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2006/5/28 Sarah Brightmanある曲が、音楽が、記憶の 扉を開けて、
ある特定の、時間や場面を 思い起こさせる。
時には、そのシーンで感じた 感情さえも、追体験することがある。
サラ・ブライトマンの歌う、【 time to say Good Bye 】を聴くたびに、そのCDの数曲を聴くたびに、
深く深く私は、7年半前へと 誘われる。
じっと、ホテルの一室の ソファに 座って、
買ったばかりのCD・カセットプレーヤーに このサラ・ブライトマンのCDをかけ、
来る日も来る日も、時計ばかり見ていた。
窓の外からは、ミナレットが見えて、アザーンが鳴る頃に下を見ると、道路工事の若者が
マッカ(メッカ)のほうを向いて お祈りをしていた。
数日後、たいくつに耐え切れず、外に出て、ホテルから歩いて数ブロック、
花屋を見つけたので、小さな鉢植えのセントポーリアを買って帰った。
サラ・ブライトマンと、アリーナ・デ・ヴィット、くり返しくり返し 毎日、今日も昨日もそして 明日も、
彼女達の歌声をCDプレーヤーで聴いた。
特定の歌が、特定の思い出と 結びついているのは、誰にも覚えのあることだと思う。
ただ、その中の いくつかは、場面だけではなく、気持ちさえも再現させるほど、取り付いている。
サラ・ブライトマンの このCDは、私にとって、そういう力がある。
たぶん、彼女のCDに代わって、同じCD?カセットプレーヤーで、ラジオを聴き始めたころ、
おそらく私の気持ちも、少し、変化していたのかもしれない。
もう、悲しすぎて、カラッポになった心が、サラの歌声に耐えられないだけだったのかもしれないが。。。
それにしても 不思議だ。
普段は、思い出すことなんてないのに、その曲を 聴くだけで、その頃の部屋も、窓からの景色も、
思い出せるのだから・・・毎日 感じていた鳥かごの鳥のような気分さえも・・・。
同じ彼女の、あの頃に聴いていなかった歌を聴いても 思い出さないのに、ある特定のいくつかの
曲だけは、そこの空気まで 目の前に蘇らせる・・・。
タイトルを サラ・ブライトマン にしたので、彼女の歌声についても一つ・・・。
Sarah の、このCDに入っている【 Alleluja 】の、最後の、Lu の音は、、、いつ聞いても、驚異だ。
彼女の歌声に釣られて 一緒に歌ってしまっていても、この lu の音だけは、さすがに出ない。
世のオペラ歌手とは一味ちがった、銀のコード(魂と地球・人間の体とを結んでいるコード)が 震えるようなソプラノの、文字通り amazing すばらしい 音だ。
2006/5/25 雷鳴 と 稲光南アフリカの ヨハネスブルグ、プレトリア(最近は、ツワネ、というらしいが、)あたりは、世界各地の中でも、 雷が 多い地域とされている。 ほんと、かなり頻繁に 雷がなる。雨が降らなくても、雷が光る。
ものすごい雷鳴と、天から地へ降りる 眩い 稲光・・・
今日、関東地方は、夕方から、天気予報どおり、急に 雲ってきて、土砂降り& 雷という
天気になっている。
雷の音を聞きながら、娘が、「アフリカみたいな イナズマが見たいな~」と言った。
ホント・・・ なつかしい。 激しい雨でも、稲光が 何本も空に浮かび上がるその様は、美しい自然の
姿、畏敬の念を起こさせる 創造の世界だ。 雷が 何本も光っていると、二階のベランダに出て、
カメラを向けたものだ・・・ 。 雷は、恐いものというより、 美しい夜空のショーのようだった・・・。
== ゴロゴロ~っと 雷鳴がとどろくと、我が家で飼っていた、ボーダーコリーは、しっぽを丸めて、
リビングルームにすごすごと入ってきた・・・。こちらの顔を上目遣いで、うかがいながら、、、。
仕方ないな~と、雷の夜は、特別に、居間のカーペットに入ってきても、許された・・・。
2006/4/14 連ドラ寸評 : あの世からの合図さあ、4月と言うと 新番組の季節・・・、NHKの連ドラ、始まりましたね。
【純情きらり】です。
番組で・・・今朝、(三浦友和さん演ずる)お父さんが亡くなってしまいましたね。
こんなお父さん、好いなあ~と思っていたので、残念です。。。。
時代は 昭和初期~今、昭和12年っていってかな・・・。
お父さんが、土砂崩れの対策に出かけて、留守中、停電だった桜子(主人公)の家で、
「お父さん、早く帰ってこないかな~」というと、パッと電気がついて、
弟が、「お父さんがつけてくれたのかな、」と言う・・と、電気が一瞬、弱くなって、また明るくなる。。。
雨風の止まない中、桜子の姉、杏子が 雨戸を開けてみると、隣家はまだ暗いまま・・・。
「電気ついてるの、うちだけみたいだよ、」という、、、桜子もそれを見止める。
少し後、隣家にも電気がつき始め、叔母は、「時間差があるのかしらね~」といい、明るくなったからといってトイレに立つ。
が、杏子は桜子に、「ぞっとしたの・・・」と打ち明ける・・・シーンがあった。
桜子も、同様に感じた・・・とナレーターは語る。
果たして・・・
その時、玄関を激しく叩く音がして、お父さんが病院に運ばれたと連絡が入る。
~~中略~~
意識の戻らない父を見て、取り乱してなく笛子(長女)を、桜子は、
「お父さんは、優しい人だから、私たちにさよならを言わないで死んじゃうことはないよ、(だから、大丈夫だよ)」と慰める。
一昼夜後、父は、意識を取り戻し、家族と会話をするまでになるが、笛子、杏子、そして末っ子のユウタロウ(桜子の弟)、叔母が、それぞれ病院を後にし、停学処分中の桜子だけが病室に残っている夕暮れ時・・・・。
桜子は、父と会話をする・・・。
「あのこと、まだおじいちゃんには話してないのか?」と父が桜子に聞く。
あのことというのは、家族みんなに反対はされているものの、父が”なんとかするから”と約束してくれた桜子の東京の音楽学校進学についてのことだった。
また、父は、落石にあった時に、見とれていたという”水晶”を桜子に「お前にやるよ、」と言う。
桜子は父に林檎を、むきながら、父と会話をしていたのだが、父は、桜子の横顔を見ながら、
「母さん(すでに亡くなっている)に似てきたなあ。。。」と つぶやきながら、息を引き取る。
桜子が、「おとうさん、林檎だよ、」と、話しかけるが、すでに、父は目を閉じたままだった・・・。
-------- というのが、今日のストーリーです。
私は、あの停電の電気が、桜子の家だけ、少し早く、それも父の話をしている時にタイミングよくついたのは、まさしく”父”からの合図、、シグナルだと思います。
魂は、三途の川(あの時代の日本の男性だったら、三途の川を目指すでしょう・・・?!)を目の前にして、すでに体を離れていたのかもしれません。
---- そこでなにがあったのかは、判りませんが、----
「お父さんは優しいからさよならを言わないことなんて、あるはずがない。」という桜子の言葉に
引かれて、父の魂は、体を捨てきれずにもどってきたのでしょう。
---- あの世の時間の感覚は、この世とはちがうらしいので、この辺はつじつまが合わなくても、三途の川がどんなに遠くにあっても、直ぐに病院へ戻ってこれるんでしょうね。----
別れを伝えた父は、桜子の母=先に亡くなった自分の妻、に迎えられ、あの世に旅立ったのだろうと、私は思います。
話は変わって、ウチの話です。
私の母方の祖父は、(以前、ブログにも書いたように思いますが・・・)、三途の川を前にしていながら、 渡り方が判らず、& 帰れ!と言われて、この世に戻ってきたという経験の持ち主で、私が小学校一年の時に、最終的に三途の川を渡っていった人でした。
で、父方の祖父は、太平洋戦争時、戦死しました。 記録によれば、出征後、わずか3ヶ月でした。 (※1) しかし、戦死の公報が家族の下に届いたのは、戦死後、三年三ヶ月後のことでした。
その祖父の五十回忌,祖父の末の弟さんの49回忌の法要の席で、叔母達が話しているのを聞いた事があるのですが・・・.
