みって いいね~」
と言いながら、 はじめて、第一志望が不合格になって、”よかった” と 心から思った。
娘に、それを伝えたら、彼女は、同じ中学の Hちゃん(前のブログ、”大好きだよ” 参照。)と 一緒に I 高校へ通いたかったな~と
いいつつも、 「うん、いろいろ考えたけど、これでいいって思うよ。 週休二日って、やっぱり好いし~。」と 言っていた。
明日の午後は、娘と私の共通の友人に 会うことになっている。
だから、今日のうちに宿題など済ませておく方がいい、 と解かっていても、ほかに やりたいことも溜まっていたようだ。
大丈夫、今日と そして明日も休みだから、焦らなくてもいいよ。
 
土日、休みというのは、本当に嬉しい!!
一度、三年間、その”土曜日休み”を 失ったので、 より 週休二日の ありがたみを 感じているところである。
 
 
2006/12/6

ペイ・フォワード

前回、書いた 娘から聞いた ペイ・フォワード 「次へ まわす」という ことを描いた映画・・・。
 
先日、娘と一緒に 自宅で ビデオを見ました。 
 
最後は、涙が出てきました。
 
一緒に見ていた 娘も、涙を何度か 拭いていました。
ドラマの中とはいえ、主人公の少年が 始めた ”親切”が、どういう方向でどこへ 広がったのか、
もう少し 見たかった気もしますが、 どれだけ 広がったかというよりも、 そういった ”親切”を受けた 人が、
世の中への視点を変えて、=「親切にしてもらった 相手に返すのではなく、それを また別の人に 伝える・・・」 
どこかしらで、 そうやって 思いやりの輪が広がるもの可能性があるのだ、ということが 嬉しいと思いました。
それが、新たな社会への希望になりえるだろう、と 思えることで、=その少年の蒔いた種が 芽を出した・・・、
彼が、この世に残した、彼の中にあった、”善意の心”、それが 確かにあった、そして、それは、実は、誰であってもみんなの
心にあるのだろう、と 思います。 
 
私が、どこかで 聞いたことのある話だなあ、と 思ったのも そのはずでした・・・。
映画(ビデオ)を見始めたら、娘が、「これ、途中まで 見たことある!」と思い出したのです。
前の学校で、 クラスでの一泊遠足のような行事の時に、 夜、みんなで ビデオを見たのが、これだったのだそうです。
ただドラマ中で、”スラング”というか、乱暴な言葉遣いが 出てくるので、クラス担任の先生が、「やめようか・・・」と聞いたところ、
こども達は、「こんなの、いつも 使ってるよ!大丈夫」といって、。見続けたのだそうですが、就寝時間となって、
途中で やめたようでした。。 
 
主人公の少年と、彼の置かれている生活環境、また、学校の環境、先生との関係、
今、日本で 問題になっている ”イジメ”の問題にも 通じる 子供同士の 関係、、、
いろんなことが 盛りだくさんですが、 少年の、”ふつうさ”が、 このドラマの 特異ではあるけれど、訴えてくるものの根底を
支えているのだろうと思いました。
 アルコール中毒から 抜け出そうとして、二つの仕事を掛け持ちしている母親・・・ との 母子家庭( 母に 暴力をふるう父は、
家を出たきりで、たまに帰ってくる)、 こういう状況の、一見 さめてものを見ている少年であるからこそ、彼の心の叫び、
愛すること、愛する人への 渇望が 静かに静かに、、、伝わってくる気がしました。
 
ストーリーは 書きませんが、興味のある方は、ぜひ ご覧ください。邦題 : 「ペイ・フォワード、 可能性の王国」     
 
 
2006/8/7

校則

どうして、学校に マニキュアをしてして行っては いけないのでしょう?
 
学校に 制服というのがあって、それを着用して通学すること・・・というのは、わかる。
 
その上、マニキュア、だめ、  ピアス、ダメ・・・。 
 
私の時代は、 スカートが 長くて長くて、、そlんなに長いのは、ダメ! 不良だ、って言われた時代。
 
今は、逆に、スカートが短くて、短くて、、、携帯電話で盗撮さわぎになるほど短い。
娘の学校の女子生徒が、あの短さで メルボルンの街を歩いていたら、石を投げられた・・・って。
つまり、娼婦のように、みだらだ、と投げられたのだけどね・・・。
 
長くても、短くても、だめ・・・・・。
 
いちいち、長さまであれこれ 決めるから、みんな ちがうこと やりたがるんじゃないの・・・。
 
自分jに似合うものが、どういうものか、日本の子は、知らなすぎる。
単に、流行っていると、マネをする。 外れないように、遅れないように・・・。
 
個性的に、そして、自分らしさ、自分に似合うものを、、、それは、実は 思春期から始まるものではない。
小学校、いや、もう少し小さい頃から、自分には、何が似合うのか、自分は、どういうものが好みなのか、という
意識を少しずつ持って、身に就けるものなのだ。
 
外国にも制服のある学校は、多い。しかし、
日本の、 極端に長いスカートだったり、短いスカートだったり、ラッパズボンだったり、腰パンだったり、、
み~んな 同じようにマネをするのは、日本の病気のようだ。
 
それに比べたら、個人的に マニキュアをすること、 ピアスをつけていくこと、多少の色を髪につけること、などは、
ずっと いいと思う。
少なくとも、自覚して、自分に何が必要なのか、と、意識するわけだから。
 
"お洒落に注意が向くと、学業・勉学がおろそかになる、”
ーーー そんな お洒落程度で 離れていってしまうような、そんな 内容なら、学ばない方がいいかも知れない、。
教え方も悪いのかもしれない。 それに、こんなに 長年、続いていることなのに、結局、学力は落ちているという。
つまり、お洒落と 学力は、無関係・・・ってことでは、ないのだろうか。
 
 
2006/8/5

いるか --- 褒めて育てる

他のイルカに比べて、なんとなくやる気がないように見えるイルカ・・・・が、いた。
イルカ、、、なかなか 芸を覚えられず、厳しく叱ると、すねたりしてしまう・・・・
 
そんな イルカを、叱咤しながら、どうしようかと 悩んだ担当者は、怒らずに、褒めることにした。 
小さな目標の、ひとつひとつ、わずかな進歩を いっしょに 喜んで、褒めて、励まして・・・
イルカは、どんどん 芸を覚え、うまくできるように成長した、、
空中のボールを鼻先でつつく芸が なかなか習得できない、三回 失敗して、担当者は、やはり、嘆いてしまった。
本番は目前なのに、イルカは、水中にもぐってしまった。 
 
  その本番の時、担当者は、がんばろうね、と イルカに話しかけ励ました。
会場の人々の拍手の中、
イルカは、みごとに できなかった芸も クリアした。
よく出来た!と くり返し褒めると、イルカも嬉しそうに 水中で 体一杯表した。 
 
 
・・・・・ なにくそ!と がんばれる子もいる。 根性だ!と叱咤することで 前進することもあるかもしれない。
でも、、、
目標をもって ”根性でがんばろう!”と自ら思っている場合でないかぎり、なかなか 厳しい環境や練習をうけいれることは、なかなか容易ではない。
 
私も どちらかというと、褒められると やる気になる方だ。
怒られると、「じゃあ、別に 無理しなくても、私は、構わない・・・」と 思ってしまう。
他人からみたら、”進歩がない、がんばっていない、”と 見えるかもしれないが、それなりに自分のやっている事を 肯定的に評価されないというのは、
嫌なものだ。気持ちが、後ろ向きになる。 嫌イヤやらされていることなら、尚更だ。
少しでも、自分を認めてもらえたら、その分だけでも、次につなげようと思える。
 
イルカ、、、 人間も同じだよなあ~って 思う。
 
・・・このイルカの話は、今朝のNHKニュースの中からの エピソードです。、・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
2006/8/2

タマゴが先か、にわとりが先か?!

今日、NHK クローズアップ現代で、現代の日本人のモラルが低下している、と感じている人が
七割以上いる、という調査結果が伝えられた。そして、不適切なゴミの出し方、勝手に捨てる人、図書館で借りた本に勝手に書き込みをしたり、切り取ったりする人がいること、高級外車を購入できるのにも関わらず給食費を払わない親がいる、等を 題材にして、「人に迷惑をかけず、人に恥ずかしくない行動をとる」とされていた日本人のモラル感が、どうして、このように変化してしまったのか、・・・など、を報じていた。
 
あるブログで、日本の教育・学校教育の退廃、子供の心の荒廃などについて、その原因には、
○父親が、”恐い”存在ではなくなった。 (単に、恐ければいいというわけではないが、友達感覚を好むあまり、結果、叱る役割、権威のある存在の父親が、不在になっているということ。
○親が教師を甘くみたりしていて、尊敬していないことで、子供も教師を尊敬しなくなっている。
○母親が(家庭内で)父親を尊敬しなくなっている。
○教師が、教育というものを 崇高なものと捉えているかどうか、の欠如。
というような点= 他者を尊敬する気持ちが育くまれていないということをあげていた。
            
 <※下に、その四つを原文のまま、記載。>
 
 
母親が父親を否定したり、親が教師を軽視したり、また、マスコミも権威のあるものを否定するような報道ばかりを目立たせたり、する現代社会の中では、子供達の心理に、心に、他者に対する"尊敬"の念というものが生まれにくくなっている、とその人は、分析していた。
 
特に、小学校時代(7~13歳、感情・気持ちを豊かにさせる年代)に、それが育まれることがのぞまれるのだが、それが今、うまく機能していない。それは、日本の現・教育システムにも、問題があるのだ、ということだ。
 
私が10代後半だったころ、いわゆる中学・高校での学校崩壊というか、学級崩壊というのが始まり、問題になった。 が、今、問題となっているのは、その1つ前の小学校の子供達の心理状態だ。
充分に、感情を、(そして、↑この人の分析によれば、)、他者を敬う・尊敬の念を育まないでおくと、
これからさき、この子達が大人となった時、、どうなるのか。。。。
 
今夜のクローズアップ現代を見ていて、ちょうどこのブログの四点を思い出したのだが、
 
はたして、、、今、子供が尊敬できるような大人が周囲にはいるのか???
しかし、このまま 他者を敬えるような、目上の人を尊敬できるような環境を作らないでおくと、
ますます、「モラル低下」が 危うい。
では、初めに、、無理にでも、他者を尊敬するような、周囲に迷惑をかけないような人間を作るべく、子供を指導するのが よいのか?! ・・・たとえ、周りに 尊敬できる大人がいなくても・・・?。
 
私は、子供は親の背中・周りの大人の姿をみて、社会性を学んでいくものだ、と思っている。
それが、すべてとは 言わないが、みな、少なからず影響を受けると思う。
 
番組で、ある60歳代の男性が、公的な場所のゴミ箱に、"家庭ごみ"を捨てていく現場が
写され、なぜ、家庭ごみをそんな場所に捨てるのか_?という 問いかけに、
「何が悪い! 利用してやっているんだから~、」という横柄な態度で答えていた。
コンビニエンスストアの前に設置されていたりする公的なゴミ箱(ボトルや缶、紙などに、分別できるようになっている)には、家庭ごみを捨てないように、と注意の張り紙がある。
それなのに、生ゴミを含めた家庭ごみをわざわざ持ってきて、捨てる人が多いと言う。
 
------- これを見ていた娘が言った。 
 「60歳っていったら、いい大人じゃん。 なんで、そんなことするんだろう~、バカじゃないの!」と。
 たとえば、60歳といったら、戦後の苦しい時期から、高度成長期を生き抜いてきた世代だろう。
その人たちに、育てられたのが、私の世代(~より、少し後)で、その子供が、今の小学から高校生あたりになっている。
私達は、どう育てられたのか? 私達の、目の前には、尊敬すべき・尊敬できる大人がいたのか?
そして、私達は、自分の子供達に、何を示し、見せることができるのか?
 