まだ彼らが戦死したと知らされていなかったある日のこと、囲炉裏にかかっていた鍋を下ろしてみんなで食事をした時、みんなが、お椀の中に、&椀の中身を口に運んだ中に、じゃりじゃりっとした砂の感覚があったというのです。 鍋の中に 誰も砂を入れた覚えはないし、囲炉裏の灰が舞って入るわけもないし、なんでだろう_?と それぞれ、フシギの思っていたのだそうです。
あとから、もしかして、あれは、黄海で潜水艦とともに沈んで戦死した祖父の弟が亡くなった際に、噛んだ砂なのではないか、と叔母達は話していました。※2.
大正7年4月生まれで、亡くなったのが昭和二十年5月、享年28歳・・・・だったんでしょうか。
その後、祖母の夢枕に立った祖父の伝言で、登山道の藪の中、杉の大木の陰にひっそりと埋もれていたお地蔵さんのような(墓石のような?)、でも顔が描かれていない細長い丸みを帯びた石二体を、世話しておまいりしなさい、ということで、我が家の先祖の墓とともに、この二体の石も、墓参りするようになったことは、前にもブログに書きました。
あの世からの、、、亡くなった人からの合図、シグナルというのは、あるのだと私は思います。
シグナルというと、英語で、「信号機」と習ったことが頭の奥底に響いていて、
合図、というと、まるで、笛をピ~ッと吹いて”合図”するみたいな感じで、
どちらの言葉でも、うまく言い表せていないような気になるのですが、
ま、要は、あちら側から、こちら側へ 何か知らせたくて送ってくるもの・(・・やっぱり合図、英語ならシグナルですね・・)・は、きっと私たちの周りにあるのだと思います。ただ、それをそうだと自覚するかどうかの、そういう合図なのだと受け留めるか、そんなことはない、と無視するか、だろうと思います。
西洋諸国に比べて、日本では、昔から、死んだ人がまだ生きている人に何かメッセージを送ってくるという現象に関して寛容な思想を持っていると思います。
それは、おそらく今日の、桜子のお父さんのエピソードのように、”そうだ”と思えば、そうかもしれないし、
単なる偶然・たまたまそういうことがあっただけ、と片付けようと思えばそのようにもできるし、といった
出来事が、人々に多く起こっているからではないかと思います。
死後の世界がどうなっているか、は、別問題ですが、亡くなった人が、まだ生きている人に合図をおくってくることは、決して、不可能ではないだろうし、それほど 不思議なことではないのかもしれませんね。
ただ、、、あちら側に旅立った彼らが今どうしているのか、、を私たち側が見えないだけ・・・だと私は思います。
※1: 赤紙が来て、昭和19年8月に、仙台の十九師団に向かった祖父に、10月下旬、稲刈りが終わった頃、面会するために家族何人かが仙台へ行く予定だった。ところが、祖父に出発(部隊)命令が出て、家族が面会に来る前に発たなくてはならなくなった。事情を聞いた戦友が、出兵を代わってやる と申し出てくれたが、少し考えた後、電報を打てば汽車に乗る前に間に合うだろうから、と祖父は断り、戦地へ向かった。 幸い、電報=ウナデンが、ぎりぎり間に合って、足の早い人に駅まで走ってもらい、汽車に乗る前に「メンカイクルナ、○ヒセンダイタツ」と言う電報が祖母に手渡された。 出発を代わってやると申し出てくれた友人は、後日、仙台の部隊を発ったが、祖父たちの乗った輸送船が攻撃を受け、爆破されたため輸送艦船がなくなり、その人の部隊は下関で足止めされたまま、終戦となった・・・。
◎代わってもらっていたら、逆に、親切な友人を戦死させてしまったと、祖父は後悔していたかもしれない、、、だから、これはこれでよかったのだと思うけれど、運というものは紙一重なのだ、といつも思うのです。
※2:祖父は、昭和19年8月に出征して、戦死が同年11月。しかし、通知が届いたのは、戦後の昭和22年でした。 弟さんは、それより前に軍に入っていたようで、舞鶴の方にいたそうです。彼の乗った潜水艦が沈んだのは、20年五月(戦死公報が届いたのは、敗戦直後だった。)なのですが、その頃、まだ通知がなく、祖父が死んだとは知らされていなかったので、(外地・戦場へ向かっている輸送船上で、斎州島沖で米軍機の攻撃を受け、艦船とともに沈んだそうです。)、弟さんは、「兄は、生きている」と信じて亡くなっただろう、と父の手記にあります。
ーーおしまいーー 2006/4/2 月のない夜・未来のない恋:特別編 不思議な夢ひさしぶりに とっても 良い夢を見た。 もっと夢の中にいたい、って思うような夢です。
夢から 覚めたときも、 もう1回、夢の中に戻りたくて、目を閉じたていたのに~。
娘が、ママ~、と呼ぶので返事をしたら、完全に、夢には戻れなくなった・・・、でも、夢にもどらないまでも、眠りに戻れることは時々あるので、期待したけれど・・・だめだった。
この夢は、とっても 意外な登場人物というか、訪問者がいたのです。
Oscar (※)です。
夢の中の、、、ストーリーに、いつ彼が登場したのか、記憶は定かではありませんが、いつのまにか、彼がいまして、
私は、そこで出逢った彼と 昔話を始めたのです、昔の思いで話をしつつ、夢のストーリーが進行していきました。
なにが、フシギかって、そのストーリーは、まったく 夢=あたりまえだけど、つまり、現実離れしてるってことです。=なのに、 Oscar と私の話していることは、 現実の思い出にそって 話をしている、、っていうのが、不思議です・・・。
彼が、「 あの時は、そうか、僕は、まだ Wips だったなあ~ 」と言ったり、私がそれを受けて、
「そうそう、最後に会いに行った時は、あなたは、スイス人の彼女と一緒だったのよ~」 と言ったり・・・。
何語の会話かって ? 英語です。
彼との間は、英語ですが、他の登場人物 (私の小学校の時の友人とか)とは、日本語だったり 英語だったり、その相手によって異なりました。
そんな、会話の内容は、ものすごく 現実路線なのに、 夢の中は、別世界で、
久しぶりに再会した彼との 時間がとても惜しまれるものでした。
一時も 惜しんで、手をつないで 夢の中を移動していました。 壁にかかった絵や写真みたいなスクリーンを
みながら、話したり、彼の胸に抱かれて 目を閉じて昔をなつかしむ・・・・そんなことをしていました。
思い出話のほかに、その夢のストーリー中の”会話”もしましたが、なんていうんだろう、
同窓会でもないけれど、あの舞台は、Vermont のキャンパスじゃなかったような気がするけど、その周辺に近いものがあった気もする。夢のストーリー自体は、過去の私と彼とは無関係で、なぜ そこに彼が登場したのか?解からないくらいです。 夢のストーリーは、どちらかというと、現在の私の 憂いや願望に 関わりがあるような気がしました。
2人の思い出話の部分は、とても「現実の過去の出来事」なのに、夢の中の私と Oscar が過ごしていた場所や
そこでの普通の会話は、まさしく”夢”のようで、ずっと そこに居たかった~
何年経っていても、彼は 優しかったし、ちょっぴり子供っぽいユーモアも 心地好かった。
会っていなかった時間が、=ワインや お味噌が それによって熟成されるように= 必要且つ、そこにはその跡さえ見えない エッセンスとして、2人の時間を 特別なものに してくれていたような気がしました。
二日前、実家にいた時、ふと思ったのです、、、
そういえば、中東情勢 厳しい昨今、アブドラティーフは、どうしているだろう、、ムスタファは、? ロサルバは?
ロシオは、? あの頃の先生は? クリスティーナには、10年前に会ったきりだなあ~、
日本人の他のみんなも、今はどこにどうしているだろう?! キャンパスで 会おうって同窓会みたいに企画したら、
みんな来てくれるだろうか? でも、それぞれ 忙しいから、無理かな・・・ 住所も変わっているだろうな~、って。
もちろん、オスカルも その頃に知り合った中の1人だ。 Oscar に会いたいっていうのとは別に、あの頃のみんなと
会えたら どんなに素晴しいだろう、と思ったのだ。 あの当時のルームメイト、ドイツ人の コルネリアとは、今でも
” best friend ” で 年に一、ニ度、電話したりするし、ここ20年余の間に 何度か再会している・・・。
でも、他の多くの友達とは、あれきり 会ってはいない。 キャンパスを離れて、再会したことがあるのは、数人だ。
もちろん、他の人以上に、Oscar に会いたいとは、今でも年に何度か思うことだ。 彼は、特別だ。
彼の存在なしで、私の青春は、語れない・・・・。 (ちょっとオオゲサ?!)
彼に会いたくて、彼を訪ねて、無謀にも 会社が 暇になる時期に毎年、米国に飛んだ、あの”恐いもの知らず”の私は、今、どこにいるんだろう?!
そろそろ、また ”恐いもの知らず” の私が 出てきてもいいのかもしれない・・・という メッセージだったのか?
どんなに 彼を恋しいと思っていても、 Oscar があんなふうに 夢に出てきて 昔話をするようなことは、今までなかった・・・・それこそ 彼に最後に会ったのは、もう20年近くも前で、何かと彼を思い出すけれど、こんなに甘美な夢をみたことは それこそ かなり長い間なかったのだが、、、。
彼も私と 同じように 過去のことを思い出したりすることがあるのだろうか・・・・。
いつか、あの夢の中の私たちのように、よりそいながら 笑って 昔をなつかしむ日が くるだろうか・・・。
私は、今でも思うことがある、 結婚するのなら、彼のような人がよかったなあ~って。
((彼は、私が知っている限りでは、今、再婚して故郷・国にいる。 前のイタリア人の奥さんとの間には女の子がいる。この子のために、かなり彼は耐えたらしい ==スイス人の友人からの話== 国に帰っても会いに行ったりして・・・。初めのこれは、できちゃった結婚だった。彼は、昔からベイビーが大好きだったし、カソリックだから、できちゃった結婚は、充分ありえる。))
もちろん、それは、私たちが ”好い所だけ”思い出にして、 =別れた後で辛い思いもしたけれど、=
今に到っているからであって、本当に結婚するとなったら、 国籍も、育ちもも違うし、国の物理的な距離もあるし、もちろん宗教も違うし、(私は彼の両親・家族にあったことはあるけれど、彼は、日本に来たことはない。)、さまざまな課題が出てきたり、それまでの過程で 2人の関係がどうなっていたのか? 結婚後、どんな人生になっていたのかは、想像もつかない・・・ 私が 彼との結婚に満足していたという保証は、ない。
でも、彼は、よく私に 「結婚したら、○○しよう、」って 話していたことも確かで、そのたびに私は、「若すぎるよ」と、たしなめていたけれど、それでも、彼は、「若いから、初めは無理でも、2人でコロンビアに行って・・・△△して~」といろいろ考え、私に 夢を語ってくれていた・・・・。
幸せになった・・・なっていたという保証はないけれど、若い私たちには、夢はあった・・・。それだけで幸せだった。
私が 風邪をひいて寝込んだ時や、その他、折に触れて彼が私に言った言葉やその行動を思い出すと、彼の心遣いが、あまりにも温かく、今回夢の中で感じたような心地好さが蘇り、まるで宝物を失くした時の気分になってしまう。
あ~ もっと夢の中に 居たかった・・・・・ もっと 話がしたかった、、、。
そうそう、あの当時、年下のスイス人のMちゃんよりも、私の方が、実は、付き合いやすかったでしょ?なんて そんな話もしました。 そして、あのまま 夢の中にいたら、これから また 私たちは、やっていける、そんな気分でした。
Oscar とは、また いつか どこかで 会うこともある、、もしかしたら、そうなのかもしれない、って 思ってしまうような夢でした。
== 夢ですから、解釈は、ある程度、本人の自由ですもんね。。。==
※ ここに出てくる Oscar については、『月のない夜~』シリーズ、カテゴリー≪思い出≫を参照してください。