図書館で、借りた本に ”赤いペン”で書き込みをしたり、切り抜いてしまったり、そういう行為は、
”してはいけない”と、今時の中学生でも、判ることなのだ。 それなのに、どうして、青年~大人は、
そういう行為を、”つい” やってしまうのだろう・・・・。
 
子供に お父さんを尊敬しなさい、と 言うことだけなら、簡単だ。
母が父を軽視しているというのも、表面を繕うのは、可能だ。
仮に尊敬できないような教師であっても、その ふりをすることも可能だ。
お父さん達が、子供に嫌われたくないといいながらも、”恐い存在”であるように振舞うこともできるだろう。 
しかし、実(身)が ともなっていなければ、観察のするどい子供は見抜く・・・
見抜くからこそ、学校荒廃などということになるのだ
 
◇父親は、嫌われても恐い存在でなければならない。
◇母親は、子供に父親を尊敬させなくてはならない。
◇両氏は、子供に教師を尊敬させなくてはならない。
◇教師は、教育を崇高な行為としなくてはならない。   
 
・・・・とはいっても、「~なくてはならない」 だけで、対象が そういう状態でなければ、どうだろう?
 
確かに、モラルの基礎は、家庭にある、と思う。   
他人に思いやりを持つことも、家族内の温かさ、他者(親・兄弟など)を思いやること、気遣うことから、生まれるだろう。それが、他者への 尊敬の気持ちにも、繋がっていくだろう。
 
 さて、、、ニワトリ が いなくても、タマゴは、生まれるか???
 タマゴが なければ、ニワトリは、生まれない・・・??? 
どうしたら、いいのだろう・・・・。
それにしても、モラルの低下は、ほんとうに、嘆かわしいことだ・・・。 
 
2006/7/26

日本ふしぎ発見

初めて・・・・
 
娘の友達の家族の中に、、、 そういう人がいるというのを 知った。。。。
 
やっぱり、居たの?! ドラマの中、だけじゃなかったんだ~。
 
  発見してしまった! と 思いました・・・。
 
何を?!   
 
 
 
「100点以外は、0点も同じだ!」 と いうお父さん。
 
そして、成績表に、見向きもしない・・・。 
 
小学生の時から、「100点以外は~」と 言われ続けてきたんだって・・・その子。
 
私には、理解できない 考え方・・・でした。 
 
 
 
2006/7/25

応用学力の基礎となるもの・・・

少し前、NHKのあるニュース解説コーナーで、先日行われた、全国一律の応用学力テスト(参加した自治体、学校と、しなかった学校それぞれ、このテストの意義について、意見はまだ分かれているが・・・)の結果を踏まえて、今後の課題は・・・というモノを見た。
 
問題・課題として 浮かび上がった 主な点 :
 
① 基礎学力の知識のはがれおち   --- どういうことか、というと、例えば小学校中学年で習った計算を、小学校高学年では、忘れてしまう、中学年生はできるが、高学年ではできない率が高い、それが、ふたたび 中学生になると、正解率はやや上昇カーブになる、・・・ 中学生になると、また基礎の計算を使って、より複雑な計算になったりして、もう一度、覚えなおすことになるからだ、と分析される。    
つまり、教えた=覚えた・・・と思っていても、身についてはいない、”剥がれ落ちてしまっている”ケースが多い、ということ。
 
 
②詰め込みに 限界  --- どんどん 教える内容も多くなり、より低年齢化していっていはいるものの、詰め込むという学習方法には、限界があるようだ。
 
 
③実感を伴わない(コトから、生じる )考える力、の欠如 --- 読み書き、で 覚えることは多いけれど、実際 手を動かしたり、体験したり、実験などを含めて、自らが、体験することが少ないため、応用が利かなかったり、自ら考える力が、育っていないようだ。
 
・・・以上、三点があげられ、
結局、学力低下と叫ばれて、試してみた 応用学力テストの結果、見えてきたことは
③のところに、行き着くらしい。
 
・・・そして、考える力を伸ばすためには、それなりの 教材作りをする必要があり、
それには、大人の考える力も、問われている・・・のが、現状だ。
 
――― と、その解説者は、結んでいた。
 
 
ようやく、気がついてくれたのね・・・ と、思った、が、 大人が あたふたするがゆえに、
何においても、テストばかりされる子供たちは、気の毒だ・・・。
 
昨日、ちょっと学校へ行く用事があって、ふと 思い出したので、娘の、前の学校(英国系)の
”Year Book”というのを 開いて、見た。
 
4年生の時は、ギリシャのことを 学んだので、 ギリシャ建築から、当時のギリシャ人の服装までを自分達で、創作劇のようにして 寸劇をする、という時間があった。父兄の前でも発表する機会があり、私も見に行った。 ”Year Book”にも、その様子が写真に収められている。
 
ギリシャのことを学ぶ、というと、漠然としているように感じられるだろうが、 西洋社会では、古代ギリシャというのは、どの国にとっても、社会背景、歴史のかなり基礎的な部分にあたる。
ギリシャという タイトルで、 そこの地理的なもの、歴史的なもの、人々の生活・衣食住など、総合的にギリシャを捉えるのだ。 
 
同じように、5年生の時は、ローマのことを学んだので、ローマ時代の遺跡のことから、その当時の人々の衣食住、法的なもの、など、さまざまな分野で、学び、遠足をかねて、ローマ遺跡のあるところへ行き、そこで、スケッチをしたり、感じたことを話し合ったり、という体験もした。
 
ちなみに、彼らは、3年生だったか、、、エジプトを学んだ時は、ミイラもどきを 新聞紙で作るということもやった。 また、古代エジプト文字、ヒエログラフを 学んで、自分の名前描いてみる、というようなこともやったように 記憶している。
 
そして、6年生の”Year Book”には、 空軍の空港へ行って、小型のロケットを発射させるのを実際に見た、ということが 写真にある。 これは、理科の実験の一部なのだが、軍のロケットを発射させたのではなく、単に、 広い敷地が必要だった、ということで、場所の提供協力を求めただけのこと。
日本でも売っていると思うが、子供の実験用の ロケットのようなものを 打ち上げてみるのだ。
引力、重力、そんなことを 学ぶ単元だと思う。
 
また、夜空の星と月を 望遠鏡で観測するということもやったが、私が言いたいのは、
このように、さまざまな 実感を通した 学習を してはいるが、一方で、これらに対する
テストなどは、ない、ということだ。 各自が、ノートに 、レポート作成し、先生がチェックする、ということはあっても、各学期での、テストなどは、ない。
学年最後に大まかに、その年で、最低限身についていたほうがいいと思われる内容を”テスト”
を受けて、その子の学力が、その「覚えている方が望ましい」とされている範囲に、入っているかどうか、を確認するだけだ。
 
このように、日本の授業・教科書からみると、一見、”学習”っぽくないことを たくさんしていて、
彼らは、それについて、テストなどは、されない。
しかし、どんなことを自分が やったか、を通して、 感覚的に=実感をもって、エジプトのこと、ギリシャのこと、ローマのことを 捉えているため、そこから、例えば、世界史の基礎をパズルのようにはめていき、各国の歴史に枝分かれしていlき、さらには、また総合的な世界史へと 戻っていく時に、役にたつだろう、と、考えられる。 覚えたかどうかをいちいち、小さな感覚でテストすることは、しなくても、潜在意識の中に、実感として、昔の人々がどんなことをしていて、各地域でどういう関わりをもっていたか、そういうことが 記憶のどこかに潜んでいることが、意味をなすのではないかと、思う。
 
日本の学校において、だからといって、全国で縄文時代の真似事をしろ、というのではない。
 
この娘のギリシャ・ローマのたとえでいうならば、縄文でも、弥生でも、中国の三国志でも、なんでもいいが、教科書を読んだり、覚えたり、書いたりするだけではなく、もっと 自分達が参加した、と実感できる授業内容、それも、社会科 というのではなく、それこそ 総合的に、理科も社会も含めて、
子供が楽しんで参加できるものが あったら、自ずと、知識欲は 芽生え、高まるのではないだろうか? 
 
大人の考える力が、問われている、というのは、まさに、授業・学習内容を見直す必要がある、と
いうことに他ならないと、やはり、私は思う。
 
 
 
≪参考≫
ちなみに、、以前の、娘達の学校で↑は、ある程度の教材はあるものの、個人の教科書をもらうことはないし、教材があるといっても、杓子定規にその中身を追っていくだけではないので、↑の ローマであれ、エジプトであれ、それについて”やってみよう!”などという教科書があるわけではない。
 
2006/7/3

シリーズ夏休み① 

 
夏休みって、なんのためにあるんだろう?
 
夏休みって 何??? 考えた事 あるかなあ~。
 
① 暑くて (昔の学校は 職員室でさえも エアコンがなくて 暑かった!) 学校では
  集中して勉強できないから・・・・。
 
② お盆など帰郷する家族もあるだろうし、暑いので、いっそのこと 休暇とし、リフレッシュするため。
 
③ 二学期に備えて 勉強するため、ただし、①と同じで暑いので学校よりは自宅で勉強するほうが
 いいという考え。
 
④ 夏休みと 呼んではいるが、実は、 夏季自宅学習期間である。 つまり休みではない。
 
⑤ 先生方が 暑くて登校するのがイヤなので、とりあえず 休み(*)とし、子供には宿題を出して
勉強させる、という考え。
 
⑥ あなたは、どう思いますか?
  