2005/12/24 クリスマスの思い出 昔々、、、 おばあちゃんに つれられて、 汽車に乗って 隣町に住んでるおばさんの所に出かけた。 叔母さんの嫁いだ家まで駅から歩くと、途中にお菓子屋さんがあった。 その年、その坂下にある門のお菓子屋さんで、わたしはおばあちゃんから、飴とかチョコレート菓子の入った肩にかけられるタイプの小さなバッグ(紙製)を買ってもらった。 そのバッグの裏面には、「聖しこの夜」の歌詞が印刷されていた。 私は、それ(日本語)を 覚えた。 ♪ 聖し、この夜、星は 光り~ (以下省略)♪ あれ以来、忘れていない。 他の曲の歌詞なんて、いくらでも忘れるのに・・・。
なぜ、こんなことが ずっと心に残っているのか、解からない。 が、幼い時代の色褪せない数少ない思い出の一つだ。
クリスマスといえば、東京で仕事をしていた時は、超忙しい時期だった。クリスマスであろうと正月であろうと仕事をしていた。 クリスマスイブも、会社の近所にあった洋食カフェで仕事の合間に夕食を食べたこともあった。一応、形だけクリスマスディナーなのだ(当時の彼氏にもその時だけ、来てもらったかも・・)が、その後、仕事に戻ったのだ。そして、クリスマスだって、旅行の出発はあるから、成田空港で過ごしたこともあった。空港からもどって、仕事をして、、、同僚が、近所のコージーコーナーからケーキを買ってきてくれて、夜、みんなで食べたりもした。
また、米国人と結婚した後輩の家に招かれて、その彼ご自慢のミートローフをごちそうになったクリスマス・ランチもあった。静かなクリスマスだった。(イブじゃなくて、クリスマス・ディ。)
カナダで クリスマスをむかえた時は、寒かったけど、生まれて初めて クリスチャンの中で過ごしたクリスマスだったから、感慨もひとしおだったし、楽しかった。 結婚後、私の今の、クリスマスの過ごし方は、これが基本になっている。 クリスマスプディングを初めて食べたときの衝撃は、忘れない! 欲張って損をした・・・と実感した時だったから。 カスタードクリームのおかわりをして、ようやく食べ挙げた・・・。
南半球で お寿司を食べながら、、というクリスマスもあった。 仕事場で、何かのボランティアをしてたワーホリの子が、チャリティの半そでTシャツを売りに来て、それを買ったこともあった。 ウォンバットがサンタクロースにふんしているデザインで、可愛かった。 娘が生まれた時も、クリスマスなのに、なぜかテイクアウトの寿司を 夫が買ってきて、夫の上司も、奥さんが日本に帰ってしまったので、我が家で一緒に、寿司ディナーになった。 全然クリスマスらしくなかったけど、その日の午後、仕事仲間だった豪州人の ヴァネッサが、プレゼントを持ってきてくれたりして、ちょっとだけ、気分を味わった。
ワーホリの仕事仲間である友達が、それまで住んでた部屋を出なくてはならず、クリスマス直前、我が家に数日間の居候にやってきたといこともあった。 この年も、寿司だった。 なぜ、寿司なのか?
シドニーは、シーフードが美味しいから・・・。ただ、それだけ。
自分でチキンを丸ごと焼くようになったのは、もう一箇所の南半球アフリカでのことだ。あそこも、クリスマスのケーキというのは、英国系の フルーツケーキのような プディングが主流なので、日本風のケーキを食べたければ、作るしかない。 ジンジャーブレッドのビスケットの味を覚えたのもこの頃だ。娘にねだられて、シーズン中に何枚買ったことか!(自分では、焼かないのがいいでしょ^^。) ほぼ間違いなく(何か大事件が起これば別だが・・・)クリスマスは休日になるので、友人達とBBQをしたこともあった。 クリスマスというのは、ほんとに 街がし~んと静まり、日本の元旦の午前中みたいだなあ、と思ったものだ。
昔々、 私の父は、クリスマスの少し前になると、山(我が家の土地)から 杉を切ってきてくれ、我が家ではそれに飾り付けをした。 電飾などは、つけなかったが、赤、銀や金色の球があり、てっぺんに☆星を飾るオーソドックスなものだ。 今思えば、私の故郷の、その山のあるあたりは、豪雪地帯ともいえるところで、12月に入ると間違いなく雪が積もっているところだ。 普段は、それほど子供と遊ぶというようなことがない父だったが、なぜか、毎年、クリスマスは雪の中、木を切ってきてくれた。
我が家はクリスチャンじゃない(禅宗であり、神棚もある。)けれど、クリスマスが特別な感じに思えるのは、もしかしたら、この杉の木があったからなのかもしれない。
最期に、、このクリスマス・ソングを・・・。
これを聞くと、Oscar を思い出す。 彼は、クリスマスソングの中で、これが一番、好きで、よく口ずさんでいた。 彼と別れて、その後、フロリダに飛び、再会した時、彼は、空港で、ハムスターの小さなぬいぐるみをくれた。 その白いハムスターは、緑と赤に縁取られた可愛いチョッキ(ベスト)を着ていた。
クリスマス・カラーだ。 そのハムスターは、今、実家の茶箪笥の中に、いる。
♪ サンタが 街に やってくる ♪
You better watch out You better not cry You better not pout, I’m telling you why Santa Claus is coming to town
さあ、あなたから メリークリスマス、 わたしから メリークリスマス、 サンタクロース イズ カミング トゥ タウン (サンタクロースが街にやってくる)
He’s making a list Checkin’ it twice Got to find out who’s naughty or nice Santa Claus is coming to town
He knows when you’re sleeping He knows when you’re awake He knows if you’ve been bad or good So be good for goodness’ sake!
Oh, you better watch out You better not cry Better not pout, I’m telling you why Santa Claus is coming Santa Claus is coming Santa Claus is coming to town そういえば、今朝のニュースで フィンランドから サンタクロースが そりに乗って出発したという
ニュースをみた。 サンタクロース村の周辺には、サンタ関連の施設がいくつかあるのだが、あそこには、実際の北極圏との境が、地面に記されていて、ホント、サンタクロースって北から来るのね~~って感じだった。そうえいは、あの ロバニエミ(フィンランド)のサンタクロース村(年中開いてます)の郵便局から出したサンタクロース・レター、、、何処に行ったんだろう~~。
☆☆☆
☆ MERRY CHRISTMAS ☆
to
☆ All of You ☆
☆☆☆
(他の手紙と大事に保存してあるわいっ by娘)
2005/11/25 月のない夜・未来のない恋 ⑪(ほぼ、二ヶ月ぶりの シリーズ、続きです。)
Thanksgiving Day
米国人学生たちは、みな、感謝祭の連休に向けて、早々とキャンパスを後にしていた。
ニューヨーク州、Albany 出身の リンダが、私とOscar を感謝祭に誘ってくれた。
彼女は、すでに一足先に帰っていたが、私は、Oscar と二人で水曜日の午後、バスを乗り継いでAlbany へ向かうことになっていた。 途中止まったバス停で、すでに雪が降り始めた。 彼の黒い上着に、白い雪の結晶が次から次へと 落ちては消え、落ちては消えていった。
私とOscar が、二人でバスの旅をするのは、これが初めてだった。 彼のルームメイト、ジェフの実家へ行く時は、たいてい誰かの車で 乗り合わせて行ったから、二人でバス、というのは、新鮮だった。
連休中、何処にも出かけずにキャンパスで 感謝祭をむかえる学生もいたが、私とOscar は、リンダからの誘いを 喜んで受けた。 リンダは、昔、日本の米軍基地に住んでいたことがあるのだ、と言っていた。 覚えている日本語は、「こんにちは」とか 「美味しいです」 という簡単なものだったが、キャンパスに来る右も左も判らない日本人学生には、親切にしてくれていた。 そして、私は感謝祭に誘われたのだが、すでに Oscar と付き合っているのが周知の事実だったので、私ひとりだけというわけにいかず、彼と二人、招いてくれた。
感謝祭の テーブルには、 定番の、七面鳥と クランベリーソ-スが、あったように思う。
デザートにパイもいただいたと思うのだが、アップル・パイだったか、パンプキン・パイだったのか、
忘れてしまった。 ただ、おかげで、 Thanksgiving の食事というものを 味わうことができたし、
クリスマス同様に、行き場のない外国人・異邦人などを 招くという習慣に与れたことは、幸いだったと思っている。
昔々、食糧の乏しかった時代にさかのぼるこの感謝祭の起源。 かつて、移民として海を渡ってやってきた彼らが受けた恩から、生まれたこの催しには、居場所のない、食べ物のない人々に 施しをするという精神が、受け継がれている。
まだ11月下旬ではあったが、Albany の市庁舎広場(たぶん・・・)には、大きなクリスマスツリーが、すでに立ち、飾られていた。 リンダと Oscar と三人で 寒い~寒いと言いながら、そのクリスマスツリーを見物したことを覚えている。
リンダの家で、私は、Oscar の膝に腰掛けて、写真を撮ったりした。 あのころは、まだそういう行為が照れくさくて、二人きりの時に、やっと”カップル”らしいことをするくらいだった。
Thanksgiving の連休の後半、わたし達は、 Albany から、来たルートを戻る形でバーモント州にもどり、そこから、また、バスで ジェフの実家、コネチカット州、Hartford へ向かった。
ジェフの家には、他の学生も集まっていて、にぎやかだった。
昼間、薪を割ったり、近くの野山を散策したりして、晩秋を楽しんだ。
ここでは、他の学生もいる手前、二人きりで部屋を占領することは、難しく、彼は居間のカウチで他の学生とともに眠り、私は二階で、別の学生と一緒に部屋をつかったりした。
そして、休暇の終わり、みんな、ぎゅうぎゅう詰めの状態で車に分乗して、キャンパスへと戻った。
いったい、バスでの道中、Oscar と私は、どんな話しをしていたのだろう。
何も おぼえていない・・・
ただ、ただ、そんなバスでの旅をしたことが 信じられないとともに、懐かしい。
寒かったはずの、雪の中の トランジット、、それも、今はなつかしい。
この休暇から、二週間後、私は、Oscar と一緒に Albany へ向かったバスに、1人で乗ることになる。 Albany の空港から、カナダ・トロントへ飛ぶために・・・。
なぜ、Oscar に もっと優しくしくしなかったのだろう、もっと、楽しそうに振舞うことができなかったのだろう、 なぜ、純粋だった彼の気持ちに、素直に応えることができなかったのだろう?
離れてみて、いくつもの 後悔が、私を襲ったのだった。
バス停で、そして空港で、私は、泣いた。 Oscar に、ぜったい、もう一度会わなくては!
言い残したことがある、もっと、もっと、彼に伝えなくては、ならないことがある。
私は、彼が好きなのに、とても嬉しくて楽しくて、好きだったのに、それを表せなかった、、、
その無念さ、後悔が、溢れ出ていた。 そして、、、私は、フロリダに飛ぶ決心をしたのだ。
その前に、彼は、フロリダで、私はカナダでクリスマスを過ごさなくてはならない。
彼からは、毎日、手紙が来た。電話でも、たくさん話した。
同じ 後悔をしたくない、私は、そう固く 自分に言い聞かせていた。
自分の気持ちに従うこと。。。
愛しているなら、好きなら、 "Follow your heart" なのだ。
2005/10/5 古い日記から ⑤永遠に なんて 言わないから、
黙って わたしを 抱きよせて欲しい
こんな 雨の夜 そばで 眠りたい
あなたが にぎってくれる手は
なんて 自然な 感じがするのでしょう
もっと 体 よせて 踊っても いいですか?