・・・・現代では、塾に行くためとか、 予備校に行くためとか、受験に備えるための夏休みだ、と
真剣に思っている人もいるかもしれませんね。 でも、それでは 「学校へ登校しない期間」だとしても、夏季休業 もしくは、夏期休暇 という意味での 夏休みでは、ないですよね。
もちろん、”休み中”に、好きなことをしていい、となれば、 その時間を利用して
 塾に通うもよし、予備校に行くもよし、 苦手な科目を克服しようと試みるもよし、普段できない
朝寝坊をするもよし、 好きなように図書館や博物館に行って調べ物をしたり、研究したり、カブトムシの観察をしたりするもよし、です。
でも、日本の学校は、 その”休み”を利用して、好きなことを しづらいシステムになってます。
塾に行くとか、宿題をするとか、そういうのが 好きなことであれば、幸いでしょうけどね。
 
 娘の日本での夏休み、今年が三度目です。 恐怖の夏休みです。 ぜんぜん楽しみじゃありません。 すでに、夏休みの課題(・・強制的な宿題ってやつです。)が出され始めています。
たとえば:
社会科(今年は、歴史もしくは公民で、去年と同様、スクラップブック作りだそうで、”自分の足で”歩いて調査しよう・・・なんていう目的が もっともらしく 書かれていました。
この科目は、毎年思うのですが、 夏休みだからできること・・・と もっともらしいことを言いながら、
結局、二学期の 文化祭の展示 のために、やらせているとしか 思えない課題です。
しかも、サイズや 書き方などが、 細かく指示されていて、そんなのどうして 授業でやれないのか、と思います。 学校の全員強制の課題なら、学校でその課題のための”材料”を提供すべきだし、
(そんな課題のために、いくら300円程度とはいえ、払いたくありません!、と去年先生に一応、話をした。)、指定された課題の中から、好きなテーマを選んでもいい、ということではあるが、だったら、
同様に 授業中に そういうリサーチやプレゼンテーション、レポートを 先生の監督の下、やらせることに 意味があると思う。 やらせっぱなし、という去年までの学校側のやり方をみて、学年末に
教頭先生に話をしに行ったが、今年は、どうなるのだろう?
やったはいいが、結局、過去と同じように、やらせっぱなし、というのだったら、怒りがどこまで膨らむだろう・・・。
はっきりいって、こんなのは、”夏休み”とは、言いません。 
 
”宿題をするための学校に行かない期間”です。
 
*もちろん、昨今は、先生方も、昔よりは ”休める日”が減ったらしいですね。 気の毒です。
 → それぞれの 職業には それぞれ 特徴もしくは、利点・欠点というものがあるわけで、
   学校の先生というのは、生徒同様くらいの 休みがある、という利点は、ある程度あっても
  私はかまわないと思う。 そのかわり、他の部分で、他の職業よりも、苦労したり、給与には
 反映されないプラスアルファの仕事量があったりするのだから、 それぞれの差があってもよいと思う。
 
2006/6/24

授業参観

娘の学校の、授業参観だった。
 
一つのクラスばかりみても、面白くないので、同じ階の他の教室も覗いてみた。
あるクラスは、”公民”の授業をしていて、黒板には、個人情報保護法などと書かれてあった。
そして、プリントの内容の答え合わせをしている様子をしばし見学したのだが、
環境権、とか、 尊厳死、とか、、、私が中学生だった時代には、聞いたことすらなかっただろうな~というものを 子供達は教科書や資料集から拾って、先生に指された子は、答えていた。
 
あるクラスは、古文で、ざわざわしていて、 よく解からなかった・・・・。
 
娘のクラスは、理科Ⅱつまり、生物だった。
彼らは、先週、解剖の授業をした ~~~ 何の解剖だったと 思いますか? 聞いてビックリ、使った教材は、見かけは 犬のえさ・・・ドッグフードの缶詰 (図柄もドッグフードだったと娘は証言している)だけど、あけてビックリ、、、中身は・・・・((知りたい人、ご連絡を・・・。ヒントは ↓。))別のもの。~~~ のだが、今日は、それを踏まえて、色んな生物の脳について 勉強しているらしかった。
 
なかなか、面白かったですよ・・・
 
先生 : 「なぜ、魚は、(比較的) 中脳・小脳が 発達しているんだろうね???」 
 
答え : 魚は、眼が大事。 そして、絶えず、エラ呼吸をするために、体を動かしているから。
 
ここで、笑っちゃったのが、 先生、ひとこと 、
「魚って、寝ながら 泳いでるだろう~。 あっ、ちがうか~、 泳ぎながら、寝てるんだな・・・。」
 
どっちでもいいようなものなのだけど、真剣に、魚が 寝ながら、泳ぐっていうのを想像すると、笑えるし、オカシイ・・・。  泳ぎながら、睡眠状態にある、という方が、確かに正しいかも・・・。 
まあ、人間、寝ながら、寝言を言って、 手足を振り回すこともあるから、 魚が寝ながら泳いでいたって、かまわないけどね・・・。
 
内容・覚えることが多すぎるのか、せっかく 先生が 「質問」を 投げ掛けても、結局 生徒たちで
考えるような 授業には、ならず、 先生が 数秒後に 解説しつつ、答えを生徒に言わせるというシステムで 授業が 進められていくわけで、 私は、これがとても残念だけど、
この システムは、 この理科の先生のクラスだけではなく、 公民も、 去年の歴史や その前の
地理も、 去年の理科も、たいてい こういう方法で 進められていた。
日本の学校で、覚える内容を20%程度減らしてでも、 こういう 中身を考えるという授業に
できないものか、、、と やはり 今日も 考えさせられた。
どうして、小脳が比較的 大きいのか、小さいのか、、、そういうことを 資料集や教科書から拾って、たんに パズルのピースをみつけるみたいに おぼえていくのではなく、 考えながら覚えていく方が、
どれだけ 身に付くだろう・・・。 例えば、脊椎動物の神経・刺激の伝わり方、で、器官の名前や働きを細かく暗記しなくても、 それぞれの 生物の特徴などを 自分で考える、、、ということの方が、
生物の基礎、としては、大切ではないのだろうか?  そりゃ、小学校の理科で、 おたまじゃくし がカエルになるとか、昆虫っていうのは、足が何本あるとか、そういう基礎はやったかもしれないが、
中学では、それを発展させて、”生命”を司ることに関する項目が出て来ている。が、単に
更なる細かいことを覚えるだけよりも、今度は(小学生とはちがって)、自分達で発展させた部分の、それぞれの差異を考える方が、広く その理科の知識が 生活にも役立つし、記憶に残っていくと思うのだ。 
 
さて、 授業は すすむ・・・。  
魚、カエル、ヘビ、 そして、、、鳥。
 
※鳥のところで、先生は、「この間、解剖したから、これは、覚えてるだろう~」と ひと言・・・。
 
鳥と 魚って、比較的 小脳と中脳が 発達しているという 共通点があるのですが、
鳥も、やはり、眼が 発達していて、さらに、羽根を 羽ばたかせて 飛ぶという行為のため、小脳が
発達しているのだそうです・・・・。
 
そして、授業の中で、先生は、ネズミの脳まで来た時、ネズミの脳は、人間の脳と同じよう(哺乳類ってことです。)に、大脳が発達しているから、中脳・間脳が大脳に隠れている、って話をし、
さらに、先生は、
話の途中で、後頭部は、とても大切である、弱いから、ちょっと 打っただけでも、危ないのだ、と
話をした。 
後頭部には、脳幹(間脳、中脳、延髄)があって、それは、”その機能が失われると生きていけない”ものがある、と。 
 
あれこれ 一度にたくさん覚えられないけれど、少なくとも、 後頭部は 大事なんだ、と
解かってくれれば、それだけでも いいかも・・・・と 思ってみてた。
 
他のクラスの「公民」で 尊厳死、それを選ぶ権利 なんていうものを 聞いた後だったせいか、
「理科Ⅱ」の 脳の 話は、脊椎動物の あれこれ よりも、
人間として、生きていくうえで、頭=脳は大事だよ、って言う方が、今の子供達には、必要だろう、と感じたのかもしれない。
 
そうそう、脳っていうのは、体が消費するエネルギーの、25%のカロリーを消費しているんだとか、、。
 
一生懸命、勉強して、頭つかうと、おなかすくだろう?」 と 先生・・・。
 
「・・・・・。」 生徒。
 
頭を使うのって、ダイエットにいいかもしれません、 クロスワードパズルでも、何でも・・・・。
今日の理科Ⅱは、私の勉強にもなりました。
                    ≪おしまい≫
2006/6/7

娘の居眠り

昨夜のこと・・・。
 
自分の机ではなくて、ダイニングテーブルで 宿題を広げていた娘・・・・。
 
宿題をしながら、居眠りして、ぱっと 目が覚めて、「あ、今 拍手してた。。」と言った。
 
『え?何それ・・・ 別に 手なんて叩いてなかったよ・・・何の音も聴こえなかったし、、』と、
私は思ったのだけど、完全に寝ぼけている感じだったので、
どうしたのぉ~????? と 聞いた。
 
娘が語るところによると、
 
あのね、礼拝の時とか、朝の集会の時、退屈だと 居眠りするんだぁ~。
先生の話とか、適当に聞いて寝てるんだけど、時々、誰かの名前とか呼ばれて、
みんなで 拍手するんだぁ~。
そういう時、パッと目がさめて、なんとなく手だけ 動いてるわけ~。
今ね、居眠りしてたじゃん・・・
ハッと 目が覚めたら、手、叩いちゃってたよ、、、、、。
 
というわけ。
 
学校で”義理”でたたく 拍手だから、音がしないのは、当然だった。
軽く、指先をもう片方の掌に 打ち付けて、 見かけは、拍手してる、でも、音は出ていない。
居眠りから、ふと! 起きる時、 その拍手が、クセになってしまっていたみたい・・・。
 
あ~ん、やだよ~、こんなの~、と 彼女は 嘆いてました。
 
 
 
2006/5/23

individula care と 過保護の差

私は、よく ブログで、日本の学校は、過保護すぎる、保護者は、学校に多くを求め、責任を求めすぎる、と書いてきた。
 今も、その考えは、変わっていない。
 しかし、 今朝、こんな ニュース・記事を見た。
 
 
学校給食を通じて、食育を!と いうニュースを見たとき、自分の子供の栄養管理や食事のことまで、なぜ、学校で行わなくてはならないのか? ---と 私は、あきれ果てた。
しかしながら、上記のようなことが、日本でも、おうおうに 起こっているのだとしたら、それに気づいた
学校が、それに対して 注意を払い、対処しようと することは、過保護でもなんでもなく、子供を受け入れている学校としての、大切 かつ 必要な ケアである、と私は思う。
 