2005/9/17 月のない夜・未来のない恋/番外:愛の賛歌ちょっと、いろいろ あって、 一昨夜前から、 気分が沈みがち・・・
追い討ちをかけるように、今朝も、数倍 人恋しい気分、、。
それなのに、NHK連ドラの『ファイト』 で 旅館の女将さんである 由紀さおり さんが、
コンサートという設定の中、 『愛の賛歌』なんそを唄っておられました・・・・
これは、私の十八番でもあります。 もう、何年も、歌ってないけれどね。
~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~
同じキャンパスで、Oscar と 出会う前から 私は ラ・ティエンダ (カフェテリアの上階にあるフリースペース& 売店のあるところ。 カウンセラーの ボビーおばあちゃんのオフィスもこの階にあった。とにかく学生にとっては、昼間、カフェが開いてないときによく溜まる場所。)のピアノを弾いたりしていた。
スイス・フレンチの ものすごく美しいブロンドの髪をもつフランシーヌや、当時の(私の)ルームメイト、ドイツ人のコルネリアとか、イタリア人のジョバンニや、スペイン人のペドロにも、みんなに喜んでもらった・・・ なんといっても、娯楽の少ない学校だったので、みんなでピアノの周りに集まることだけでも、楽しかったのだ。 その頃から、私は、『愛の賛歌』を弾き語りしていた・・・。
Oscar と出会ってから、あるタレントショーの時に、ピアノを弾いて、イタリアのアリアを唄ったり、
別の日本人男子学生と 日本の唱歌を”重唱”したりもした。
人々の居ないところでも、また、いるときも、私は、Oscar に 『愛の賛歌』を唄った。英語で。。。
由紀さおりさん(越路吹雪さん)の唄う 日本語の歌詞とは、ちょっとちがう、、、
♪ もしも、空が裂けて 太陽が 落ちてきても、
突然、 海が干上がるようなことがあっても、
もしも、あなたが 本当に 心から 私を 愛してくれているのなら、
何が起こっても 私は、かまわない、 何も気にはしない・・・・ ♪
という内容だ。
日本語で、
『あ~なた~の 燃える手で~ 私を 抱きしめて~ ただ、あなただけに、生きていたいの~
ただ 命のあるかぎり~ あ~なた~を愛したい~ 命の か~ぎりに~ あなた~を愛する~の~
という歌詞も好きだが・・・・、Oscar には、日本語は解からない。 私はフランス語のもともとの歌詞はわからないし歌えない。だから、彼には、私たちをつないだ 言葉・・・英語 で 歌った・・・
この歌のほかに、もう一曲、、私が 彼に歌った曲: 『Ich liebe dich』 ベートーベンの曲。
これは、高校の時の音楽で習ったのだが、 ルームメイトがドイツ人だったこともあって、
なんとなく 思い出して唄ったりした。
♪「たが~いに わす~れず、 ゆ~うべに あ~し~たに、心の憂いを いつも 分~け合い~」
という邦訳の歌詞も、私は好きだ。
noch war kein Tag , wo du und ich nicht teilten unsre Sorgen.
Auch waren sie fur dich und mich geteilt leicht zu er tragen; ~~
~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~
今朝、『愛の賛歌』を聞いていて、一瞬、一瞬、その時だけでも、他に何も考えずに 相手と二人だけの時間だけに浸れるのは、なんと 幸せなことなのだろう、と思った・・・。
その愛する人と ずっと 一緒に居られたら、、それは、さらに、どんなに嬉しいことだろう。
先行きの 心変わりや 環境の変化など 不安を 吹き飛ばし、そんな”もしも”を気にならなくするほど、”今”を楽しみ、慈しむことができたのが、
私たちは、”今”を楽しみ、自分たちの気持ち・感情を重ねあうことをあきらめなかったのだから・・・。
こうやって思い出すと、切ない気持になるけれど、彼との時間があって本当にほんとうに良かった。
2005/9/16 月のない夜・未来のない恋⑩ 肉体関係は必要か?昨日、映画『5x2』(邦題: 二人の五つのわかれみち」を観て来た。
始まりは、事務的な離婚話・ 一転して 別れた夫婦の ベッドシーン。
セリフの少ないこの絡みの場面では、 見る人それぞれが、彼ら(元妻・ 元夫)の思惑を想像したのではないだろうか。
~~ 私には、離婚するほどの・・・ 距離のある 二人が、 体を合わせることが可能だということが、意外だったりもするのだが・・・・ それは、シーンを追うごとに、(私の解釈では)、心のすれ違い& 勘違いを 浮き彫りにする 前触れシーンとして描かれたと思えなくもなかった・・・・・
体を合わせるくらい、適応できる2人なら、なぜ、離婚する必要があるのかな? と
単純な私は 疑問だった・・・ (※注)
でも、世の中には、 嫌い& 生活は一緒にできないくらい、パターンがあわない、けれど、性的魅力は、ある、、、っていうカップルもいるだろうから、、この別れた2人が、別れた直後に交わろうとすることは、それほど奇妙なことでは、ないのかもしれない。
~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~
約20年前、ちょうど九月・・・ 私は彼、Oscar に出会った。
ちょうど、キャンパスに フランス留学前に数週間、研修に来てた米国人高校生たちの影響もあって、色恋の話題には事欠かなかった。
ある日の夕方、 アクティヴティの一環として、隣町のスポーツジムへバスが出ることになっていた。
私は、あまりスポーツには興味もなかったが、誰かが、プールで泳ごうと誘ったので、水着をまた、別の誰かに借りて、泳ぎに行くことにした。
バスの中、、いや、それより以前から、Oscar は、私にある質問をして、その答えをずっと聞きたがっていた。
高校生達と、米国では、キスからセックスまでの肉体関係段階のことを どう呼ぶのか、という話しをしていた後に、彼が聞いてきたことだった。 高校生達は、ワシントンDC. オハイオ州、マサチューセッツ州、など各地から17~18歳、数人が来ていた。特に、その中の女の子4人は、アメリカンジョークやスラングなど、いろんなことを 私たち、外国人に教えてくれた。
彼女たちによると、野球に例えて キスは、 ファースト・ベース、 ネッキングのような、(日本では当時、ペッティング petting という言い方の方が多かったかな?)愛撫は、セカンド、 セックスは サード、そして ホームベースは、オーラル・セックス、だった。 (ホームランがオーラルだったかな?)
彼は、私に、日本で付き合っていたボーイフレンドとは、どこまでいった関係だったのかと 聞いてきたのだ。 私は、それには答えずに、スポーツ・ジムへ行くバスに乗り込んだ。 彼も付いてきた。
プールサイドでも、彼は、私に、同じことを聞いてきた。
私は、「どういう答えが、欲しいの?」と聞き返し、答えを延ばした。
彼は、「正直に答えて欲しいだけだよ、本当のことを、知りたいんだ」と繰り返した。
何らかの答えを話さなくてはならないと思ったし、ウソをつくのも妙だし、私はもともとウソをついたり、かわいい子ぶったりするのが苦手だったので、本当に、答えを聞くだけで満足ならば・・・ということで、彼に正直に話すことにした。
ところが、である。
答えを聞いて、彼の態度は、一変した。
帰りのバスの中、ひと言も口を利かない。話しかけても、目を合わせない。
「どうして、話さないの? ずるいじゃない。 正直に言えっていうから、正直に話しただけだよ。」
と 私は、どうしたらいいのか解からず、弁解した。
彼は、怒っている風ではなかったが、涙ぐんだような 目をしている。マイッタ!
私は、ウソをつけばよかったのか?
彼は、何という答えを 期待していたのだろう?
彼自身のことは、彼はこともなげに、私に話していた。高校生達との話の後で、私にいろいろ聞いてきた時だ。自分も話すから、君もおしえて欲しいと。 彼は、お兄さんに連れられて、売春宿みたいな感じの場所にいった事があるといった。が、ガールフレンドとは、セカンドベースまでしか、いったことはないと。真偽のほどは、解からない。が、彼はそう言った。
私は、プールの中から、プールサイドに向かって彼に 野球のベースを描いた、
そして、ファースト、セカンド、サードと指でさしてみせた。
「is that true?」 と聞かれたので、私は 「yes」 と答えた。
結局、その夜は、彼は私とは口を利かなかった。
キャンパスに戻ってから、まっすぐ部屋に籠ってしまった。
ようやく翌日、 (もう、はっきりしたことは覚えていないが・・・)少しずつ 彼は口を開き出した。
私が、日本のBFと すでに肉体関係を持ったことがある、と聞いて、彼は、嫉妬を感じたのだと言う。
それで、嫉妬を感じた自分を持て余したらしい。
それ以来、彼がこの話しを持ち出すことはなかった。
私と彼がサードベースを越えたのは、それからひと月程後の、ハロウィーンの週末だった。
プロテクションを持っていない、というので、途中で”ケンカ”になったが、それでも、私たちはお互いの
カンパニーを楽しんだ。
私たちは、ニューヨークで別れた前夜に、お互いに伝えたくないことは、(手紙で)伝えなくてもいいことにしよう、と言っていた。だから、君は前のボーイフレンドと、よりをもどしたかったら、それでもいいんだよ、と Oscar は、言った。 私にはそんなつもりは、なかったが、悲しすぎて反論も賛同も何も言えなかった。 -- 実際、元彼に成田にむかえに出てもらったものの、二人きりになるのが嫌で、女友達をずっとひっぱった。夜も、彼の隣で寝ながら、時差があって疲れていると言い訳をして、セックスを拒んだ。もう、肩を触られるのさえ、嫌だったのだ・・・・ だから、私は、さっさと東京を後にして、実家へ帰った。 どうしたんだよ、と聞かれたが、「友達にもどろう、」と言って、別れを告げた・・・。
** 私が 元彼に対して 気持が冷めたのには、別の理由がある。一気に冷めたのだ。人の気持って、本当に不思議だ。 一本の電話の 単純な会話の中の彼のひと言が、私の気持ちを太平洋以上の広さに彼から引き離した。これは、Oscar とは関係ない理由なので、ここには書きません。 **
数年後、彼と再会した夜、私たちは、また 初めの時と同じ事、プロテクションないの?ということでもめた。 年をとったからなのか、前例があったからなのか、 さら~っと、”寝ようか?”という状況にもっていく そういう関係の変化が、照れくさくもあり、かすかに嬉しかったりもした。
ニューヨークで別れて、あの日、再会するまで、私は日本で 新しく付き合っている人ができたし、彼に”彼女”ができていたのも、私は聞いて知っていた。彼女と一緒に住んでいたのを、別れたと聞いたので、私は彼を訪ねることにしたのだ。私たちは、相手の別世界のことには、いっさい触れなかった。
不思議なのは、以前、寝たことがあると一気に三塁打になってしまうことだ。
手堅いヒットを狙わなくても、一挙にホームランさえも打てる。
もちろん、どんな場合でも、誰でも、毎度、ホームランというわけにはいかないだろうが、、、。
”一線を越える”とは、良くいったものだと思う。越えた、後と、その前では、二人の考え方はかなり変わる。相手への接し方も変る。二人の関係がどういうものか、の、捉え方さえ、変る。二人同じことを考えているとは限らない。むしろ、この一線を越えてから、”越える”という目標をクリアしてしまったあとは、各々が別の目標を持ったりする。 一線を越えてからが、要注意だ。
子孫を残すためには、交わる必要があるし、二人の情熱・愛情の表現として体を合わせることは大切なことだ。しかし、何でもかんでも、だれでも、 どんな関係でも、セックスすることがどうしても必要だとは思えない。 肉体関係を持つ前に、じっくり考えて見ることの方が大事だ。
相手を恋しく思うのは、セックスができるからなのか?
もし、肉体関係がなかったら、これほど恋しくないのか?
また、1度、肉体関係を持つと、その行為が求められなくなった時に、一方が他方を責めることもある。セックスは義務ではないはすだ。
体をフルに生かす権利ではあるし、遣ったことによる責任も伴う。が、義務ではない。
だから、関係を深めようという手段として 安易に使うのは、どうかと思う。
また、心・気持が伴っていないのに、体だけ結びつけるような、関係を体で縛るような、そういう手段としても使うのは、好ましくないと思う。
彼とのセックスがどんなものだったか、もう、覚えていない。
が、
二人で過ごした、お互いに離れたくなくて、うつむいたこともあったけれど、
彼が、与えてくれた優しい時間、二人で過ごした きらきらした木漏れ日のような時間を 忘れることはない。
※注: 私個人の考えだが、相手に触れることが嫌であったり、相手にキスされるのが嫌であったりする状態になったら、それは、ある意味でカップルの関係破綻を意味していると想う。
夫婦であったら、それは、いかに紙の上で 夫婦であっても、抱き合うのが苦痛になったり、床を共にできなくなったら、夫婦関係は実質、夫婦でいる意味はないと想う。単なる、名義上の相手。
結婚という枠にはめなくても、同居人、もしくは、子供の”親”という立場で 関係を見直すほうが健全な気がする。 ただ、現実には、財産のこと、生活力のこと、愛着・同情、周囲の目、子供への影響などがあるから、”夫婦”のままでいる人たちが多いのだろうけれど、 一緒に寝れないのに、夫婦で居続ける必要はどこにある??? いや、私が言いたいのは、じゃあ、形は「夫婦」のままでいたとしても、どちらか、もしくは双方が 外に 体を重ねる相手を見つけた場合、相手を”貞節を守らない”とか、”ふとどきな者”といって 責めるのだろうか? という点だ。
2人の肉体関係が 冷え切っているのなら、肉体関係を満たす相手を外部に求めるのは自然だと私は思う。 だから、逆に考えて、この映画のような、関係が破綻している二人が、ベッドに挑むのは、とても”面白い”と思った。
そもそも、結婚とは何か? セックスとは何か? 考えるほど、答えは絡み合い、出てこない・・・
~~ でも、オトコはやりたかったんだよね、、女は冷めてた。でも、同意した。けれど、もう、心が開かれていないのは、画面を見て、セックスを始める前から判っていることだった。それを、ムリヤリ進行(侵攻)する・・・・ この2人のこれまでの 歩みが そのベッドシーンに反映されていたように 思った。
*男性側だけが、一方的に”侵攻”しているというわけではありません。 ただ、、悪気なく、故意ではなく、単に、相手が気づかないうちに、もう一方は、傷ついている・・・・ 暗示しているのに、信号を送っているのに気づかない・・・ 溝ができてから、相手をなじっても、後悔しても、やり直したくても、仕方がないこともある、そういうことでしょう~。
肉体関係って、そんなに 大事・・・ 重大事なのかな?