以前、娘が通っていた学校の校長先生(英国人)は、常々、【 individual care 】.ということを 話されていた。 
この先生は、学校内外で生徒を見つけると、名前を呼んで、元気か?と話しかけていた。
インターナショナル・スクールで、転校生も多い中、よく、ここまで 生徒の名前と顔が一致するものだと、こちらが 驚くほどだった。 目配りが効いている学校だった。
 
少子化・というわりに、日本の学校の 一クラスの人数は、未だに あまり減っていない。
担任や各科目の担当教師が、子供ひとりひとりに 向き合おうとしても、学校での、”教師として”やることが多くて子供一人一人のことなんて、見ている時間も余裕もない・・・、だろうということは、察しがつく。 日本の先生方が、日々、あれこれ 事件が多い中、精一杯 努めておられることは、それなりに、解かる。
 
が、 もし、子供と 本当に、教育とは何かを踏まえて向き合おうと思うなら、個人的なケアは、
外せないはずだ。
individual care (個々を見る・個人への配慮)というのは、 個々の プライベートに 干渉するというものではなく、その子、ひとりひとりの、雰囲気・気質は、どんな子供なのか、何が好きなのか、何が得意なのか、普段と違う様子の時は、何があったのだろう・と見守り、学校の全体性の前に、何か問題があった場合は、その子個人に適した解決策を考え、導き、見守る・・・そういうことだと思う。
 
上記の記事を読んで、これが、individual care というものだと 思った。
ケアというものは、干渉したり、先行きを心配して何かを妨げるものではなく、気にかけ、配慮する、ことだ。
おかしい・・と感じた校長先生が、それなりの判断で児童に牛乳を与えたという。
おそらく、孤児でもない その児童に対し、福祉施設からの依頼も何もない中で、校長先生自身が
判断し、その子に関われる範囲というものは、限られていたかもしれない。
しかし、少なくとも、目に とめていたこと、それを 気にしていたこと、 事情を把握しようと努め、何らかの改善を試みようと対処したこと、そういう気配り・目配りが 個人への配慮だ。
 
日本の学校は、 全体を 保護・対策するような ものは、得意なのかもしれない。
号令をかけて、 この枠に 合わせよう、 偏差値を上げるためにはどうしよう、、そういうところに
生徒を 引っ張っていく・・・これは、得意のようだ。
二言目には、決まりだから・・・と、個人を”集団”に あわせようとする。
個人を見ている・・・としても、それは、集団に合わせるための、出ている杭を見つけているに過ぎないことが多い。
若しくは、学校にとって、個性を伸ばすと言ってはいても、その子の個持ち味を見つけそれを伸ばすとか、その子の得手・不得手をあえて認めようというのとはちがい、平均化するため、集団の底上げのために、個を見るに過ぎない。 集団が乱れるから・・・という理由で、注意したり、はじいたりする。
 
 たとえば、娘の学校でも、テストの結果次第では、 補習& 追試というものがある。
しかし、その補習に参加していながら、結局、「自分の解からなかったところは、そのままだった・・」という結果に終わる補習が 多いようだ。 生徒、一人一人が、何が理解出来ていないのか、どこで躓いているのか、そういうことを 見るのではなく、 補習とはいっても、あくまで 全体的に、問題の説明と解き方をくり返す、そういうことになる。  もちろん、生徒の方から、解からないところ・苦手な所は、先生に聞きに行くのが一番 手っ取り早い方法だと、思う。
 ==娘にも、そう言い聞かせているのですが・・・==
しかし、先生に聞きに行こう・・・という 雰囲気、信頼関係が、もし、そこにない場合は、生徒の方から近付くのは、かなり 勇気と動機が必要だと思う。
もし、娘の学校のように、せっかく”補習”というものを 行っているのだとしたら、その補習の意味は何なのか? 一人一人が つまづいている所が違うにも関わらず、全体的に 先生 が 必要だ、と思った ==回答の正解率が低かった問題== 全体的な解説を繰り返せば、それで済むのか?!
かたちだけ、全体のために補習するのは、よくあるが、個々を呼びつけてでも、どこが苦手なのか?を 知ろうとする 先生側の アプローチは、なかなか 見られない。 便宜上、一つの教室に補習として集めたとしても、みんなに同じ"補習授業"を行う代わりに、それぞれの苦手分野にあわせて、違う課題を与え、それを見て回る・・・という方法は 無理なのか?! 
---- ということだ。 
 
もちろん、↑の記事や、娘の前の学校の校長先生が 云わんとしていることは、学力面の個人ケアに限ることではなく、生活面を 含めての ものだ。 それでこそ、個人のケア なのだと思う。
 
但し、ああしろ、こうしろ、校則ではこうなっているから、コレはだめ、アレは駄目、と個人的に注意するものを 言っているのではない。
例えば・・・・
給食を残す子が、クラスに何人・・・・全部食べられた子は、何人、食べられない子は、食べられるまで居残りとか、食べられるように注意する、とか、そんなふうに 見掛けをそろえるのではなく、
給食をいつも残すのは、どの子で、それはなぜなのか? といった類の”注意”のことだ。
==そもそも、好き嫌いとかは、学校の責任ではなく、保護者の躾けの範ちゅうだと思うし、好き嫌いを失くすというのは、保護者の責任だと思う。  もちろん、学校で友達と食べることで、家では食べられなかったものが、食べられるようになる、という相乗効果など、学校での取り組みに期待されることがないとは言えない。それは、それで 上手にそういう機会を利用すればいい。 しかし、だからといって、家庭がその子の食生活について学校に成果を求めたり、自分の子供の食生活に無関心でいいということには、ならないはずだ。==
 
私が言いたいのは、例え給食でも、学校にて、給食を食べるときに、好き嫌いに"目を向ける"ことなどで、その子自身を深く知る手がかりとなるという点だ。 だから、個人をケアするヒントとなれば、見逃す手はない。  
クラスみんなが 給食を残さなくなる・・・というところに目標を置くのではなく、給食を通じて、各子どもを知るために観察するのである・・・。  食べ終わるまで遊んじゃいけません、とか、キライなものも、がんばって食べよう!と 無理矢理その子に 食べさせる”根性を躾ける”ための給食ではなく、
”この子は、牛乳が苦手なんだな、、でも、チーズは食べているな。”とか、 ”ゆっくり食べているけど、好き嫌いなく何でも食べる子だな。でも、食べる量が少ないんだな。だから、残すのか~。” といった具合に、子供を個々として観察する・見る、子供の気質・傾向を知ることが、個々の子供への ケアを得る機会として捉えたらどうか、ということだ。 
それに、無理矢理食べさせることが、全ての子供にとって必ずしも、プラスになるわけではないのだから・・・。 
 先に書いたように、たとえ 給食でも、個々の事情を理解しようと努め、それに合わせて、子供の変化・成長を注意深く見守る・・・ということだ。
 
全体を守るための オーバープロテクション、過保護を増やすよりは、個々をケアすることの方が、
どれだけ、人間性を育て、成長してからのその子に好影響を及ぼすか、保護者も考え直す必要があるのではないだろうか・・・・・。 
学校に躾けてもらう、学校がプライベートに干渉するというのではない。 
植物が育つには、適度な土壌と日の光と水分が必要で自然の恵みのこれらが、保護者のケア、環境にあたるとすれば、学校は、その植物の性質に応じて与えられる、適度な肥料であったり、雪囲いのような 場合によって必要となる”ひと手間”にあたるのではないかとおもう。 
その学校の一手間は、例えば 水はけの良い土壌を好むものと、粘土質の土を好むもの、乾燥に強いもの、水はタップリ必要なもの、それぞれによって 異なるのものだ。 
だから、何でもかんでも ハウス栽培で温度を一定に保ち、水をやり、、、と同じケアをする、あれこれ 除草剤を全体に撒く、というように 干渉 することではなく、それぞれに応じた適度な”肥料”と”言葉をかける”ようなことが、個々へのケアであり、そうすることで、その植物が、より丈夫に”その資質を充分に生かして” 成長できるのではないかと思う。 
 
上記の記事にあったような、若しくは、幼児虐待などで ニュースになるような、そんな接し方で子供を育てる保護者は、最近、多いのかもしれない。 なぜ、そんな親になってしまうのか、原因は、それぞれ、多々あるだろう、今は、その原因を探るべく掘り下げるつもりはない。
が、学校という場がある意味を考えるならば、家庭が社会規範の最も基礎的な部分を担う場所ではあっても、昼間、6時間以上、子供を受け入れる学校という場は、次いで子供の成長を見守る場所でもある。 
親は 時として、近すぎるために、子供の心や、子供とのつながりを見失ってしまうこともある。
頭に乗っかっているメガネを、”ない!ない?!”といってあたりを探したり、信号が変わる前にと先ばかり見て、焦って走ったら、足元の段差に気づかず、転んで、結局 信号に間に合わない・・・とか、
そういうものと 同じだ。 
親の見えていない部分を 学校・先生に 尋ねたり、家庭での様子を話して、子供に必要な目配りを学校生活にも反映させてもらうとか、二人三脚とも いえるだろう。
そのためにも、 individual care は、欠かせないと 改めて考えた。
 
やはり私は、日本の学校の過保護は、好きではないし、保護者が学校にあれこれ頼り、責任を求めるのも、好きではない。
が、良くも悪くも 子供が一日の大半を過ごす学校である。 
先生が、個々をケアしてくれる、そうであったとしたら、どれほど安心できて、ありがたいことだろう・・・。
安心できるからこそ、信頼も生まれる、そう思うのだ。
 
 
【 it と呼ばれた子】という 本=実話(米国)を ご存知だろうか? 
ベストセラーなので、読んだことのある方も多いかも知れない。  
この主人公の 男の子が、”家での悲惨な状況・母親の虐待”から、救われたのは、学校の先生方の、”注意(留意)”と、”決断”だった。 しかし、それも、何年も経ってから、たまたま、新鮮な目で""オカシイ”と見た新人の先生が、勇気を持って その子のケアに乗り出した。 あそこまで 酷い話は、(米国では珍しくはない、と言われたりするが・・・)、日本には、ない・・・・と信じたいが、それでも、乳幼児など、結果、虐待死に繋がった状況を見逃してしまった、と 時々、ニュースになる。 ”家庭”というプライベートなところに、どこまで 学校の教師や周囲の関係者・近所の人が、踏み込んでいくか、難しいところなのだろう。
しかし、その一番、大切なのは、”オカシイ”と 思ったら、気づいたら、放っておかないことだ。
そのためにも、全体に合わせる視点よりは、個々を見る必要がある。 
例↑の校長先生のように、子供一人一人の様子を見守り、関わり続けようとする姿勢が、まず、子供を守り、導く鍵となる、と私はおもう。 それが、教育というものの、基礎なのではないだろうか。
 
2006/5/19

天邪鬼 :二つの素朴な疑問

娘が通う学校は、中学と高校が 一緒になっている。
あらためて 考えてみると不思議だよね・・・。 義務教育の小学と中学が 一緒になっているのではなくて、 中学と、義務教育ではない高校が 一緒になっている。
中学に入るってことは、十中八九、そのまま高校に進学するってことに繋がる。
自分が、中学=義務教育を終えて、あらためてまた、別の学校=”高等学校”で 勉強したいか?過ごしたいか?と 問う間もなく、自動的にいくのだ・・・。
高校進学率が、90%を超えて久しい現代日本。 
あたりまえ、といえば、それまでだけど、みんな高校へいくのが ”普通”になってしまっている。
 
中高を一緒にするのなら、いっそ、小学校と中学を一緒にする方が理に叶っているように思う。
もちろん、小学校からず~っと一緒にくっついている私学もあるけれど、小学・中学という組み合わせより、中高の組み合わせの方が、多いだろう。  
義務教育というスパンで子供に基礎的な学力・社会性を身につけさせるための学校なのだとしたら、その小・中学をあわせて、子供の成長を計る方が、自然なんじゃないの?!
ま、これは、前置きなんですけどね・・・・ 本題は・・・↓、
 
さて、 
 高校受験が大変だから・・という理由で、中学受験をさせる親も多い。 苦労の前倒し。
 日本って、前倒しが好きだよね?! 中・高校の授業も、前倒しでやって、中三や高校三年は、
次の受験にそなえる時間を確保する・・・なんていう へんな状況になってる。 いや、これをヘンだと思っているのは、私のような少数派なのかもしれないけど・・・。 先日 見た、小学校の英語教育を取り上げた番組も、ある"特区"の小学校では、6年生になると、中学の英語の教科書を使って勉強するのだとか・・・。これも、前倒しだよね。 じっくり小学校から英語を学ぶんだったら、前倒しなんてしなくても、もっと"身"で覚えさせることに集中した方がいいと、私は思うのだけど・・・。
 
ちなみに、娘の学校も、英語教育では、特別なシステムを用いていて、英語が得意な(?)生徒を集めたクラスがあるのだけど、そのクラス、今年(中三)、高校の教科書を一部で使っている。
正直言ってこれには、がっかりした。 日本の高校の教科書を前倒し式につかうんだったら、
米英国の同年、もしくは一年下くらいの 英語のテキスト(エッセイとか文法とか、それぞれ分かれているから使いやすいはず。)を そのまま、利用する方が、進歩するし、身につくと思う・・・。
高校の教科書をなぜ、つかわなくちゃいけないのか? ==結局、大学受験が その向こうにあるから?== 先生に質問する機会をうかがっている私です・・・。 
*英語の特別クラス、以外の 英語のクラスでも、この学校は、学校独自のプリントを用意し、授業をしている。 この取り組みは、意外と面白いと思った。6年スパンで考えるゆえに、中学の初めでは会話・実用的なものを目指して授業が組まれている。だから、私学の模擬テストなどでは、点数は低いらしい。それで、保護者の一部は、”受験に間に合うんですか?大丈夫ですか?”と心配する声が多いのだとか・・・。でも、中三以降、高校にいってから、それが実を結びますから、、って説明されてた。 なのに、特別クラスでテキストの”前倒し”っていうのは、とても、信じられなかった・・・。
 
さて・・・。
そういう小学校の英語教育を進めているお偉方は、他の国の"外国語教育"や、英語の国の英語教育を 参考にしたことがあるのかな?
もしくは、日本に来ている(ジェットプログラムなど、いろいろ)ネイティブの英語教師から、改善点など、アドバイスを聞いたりしたのだろうか?
それに、私の友人の一人もそうだけど、ネイティブであり、地元で子供に英語(英会話)を教えている、そういう人から、授業を面白く&実用化させるための良い方法などを、話し合って聞いたことあるのかな? 日本の子供を知っていて、かつ、受験&英検のための英語教育の落とし穴(=実用的にとは言えない)を見聞きしている人に、ネイティブである当事者なりの 疑問や改革点をたずねて見たらいいのに・・・・。
見てきたのなら・・・ アドバイスを聞いたのなら・・・ 少なくとも 前倒しなんていう発想には、ならないと思う。 小学校(例えば、1,2年生)から、英語を始めたとしても、これまでと同じような教え方の論理で アプローチをしていたら、英語が苦手(読めても、聞けない・話せない)な、日本人がこのまま増えるだけだ・・・。 
どこをどうしたら、 聞けて・話せる、コミュニケーションとしての英語力が多少なりとも身につく”英語教育”になるか?!
--- それは、現場をみているネイティブの教師から、いろいろ聞いてみたら言いと思う・・・。
 
  ≪5/16  NHK クローズアップ現代 ≫
 
 
 
② 先に書いたように、ウチの娘の学校は、 中・高が一緒なので、部活の中にも、中・高が一緒に活動しているものも、ある・・・。 娘の美術部も、文化祭や校外行事など中高一緒に活動する。
おかげで、中学一年で入部した後、先輩後輩というシステムに馴染めず、反発を強めていた彼女だったが、高校の部員の中に、帰国子女の先輩がいて、娘の”ユニークさ”を含めて可愛がってくれた。おかげで、いろいろあったけれど、部活を止めずに今日に到っている。今は、部活が、楽しみでしかたがないくらいだ。 
中学と高校は、校則が 少し違っているのだが、娘のように部活で高校生と関わる子も、また、そうではない子も、中学と高校の違いなどには、注意を向けるようになる。
その中で・・・アルバイトの話がでた。
娘の学校の・・・高校では、 アルバイトは、”基本的に禁止”なのだそうだ。
で、聞いてみた・・・ 
------ ずっと昔=創立当時から、禁止なの?それとも・・・?と。
 
この学校の高校生が、もう何年も前になるが、ある事件に巻き込まれて命を落とすということがあった。 全国ニュースになったので、私もそういわれてみれば、こういうのがあったなあ~と記憶している。
が、まさか、この学校だったとは・・・そこまで(学校名を)覚えていなかった。
この事件をきっかけにして、この学校では、銃器根絶を訴えるサークルもできている。
 
で、娘に聞いたら・・・ やはり、 
------この事件があってから、ダメになったんだって~、 という。
 
事件のことをとやかく言いたいのではない。 
疑問なのは、なぜ、それによって バイトが 禁止になるのか? ということだ。
バイトさえ 禁止すれば、生徒の安全が守れるというのか?
同じような事件が二度と起きないというのか?
それとも、何か バイトすることで マイナス面が大きいと この事件から、その根拠でも出たのか?
予防措置・・・といえなくもないが、でも、それって、ホントに、 予防なのか?
心配の先取りじゃないの?  care は、大事だけど、 worry しすぎることはないと、私は思う。
 
日本の学校や教育での ”注意” ”予防” ”対策” あれこれって、worry の気持ちから現れている策が 多すぎる気がする。 たとえば、中学受験のために、小学3,4年生から塾へ行く、それどころか、小学入学時から、、って言うこともあるらしい。それって、 care なの? 他の人がいくから、置いていかれると困るから、 受験失敗したら不味いから、、っていう worry じゃないの・・・?
それよりもっと、その子が、小学生として、どういう生活を送っているか、そのあり方をケアする方が、大切じゃないのかな? 人間の成長過程で感受性を豊かにする(7~14)のに一番大事な時期に、〔受験を中心にした生活〕 をさせること・・・どう考えても、プラスになってない気がする。
『親は、誰だって、塾から9時、10時に帰って来るとか、弁当持って、休日も一日 塾に行くとか、そんなこと 好いなんて思ってないよ、でも、行かないと、受験に差し障りがでる・・・、みんな行くし・・・』
これって、石油ショックの、トイレットペーパー買占め時と同じで、将来に対する不安・恐れでもって、
今、足元の大事なこと、が見えなくなっている・・・みんながいくから、自分も行かなきゃ!って・・・。    
--------  いやね、高校生で バイトしなくたって、それはそれでいいよ。私自身、高校ではバイトしてなかった。 というか、あの当時、あの田舎じゃ、高校生がバイトするなんて、年賀ハガキに関することくらいだった。 でも、校則で バイトしちゃいけないっていうのと、 自ら、しないっていうのは、違う。
 
バイトに話を戻すけれど、 
これでは、まるで、 何か(みかん でも、 パンでもいいけど・・・)食品を買ってきて、食べようと
思っていたのに、いつのまにか それにカビが生えて、食べられないくらいになってしまった・・・、
しかたがないから、 その食品を捨てた・・・。 
→ 捨てることで、その場の 困った食品 は、処理できる。 
でも、基本的な・・・なぜ、カビが生えてしまうまで、放っておいたのか? どうすれば、そうなる前に(捨てずに)、食べることが=食品を生かすことが できたのか? という視点に もどってはいない。
だとしたら、その時、それを捨てる(バイトを禁止する)と言う処置・措置で、表面は片付くものの、
その事件が 起きた原因を 探ることもないし、それを 防ぐためにどうするかということを、考えることへも 繋がらない。 
”銃器根絶を考えるというサークルができた” → 防ぐための一つの策、なのかもしれないが、でも、それとバイト禁止と、どう関係があるのか? バイトを禁止しなくたって、誰かが犠牲になっていなくたって、もともと、銃器根絶を訴える・考えることは、してもかまわないはずだよ、そうでしょ?!
 
--------     ---------     --------     ---------    --------    
 
なぜ、前倒しばかり したがるの? 英語教育まで、前倒しなの? 
それって 本末転倒だよ。  
なぜ、せっかく日本に来て英語を教えているネイティブの先生に、指導・改革チェックのアドバイスを頼まないの?  米国フロリダ出身の私の友人は、もう20年も前に(確か、ジェットプログラムの一期生かな?)日本に来て、和歌山県で英語のアシスタントをしていた。 数年前、私の町の学校にジェットから、派遣されてきたカナダ人の先生とも 話したこともある。 彼らの話を聞いて、なんてもったいない”使い方”をしているんだとう、と私は残念でたまらなかった。 彼らからの”苦言”をなぜ、日本は聞けないのか? 現場の英語教師は聞こうとしないのか? (聞いている先生もいるとは、思いますが、全体的に、極一部のみ任せっぱなし、若しくは、極めて限られた部分しか教えさせない、というとても閉鎖的な扱い方・・・、ジェットの先生の多くは、現場について、現実を見て、そして、意欲を失ってしまうらしい。)
 聞く・話すを 中心に、遊びから入って、中学に行くまでに、英語キライにならないようになんていいながら、 小学のうちから、文字(アルファベット)を書かせ、文を書かせ、結局、”ついていけない子”がすでにできてしまっている、という”お試し現場”。 これでは、本末転倒だ。
使える英語を・・・と始まったはずの 小学からの英語教育なのではないのか? 
小学校のうちに英語が嫌いになったら、、その後の6年+α、たいへんだ。
だから、アプローチの仕方が、問題だ!と私は 言い続けているのだ。 年齢が低けりゃ、身につくってもんじゃないよ。 それに、そのために、小学校の英語のために、わざわざ、また”子供向け英会話教室”に通う子が、増えた・・・っていうではないか!
まったく、日本ってところは、なぜ、こうなんだろう?!
 そんな中、沖縄の(小学校と中学が一緒に取り組む)例が出されていて、その中のある教師が、
中学の英語の教科書などの 今のあり方”内容”を 取っ払って、はじめから作り直す必要があると提言していた。 こちらの方が、前倒しよりも、 ずっと、現実的(英語を身につけるという視点)だと
思った。 身につく・使える英語を、というのなら、受験英語を頂点とした”授業内容、教科書”などが作られている考え方を、小手先だけではなく、根底から考え直さなくてはならない、私もそう思う。
 
 
 
なぜ、バイトが 禁止なの? (バイトを 薦めるわけではないけれど、その禁止の理由が・・・)
バイトを禁止にする前に、考えなくちゃならないこと、たくさんあるんじゃないの?
表面だけ きれいにしても、&、臭い物に蓋をしたって、理由、原因、基礎が 理解されないかぎり、
何も解決されない・・・。
---------- とはいっても、バイトしている先輩もいるらしい。 それはそれで、私は好いと思う。
 そもそも、学校から出た、放課後以後の時間は、プライベート・タイムなのだ。その子がバイトをする・しないということを その子の保護者が 了解していれば、それでいいんじゃないだろうか?
なぜ、学校が、そこまで干渉しなくては、ならないのだろう? 
学校の面子?他の子の影響で他の保護者から 文句が出る??? ← これこそ、オカシイ。
教育とは、なんぞや?! 親が自己責任を持てない感覚でいるかぎり、”個性を伸ばす”教育を掲げていたとしても、個性を伸ばす環境なんてできるわけがない。 個性を認めると言うことは、他人を認めるという事・互いを理解し合う・個々が自分の責任を自分で持つ、ということであるのだから。
 
バイト禁止ね~、 過保護になれば それで 守れるってもんじゃない、と思うんだけどな~。
 
 
2006/5/14

天邪鬼の プチ・・ぶち切れ。

娘の国語の教科書が・・・・ ド でかく なった。
 
入学してから、毎年、同じ教科書会社 (光村図書)のである。
私も、自分が小・中学校で使っていた教科書も、この会社のものだった。
大きさ(縦横)は、当時から、変わっていなかった・・・・・・・・・・・・・・。
 
ところが、今年の4月、もらってきた教科書! 
太さ(厚さ)は、昨年までとたいして変わっていない。
が、 大きさが、B5 より少し大きい程度のものになっている。
 
空欄・余白が大きく増え、文字も 大きくなっているし、行間も少し余分にあいているようだ
 
見やすく・・・したのかもしれない。
でも、
小学一年生じゃないんだよ、、、
中学三年生だよ! 
 
これまでの 教科書の文字や 構成が 細かすぎて 読みにくいとでも言われたのだろうか?
そんなことは、感じたこともなかった・・・。
私の時代から 同じ構成だったのだよ・・・今更 何だっていうの?!
 
しかも、
厚い上に 大きいっていうのは、どういうことか、お解かりになりますか?!
 
重い  ってことです。
 
日本は、この教科書を 一人一人に ”与える”んだよ!
次の学年の生徒に渡すのではなく、その子が、その教科書の持ち主になって、"貰う"んだよ!
娘の前に通ってた学校みたいに、教科書は学校に置いておいて、必要に応じて使う、次の学年も、
その教科書を使う=(個人の所有物にはならない)、っていうのなら、重くたっていい。
でも、
毎日、もしくは、国語のある日は、それを 持って行って・持ち帰ることが多々あるんだよ。
(まあ、ロッカーに入れておいて、試験の時だけ持ち帰るっていう子も多いけど・・・、うちみたいに。)
 
前にも書いたことあるけど、 もったいない・・・・!!!
 
こんなに 良質の紙(一応、再生紙ってことになってます、それでもこの紙質ってことは、すばらしい技術ですよね!これは、感激。)で、ひとりひとりに 持たせる・・・。
勉強する・しない に関わらず、一人一人に与える。
自分のものになるから、好きに書き込んで勉強できて良い、という利点もあるけど、けっこう雑に扱ったり、ぐちゃぐちゃにしてしまう生徒も多数いる・・・。6~9年分の教科書(各科目)を考えて見てほしい、どれだけの 教科書が 毎年3月、廃品回収に出され、ゴミとして捨てられるか!! 
それに、結局 ノートを買わせ、そこにいろいろ黒板のものを書き写すとか、かかせるのだから、教科書は、共有にしたっていいじゃないか!とも思う。 その方が、一人一人にかかる教育費が安くすむんじゃないの? 日本は、教育は無料みたいに感じてるけど、決して そうじゃないよね。 
公立の学校に通っていたって、けっこう、 教材費ってかかってるし、結局、教科書なども、”もらって”
いるけど、これは、税金ではらってるんでしょ?! 教科書は、無料みたいに感じてるけど、よくよく考えると、日本の学校は、おはじきセットに始まって、絵具セット、習字道具、裁縫道具、彫刻等セット、体育館履き、屋内ズック、防災頭巾、給食着と三角巾、ソプラノ(アルト)笛、ハーモニカ(時代が、古いかな?!)、 定規セットとコンパス。 私の頃なんて、図工のための 画板まで、個人のものとして買わされた気がする。(町立の学校)。 
副教材としての物が多すぎるよ、個人の持ち物っていうモノが! 
クラスでみんなで 使い廻せばいいじゃない! 
コンパスとか、ソプラノ笛とか、自分で本当に、興味があって勉強したいとか、続けたいって思ったら、買えばいい。 習字道具だって、彫刻等だって、その時だけしか、使わないものが多すぎる!
もったいないよ。
それに、そもそも ”教科書” 
=== 子供を持つ、他の親&友達の話、”学校に行ってても、学校では興味の持てる授業が行なわれないから、結局、勉強は塾でするみたいよ・・・”という子が多いと・・・。  
こんな場合、教科書って特に、もったいない!と 思ってしまう・・・・。
しかも、全国レベルで同じように、興味の持てる中身の充実した授業を その教科書を使って 行なっている・・・ことをふまえているのならまだしも、日本の現状は、地域格差がありすぎるでしょ?! 地方では、教科書を中心として工夫した授業を、しているとしても、都会の方では、"学校の授業はつまんない、勉強は塾でするもの”、というのが多い・・・ってことは、教科書は、二の次であまり役に立ってないってこと・・・。
毎年、教科書検定があれこれ問題になるけれど、((多くの場合、国語の教科書ではなく、歴史教科書・・が論議をかもすわけですが・・・。))、 結局、教科書から外れた内容で "試験問題"を出している 中学、高校、大学受験なわけで、その教科書内容を理解しているだけじゃ、クリアできないってことですよね? 
何のために、毎年 大騒ぎしているわけ?! 
 
話がずれた・・・。
私が今日、言いたかったのは、大きくする(厚く・重くする) 必要を感じない教科書を、
なぜ、 大きく・厚く・重く しなくちゃいけないのか?・・・ってこと。
余白が大きくなると、使いやすくて、学習能力が 増すの?!
 
ちがう!
 
余白に ドラえもんを描こうが、何しようが、関係ない。
要は、科書の内容とそれを導く先生次第なのだ。
ゆとり教育 というのは、賛成だけど、
ゆとり教育っていうのは、必ずしも、”子供が喜びそうなキャラクターを教科書に描く、漫画チックないラストをふんだんに 使ったもの” ではないはず。
もしくは、 余白に、必要以上に、≪考えてみよう!≫ポイントを ひっぱって あれこれ解説をくっつけている、それが、ゆとりだとは、思えない。
考えてみよう!なんて 書いてあったって、結局、教え込む(生徒に覚えさせる)内容が多いために、
”考える” 時間なんて、 ほとんどない! 
理科の実験だってそうだ。 実験の時間数は、理科の先生の理想と大違いに、少ないそうだ。
ゆとりっていうのは、≪考えてみよう≫ポイントで、生徒も先生も、あれこれ一緒に考えて、その内容を深く感じる、そこから、社会や、数字や、自然や、詩に、興味をもって行く、そういうことを
いうんじゃないの?! ≪考えてみよう≫ポイントなんて わざわざ示されていなくたって、そういうのを見つけて、選んで、生徒と 掘り下げていくのが、授業じゃないの?! 学ぶってことじゃないの?!
そうやって ”学んで”こそ、身につき、記憶に残る。
(注:試験が終わったら、忘れるというのは、記憶に残っていない証拠、それは、なぜかというと、”感じること”がともなっていないからだ。 すべてを憶えているわけではなくても、感じながら吸収し、学んだことは、記憶の底に残っているので、大人になってからも、ああ、こういうことを学んだなあと、思い出すことができる。感情が伴っているものごとほど、記憶に残るものなのだ。)
 
あ、また、ずれた。
 
とにかく、今回の、光村図書の 教科書、 大きくなった分だけ、重くなった。
 
そして、これは、 大迷惑 だ。
重いから、持ち運びが 嫌になる・・・。
 
ただでさえ、いろんなものを 持ち運びしなくてはならない 日本の学校。
(教科書をロッカーに入れておく、という方式じゃないでしょ?!)
できるだけ、教科書は、 シンプルに、軽く!してほしい。 
これまでの、教科書が、小さいとか文字が細かすぎるとかで、使いにくいということは、
私が使っていた頃から、聞いたこともなかった・・・。
 
なのに、なぜ、今更、こんなに 大きく、重くするのだろう?!
 
余白が多けりゃ いいってもんじゃないよ!
 
たくさんずれたついでに、最後に、もう一つ・・・、
娘のこの教科書の初めから二つ目に、井上ひさし氏の、「ナイン」から出典された『握手』という
文章(エッセイ?)が載っている。 なかなか 感動を覚える内容だ。 
 
現国の教科書ではあるけれど、たとえば、この『握手』を もとにして、国語的な、◎人物像、心情を捉える、◎新出漢字を学ぶ、 ということの他に、他の科目に応用することができる
話の中の時代背景をもとにして、社会・歴史を紐解くこともできるし、そこから、同じように、発展させて、(この話の登場する人物の一人は、カナダ人であるので、)カナダという国について、学ぶこともでき、これは地理的分野に繋がっていく。
このカナダ人の"仕種"が、いくつか出てくるが、そこから、日本人と外国人の、そういうアクションの違いを考えて、相互理解する ”国際理解”というものに、結びつける事だってできる。 
そうやって、一つの題材で、総合的に 学習することが できる。 →※
 
ただ、それらを把握するためには、先生がたが、多くを理解し得ていなくてはならないから、大変だろうし、こういう学習方法は、(私は、将来、社会のいろんな所で生きていくにあたり、人間的には こっちの方が数倍、役に立つと思うけど、) 受験を頂点とした点数主義のやり方には、”使いにくい” 学習方法なのだろうとは察しはつく。
 
※→ そうおもえば、例えば、”総合”なんていう 科目を わざわざ 作る必要もない・・・・。
少なくとも、中学頃まではこういったやり方で学ぶことは、もっと 生活に密着するということで、子供に興味を持たせやすい。 物理・化学や 歴史、地理、数学などにしたって、細かく導入するのは、高校以上で 充分なのではないだろうか? 
≪自分の生活周辺に関わるものということで、しばらく前、おそらく小学校の低学年では、わざわざ 理科・社会を”生活”にまとめたのだとおもうが、その延長みたいなものだ。 私たちの生活には、いろんなことが、”線”で割り切れずに、繋がっている分野が多いのだから・・・。横のつながりってやつです。≫ 
これらを、すべて 先生が”教える”のではなく、生徒と共に、考え、生徒が調べたものを発表しあうとか、そうやって導いていくという授業方法があっても いいのではないだろうか。
 
(注:総合という科目を辞めろ、というのではありません。あれはあれで、内容と指導方法次第では、面白い科目だと思います。)
 
とにかく、不必要に重たい教科書! 反 対!!!
 
2006/4/14

天邪鬼の疑問 : クラス担任

  新学期、新しい学年が始まりました。 
中学三年生になりました。 
クラス替えもあり、担任も替わりました。  
去年は この時期、担任(クラス&各教科)を選べたらいいのに、ということを書きましたが、今年は別問題です。
 
保護者の間であれこれ 憶測が飛んでいるようです。
5クラスのうち、4人の担任が別の学年へと移り、娘の学年にやってきた新しい4人の先生は、学年主任いわく、『今年は、ベテランをそろえました』ということなのだけれど、そのうちの3人は、高校から移って来た先生方で娘達とは、この二年間、ほぼ面識ナシ、もう一人の先生は、前年度、中三だった学年の学年主任をしていたベテランで、中三を高校に見送って、今年は次の学年の、また三年生だけど、クラスを受け持つことになったようです。 (※)
 
娘達の、学年主任は一年生からずっと変わらず、クラスを受け持たない同じ”ベテラン”M先生が務めていて、ウチの娘は、この先生を、”うるさい先生!”といいつつも、けっこう頼りにしているようで、今回は、担任が変わっただけではなく学年の雰囲気も変わったため、「(この学年担当の先生の中で)泣きつけるのは、M先生だけだよ~」と言っています。 
これまで頼みの綱(好い相談相手)だった担任が、まったく知らない人に替わってしまったので、娘としては、今年は、自分の悩みを聞いてくれるのは、M先生だけだ~、と踏んだわけでした。
ちなみに、娘の今度の担任は、高校から移って来た先生の1人です。 始業式に、クラス便りというのを貰ってきたけれど、(ブログ上だから言うけれど・・・・) コレを読んでも、どんな先生なのか???想像つきませんでした・・・・。この先生、国語の先生だと言うのだけど、現国では、苦労している我が娘、、どうなることやら・・・。
国語が苦手だから、こういう先生が担任になったのかな?・・ え?考えすぎ?! 漢文や古文はちゃんと”まとも”な点数を取るのに、現国はなぜか、悲惨・・・。 
でも、親から見たら、この二年間で漢字もかなり覚えたし、使っているのだけどね。
そりゃ、高校の漢字や漢字検定の何某を他のお子さまと一緒にやられたんじゃ、無理なんですわ。
担任が国語の先生になったってことで、何か利点が出れば、儲けもんです・・・。
 
さて、、、、
保護者の憶測というのは、、、、この学年が他のこれまでの学年に比べて、”問題”が多いため、これまでの先生方では、抑えられない・・・(?)&対処しきれない、高校へ行く前の今年こそ、学年の雰囲気を正す時!という感じで、クラス担任教師を取り替えたのではないか?!ということ。
でも、なんか雰囲気良くない、そんなんでこの学年、うまくいくの? ・・・ と。 
 
新たにやってきたのは、ベテランの先生がた・・・・、でもね、ちょっと不思議に思ったのです。
 
毎年クラス替えをするので、クラス内の生徒の面子は変わるものの、彼らは、いくつかの教科では、クラスを混ぜて&分かれて授業するため、もう三年目ともなると仲が良いわけじゃないとしても、たいていの子のことは判るようになっている。 
若い先生が、この問題学年に手を焼いていたのは、去年から知らされていたけど、担任を変えれば
それで生徒達を把握できるようになるのだろうか???という 疑問も、他の保護者から出ている。
 
同時に、私が疑問なのは、いっそのこと三年間、同じ担任をそろえる方が、教育上いいのではないか?ということだ。(絶対、異動がないわけではないけれど、基本的に、運命共同体みたいな・・・。)
シュタイナー教育の8年間同じクラス・同じ担任を真似することは、日本の教育制度・学校制度上、不可能だろうけど、少なくとも、一人の生徒・児童の気質・性格を知り、先生がその子と理解を深め合おうと思うなら、一年でコロコロ変わっていたのでは、人間同士の結びつきが、うまく育まれないのではないかと思う。
毎年、クラスや担任が変わる場合、相性が悪い先生・生徒同士は、よそよそしく&耐えてさえいれば、一年で付き合いを終えることができるわけで、毎年変わる方が、こういう場合は、ラッキー・安心なのだろうけれど、それじゃあ、教師としての、子供を育てる・教育する(躾けるという意味ではありません。)ことから逃げることにもなるのではないか?! 
もともと、教師というのは、どんなタイプの子供も、自分と合いそうのない子でも、分け隔てなく、公平に接する、、、先生、生徒それぞれ、人間だから、相性の良し悪しはあるだろうけれど、それでも、歩み寄る(先生が)のが、人=子供を、信頼し得る人間に育てる基礎なのではないかと私は思う。
 
先に書いたように、シュタイナーの8年担任制でいくと、本当に先生を”全ての権威者”として崇める小学校低学年から、どの大人も嫌いという反抗期まで、子供たちと向き合うことになり、ゆえに、
苦手な先生・生徒は、8年間、逃げ出すことはできないので、それが欠点だと言う人もいるけれど、その代り、親子と同じように、苦楽を共にし、成長(育児は育自)することになる。 特に教師の側は、苦手な子でも、ちゃんと向き合うという覚悟がないと勤まらない。 よほど先生と相性が悪い子は、なんらかの対策が取られるだろうが、通常は、教師の器量で乗り切られるものだ。 むしろ、相性の好い子供ばかりと言う方が、珍しいだろう。 親子だって、同じ兄弟対親で、相性の好い場合と難しい場合があるわけだが、だからといって、親子の場合は、相性の悪い子供を一、二年で放り出したりしないはずだ。
 
手におえない生徒だから、一年なり二年なり担任してきた若手教師よりも、初めて顔を合わせるのベテラン教師をつける・・・・
この考えもわからないでもない。
 
し・か・し 
総入れ替えに近い新しい担任たちの場合、また初めから 教師は生徒と関係を築き始めなくてはならず、ベテランであっても、一年という期間で彼らと上手く向き合える、彼らの心を理解できる、学校側の思惑通り、問題を失くし、押さえ込める、という保障はない。 
むしろ、思春期真っ只中の彼らは、権威には年々、服従しない気質を出してきているのだから、新たに、良い関係を築くのは大変だ、、、。 ≪←ベテランのお手並み拝見なのだろうか?!≫ 
一方、これまで少なくとも、直接若しくは間接的に見てきた先生方の方が、コレまで見てきたその子の”歴史”を踏まえて、理解を示してくれるのではないかと、私は思うのだ。
そもそも、この学年が問題学年になった理由が解からないかぎり、どんな教師を持ってきても、同じように”問題学年”であり続けることは変わりないのではないか。
一年経って、若しくは二年付き合って、ようやく相手を理解することができる、そういうことはないのだろうか? 若しくは、極力、問題を少なくし、受験・学業に身を入れ、校内規律に従う生徒に上手く仕立てるには、理解し合わなくてもいいから、表面上であっても厳しく指導し生徒に言うことを聞かせる方が学校側には大切なのだろうか? ≪←ベテランなら短時間で理解し合えるのだろうか?!≫
 
先生方は、苦手な問題や解からない問題があったら、先生に聞いたり、くり返しくり返し練習し、解けるようにして、取り組みなさい、、、と生徒達に言う。
だとしたら、、、、、問題児の多い、この学年の生徒についても、くり返しくり返し、わからない問題と向き合って、生徒と向き合って、理解できるように、務める・・・、そういう考えは、なかったのだろうか・・?・・。
 
担任と良好な関係ではない生徒・児童の場合、早くクラス替えがあったらいいなあ、と願う気持ちは解かる・・・・。
でも、もし、先生が、どんな子供に対しても公平で、子供一人一人に対して熱心に働きかけ、理解しようと努めてくれるとしたら、一年という短期間で代わるより、ある程度の時間・・・年月、受け持ち続けられる方が、子供にとっても安定した学校生活の基盤を得られるのではないか、と私は思うのですけどね・・・・。
 
  ~~~~~ ☆ ~~~~~ ☆ ~~~~~ ☆ ~~~~~ ☆ ~~~~~
 
もう担任が変わってしまったので、文句を言っても仕方がないので、明るい方を考えよう。
新しい先生になったことで、問題児に対しても、普通の生徒に対しても、それぞれの、その子供の別の側面(1,2年生の時とはちがった)を見出す、別の視点から対処できる、固定観念に囚われず、新しい先生対生徒の関係を築くことができる、そういう利点を ぜひ 生かして欲しいと思う。
 
 
::: とは、言うものの、娘のクラス担任ではなかったけれど、確かに、去年「あの先生、完全になめられてるよ、不味いよ、」と、保護者が言ってるクラスもありました。 ウチの娘でさえ、「うるさくて(生徒の私語が)たまらないよ、先生なめられてるから、、」と言ってる(クラス担任という場合に限らず、教科の担当で・・)こともあり、授業参観で私も見ました。 生徒を理解しよう、保護しようという姿勢が見られないと保護者がこぼしている先生もいました。 ベテランだからというより、それぞれの先生方の資質、気質、取り組む意識の問題だと思うのだけど、高校からやってきたベテラン教師陣が、学校側の、保護者の期待に、そして生徒達の期待に(?)どう応えるのか、どうなることでしょう~。 :::
 
追伸: でも、、、、先生が変わっても保護者は、替わらないんだけどね~~~。
これ~、いいたいこと、、解かります!?
 
 
(※注: 娘の学校は、中・高が一緒になっている私立です。)
 
2006/3/6

中学二年 英語の教科書から

 
What Are Heavy?
 
 
What are heavy ?
 
Sea-sand and sorrow.
 
What are brief ?
 
To-day and tomorrow.
 
What are frail ?
 
Spring blossoms and youth.
 
What are deep ?
 
The ocean and truth.
 
 by Christina Rossetti
 
 
 
上記の詩は、中学二年用の ある英語の教科書の 一番後ろに載っていたものです。
これは、とても 簡単な 文で 成り立っています。
 
これを読んで思いました。
日本の中学英語は、 実は、けっこう 文法的に込み入ったところまで教えているのですが、
実は、もっと ↑のように、簡単なものを バリエーションをかえて 繰り返すことの方が
必要なのではないか・・・と。
 
中学二年では、接続詞の that が使われるようになったり、動名詞、比較級が出てきたり、過去分詞を使った受動態のような形、”~されます”が出てきたりしています。 
確かに、こういう言い方を覚えると、会話の幅は広がります。が、どんどん進みすぎとも思えます。
もっと シンプルに、くり返していき、高校になってから、文法のバリエーションを深めても良いのではないかと思います。 現在の大学の受験英語が、どの程度のものなのか、わたしにはわかりませんが、
受験英語は覚えたけれど、ましてや、英文科を卒業しても英(米)語を話せない・・・という現状を見るj限り、結局、英語を話したい人・使いたい人は、どんどん その後、先にすすめばいいわけで、
全員の英語力を受験レベルに平均化する必要はないのではないかと思います。
むしろ、単純な会話を繰り返して使えるようになるほうが、むずかしくて 英語嫌いになるよりも、ずっとメリットがありそうです。 映画でも、音楽でも、何でも、興味がわいたら、深入りすればいいのではないでしょうか・・・。
 
この教科書の、最後に出てくる会話形式の 例文は、
 
What are these maps ?   ---  They're upside-down maps.  Which do you like?
I like this one.  How much is it ?  ---  Ten dollars.
Good. I'll buy it.  ---  (  end  )
 
です。 けっこう、単純な会話ですね。 買い物に役立てようというのでしょう。 
 
しかし、読み物型式の 最後のレッスン9では、
カンボジアの地雷と子供たちについて書かれており、受動態(文法)が出てきます。
(例)
This poster was made by a Japanese.    VS   A Japanese made this poster.
 
Large birds are seen in the forest.
Cambodian is spoken in Cambodia.
Some of them are killed and many others are injured.            * some of them = children
 
もちろん、一度 英語を覚えてしまった人にとっては、これらは、難しいものとは思えないかもしれません。 が、日本の子供達が 学校で ”憶えさせられる”種類と量といったら、かなりのものです。
教科書が、どんなに 写真やイラストが多く描かれ、会話文が増えて、時代に沿った内容になっていても、フォアグラ状態では、うまく消化できないのではないかと思います。
極端な話、もっとレベルを下げて、そして、高校以上になってから、選択性で、英語をどんどん学びたい人には、それなりの内容と機会を与えていっても悪くないのではないでしょうか。
たとえば、他国で中学校で日本語を教えていることがありますが、日本の英語の内容よりは、かなり ”日常的”であり、また、くり返し繰り返し、同じようなものが出てきて、かつ、それを リスニングで ピックアップできるように、理解できるように、テストでは、そういう基礎ポイントが押さえられています。
また、せっかく 会話形式で、 上記のように、↑ [ I'll buy it. ] と、あるのですから、そこの最後にひと言、 ”thank  you.”  をつけたら、どれだけ、 現地での実会話に近くなることか・・・。
日本ではそれほどではないけれど、英語圏では、買い物のレジカウンターであっても、”thank you”というひと言を使う場面が多いと 私は思います。 そういう単純だけれど、習慣の特色・違いみたなものを組み込む方が、実生活にも役立つのではないでしょうか。
 
でも、、、、
この教科書の最後の この詩は、素敵だと思いました。
教科書には、訳も 載っていましたが、省かせていただきます・・・・。
英語の 響き、リズム、そして この詩の 深みを 味わってください・・・。 英語で・・・。
・・・・おしまい・・・・ 
 
2006/2/11

期末テストに向けて・・・

 
3月の二週目に行われる学年末テスト(三学期末テストと いってもいいけど)に向けて、
娘が プリントを 二枚持ち帰った。
 
一枚目は、 各科目について、 
 ①目標点  ②目標設定のためにするべきこと 
 ③結果/ 実際の得点、 ④振り返って: 反省点 
を 記入する各欄があり、 下に、”勉強の心得” という記入欄があり、
また、その横に、 保護者の署名蘭が二つある。 この二つというのは、試験前の ①②を記入した時期のサインと、 試験後の結果を踏まえて ③④を記入する時に保護者が確認したというサインをするための 二箇所だ。
 
さて、
二枚目、 【 学習習慣 チェック表】 というタイトルで、 提出日は、来週金曜(17日)となっている。
期末テストまで、三週間となりました。学習の成果を発揮するには、 ①目標、②計画、③実行(意思の力) の三つが必要です。 そして、早いスタート、準備は、怠りなくです。 毎日の生活を振り返って改善できるところは改善し、学校から帰宅して、一日最低○時間、休日は、最低○時間は、学習しましょう。 下の例を参考にして、平日と休日の学習時間帯の計画を立ててください。 学習時間は、学校での学習時間を除き、家庭での学習時間に色を塗ってください。
計画通り、毎日が過ごせたか、2月10日金曜日から、24(金)までの学習時間記録をつけてみてください。そして反省すべきところがあれば、反省しましょう。
と、書かれていて、 縦軸が 日付、 横軸が、 午前4時から その日の23時過ぎ(24時)までと
なっているマス目の表がプリントされている。
そして、下に、≪ご家庭よりひと言≫ ≪反省・感想、次の週に向けての目標≫ という蘭がある。
 
 
私は、二枚目の 塗り絵・・・ 今日の分を塗り始めた。 どうせ、娘がやらないのは判っていたからだ。でも、一応、彼女は勉強もしていたので、私が 色を塗ろうと思った。 だって、誰が塗ったって、要は、塗られてればいいわけだからね・・・・。
 
ところが、 数学の宿題を終えた娘・・・ 何を思ったか・・・・
この二枚ともぐしゃぐしゃにして、ゴミ箱に捨ててしまった。
 
 
この学校、学年のやり方が、過保護なのか、、、面倒見がいいのか、、、
それは、受け留め方しだいだろう。
しかし、
こんなことを ”やらされる” のは、滑稽でたまらない。
自ら 進んで そういう表を書いたり、目標を持ったりするのは、とても 良いことだとおもう。
けれども、果たして、
いかにも、目標の点数、クラスの平均点などを 気にした このやり方は、子供にやる気を起こさせるものなのだろうか? 
― こういうものを 見て、これらをヒントとして、自ら進んで取り組む子供も中にはいるだろう。
しかし、である。 すでに、去年の初めから、こういった 科目ごとの目標点だの、最低学習時間だの、試験までの時間の使い方といったものに関して、とても"親切"な、手ほどきが 何度もあたえられてきた。
正直って、我が家には、 百害あって一利なし、である。
その結果が、上記↑、”ゴミ箱行き”である。
こういうことが イヤでイヤでたまらないのだ。 おかげで、学習意欲は 激減する。
娘いわく、『私の人生に、入ってきて欲しくない、 干渉するな!』 だ、そうだ。
これに関しては、 昨年から 私も担任と話しをしてきた。 
が、彼女1人のクラスではないため、結果、また こういうものが配られ、あたえられた。
 
週末に出された宿題や、テスト対策の課題などは、それほど嫌がらない。
が、 自主性を わざわざ邪魔されるようなこういうものは、(今の言葉で言うと)うざったくて
たまらないらしい。 私も、”ここまで するか~~~?!” と 思うこともしばしばである。
なぜ、こんなことを やらせるのだろう? 
学習意欲というものは、自らの中から湧き上がるものだ。
必要だと感じれば、子供は、やるものだ。 
( 私事だが、私は、中学生の頃、こんなものを学校から貰わなくても、自分で書いていた。)
点数を上げるために、与えられたものをこなすのが、学習効果もしくは、学力向上につながるというのだろうか?
点数を上げるのは、何のためなのだろう? 
- 成績のため? - 何の成績? - 高校受験、その後の 大学受験のため?!
残念ながら、それでは、 ウチの娘は、 ”やる気にならない”。
 
なぜなら、
点数を上げることに 興味がないからだ。
 
学校内で 行われるテストというものは、 そもそも、自分の学習到達度を 測る、一種の目安に過ぎない (←と、わたし達は、考えている)。 これは、入学試験や 卒業試験ではないのだから・・・。
それを 成績と結び付けられては、感覚が狂ってしまう。
―― というか、テストというものを点数評価の成績に結びつける日本の感覚に合わない。
日本では、テストの点数・成績が 即、その科目の成績に結びつく。 
その子供がその教科の、今回学んだ箇所を どれだけ 理解したか、どこまで 到達しているかという ことを 教師が 確認するそういう機能としてのテストではないようだ。
教師にとっては、楽な方法でしょう、、点数で 成績をつければいいのだ、その子が理解していようが、どこまで到達していようが、関係ない・・・ 点数が悪い子には、”もっと勉強しろ”といえばすむ。
 
 
話しをもとに、もどしましょう。
 
娘は、提出日に、”失くした” と先生に言うという。 
どうせ、また、新しい紙を渡されるんだ、とも言う、判っていながら、捨てた。
 なぜだか、お解かりになるだろうか?!
これを 読んでおられる方の中に、教師をしている方が、いらしたら、ぜひ、考えていただきたい。