ある人たちは、、、セックスは、人間関係を フィルターにかける(本質を見えなくさせる)ような”罠”だから、気をつけるように、特に 若いうちは・・・と言っています。 この年になって、それが解かります。 セックスは、最大にして究極の愛情表現でもあるけれど、 愛 と 人間関係を 見えなくさせる・勘違いさせる業 でもあるのです・・・・。 肉体関係を持つことで、愛と 愛着を まちがえることもあります。 心が通じていて&見返りを求めずに、相手を思いやることができるか、という愛と、 所有欲にも似た相手を自分のテリトリーに縛りたい・自分だけのモノ(=自分だけを見ていて欲しい)であってほしい、自分は相手に夢中だという気持ちを”好きだから、独占したいのだ”と 錯覚してしまいます。
以前、書いたことがありますが、 I love you と I trade you の違いに気をつけましょう。
~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~
私と Oscar は、I trade you とは少し違った・・・。 出会ったタイミング、年齢が違ったら、もう少し関係が続いていたかもしれない。 でも、逆に、そうしたら 深い関係にはならずに、普通の friend で終わったかもしれない。。。 人の縁とは、フシギなものです。
時間と距離を コントロールできず、離れ離れになったけれど、私たちは、 SEASON を 共有した、出会った意味は、充分にあった、と思っています。
ありがとう、Oscar ,,,
the other side のそのにあるベンチに腰掛けて、月を見あげて、
古い日記から④それは 不思議な 響き
心 ふるえ、からだ 潤う
ふしぎな 響き
I want to make love to you.
素直に yes と つぶやくけれど
あなたの 前で 少し シャイな自分を見つける
あなたに
抱きしめられながら
もっと近づきたいと 想いこみあげる
感じるもの全てが 溶けていくように
離れたくない・・・ 離れたくない・・・
会いたくて 会いたくて ただ 会いたくて
会ったら 今度は 恋しくて
次に会えるまで ただ恋しくて
待つ間に 募る想いが 苦しくて‐‐‐‐
2005/9/9 古い日記から ③手を にぎっていて下さい
話しておきたいことがあります
離れて なお 消すことのできなかった 私の愛
おぼえていてください、 どうか。
愛することは 互いの顔を 見つめることではなく
並んで 同じ方向を 見ること.
生きることは 難しい
人間関係とは
他の生きる人たちや周りにあるもの全てとの 関係の
結び目だから
あなたが 手放すまで、 いえ たとえ手放したとしても
私は あなたへの私の想いを 手放すことはないでしょう
Love comes when we least expect it,
when we are not looking for it.
~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~
あなたが くれた 約束を
私は 守り続けます
たとえ、 あなたが その約束を 口にしたことさえ 忘れてしまっていたとしても・・・・。
2005/8/25 古い日記から②私が 自由になったとしても
あなたが いなければ
それは 籠の外に出た 羽のない鳥
♪ ~~ ・・・ you' re the only one, ever one ~~
~~ one thing I' m sure of is the way we made love,・・・ ~~
・・・ please forgive me no matter what I do
please forgive me I can't stop loving you
don't deny me this pain I'm going through
please forgive me, I need you like I do
babe believe in the words I said's ture ~~
I can't stop loving you ・・・ ~~ ♪
by Bryan Adams / [Please Forgive Me]
2005/8/16 月のない夜・未来のない恋 ⑨ 愛とは?= これまでの (ボクの)人生の中で 最高の出来事だ。
12月に Vermont を出て それぞれの ホームスティ先に向かう前に 彼が私にくれた言葉だ。
Es triste una noche sin luna, pero ma's triste un amor sin esperanza al guna.
= 月のない夜は、虚しい(悲しい)、けれど、未来のない(将来の希望のない)恋は、もっと悲しい。
これは、私が彼と出会って 間もない頃に、彼が 私にくれた手紙に書いてあったが、私は西語は
わからなかったので、そのままになっていた。その後、ようやく 知人の日系アルゼンチン人に聞くチャンスができて、その中身(訳)を知った。 彼女の前では、「え~、そんな内容だったんだ~」と明るく驚いて見せたものの、心中、穏やかではなく泣きたい気分だった。
彼と私:
彼、Oscar とは、なんというか、ケミストリーがピッタリ合ったとでもいおうか、、、。
互いに、相手の何が 好きとか、どこが よかったとか、そういうことは、はじめから抜きにして、
私たちは、お互いを意識し出した。 そして、それまでの 背景の違いを 無視して、ペアを 自認して過ごしていた。 時には、言葉のすれちがいや、それまでの 習慣のちがいで、とまどったり、相手の言動に理解できない、と悩んだりしたこともあったが・・・。 が、そんな違いや 不可解な部分も含めて 彼のことが好きだったし、難しく考えずに そのままを 受け入れていた。
また、
私たちは、互いに、”つきあっている”からといっても、義務感や 関係で契約されたものなどは、何も感じていなかった。 (以前のブログ参照:彼の自由について。)
私たちは、”相手”が いるにもかかわらず、 自由だった。 彼氏彼女のはずだったが、だからといって、彼以外の男の人たちと親しくできないような 雰囲気は何もなかったし、私の気持ちにも、そんな 義務感というか、彼に対して操を立てるだの、という考えはまったくなかった。
フシギなのだが、日本で他の人と付き合っていた時、その ある種の義務感(他の人と親しくしない、というような無言契約)は、わずかに、好きじゃない相手とは寝ないとか、その程度にあっただけだ。ある時、私が知人(♂)のバイクの後ろに乗せてもらって、夜のドライブを楽しんで帰ってきたら、当時の”彼氏”は、ものすごく不機嫌になった・・・正直言って、私はそういうのは、キライだった。私が誰とどのようにつきあおうが、私の自由なのだ・・・彼に=いくら”彼氏”といえども、束縛される筋合いは、ない、というのが、私の持論だったし、義務感など感じていなかった。 が、 やはり、相手が不機嫌になってケンカのようになるのは、私も嫌だったので、なるべく避けるようにした。
しかし、 oscar との場合は、もちろん、お互いに自分達が特別な存在なのだ、と意識はしているものの、だからといって、他の誰かと何をしてはいけないとか、しないものだ、などという 束縛は何も感じなかった。 他の男子学生と寝ることさえ、可能だった(但し:キライな相手とは、寝ない、寝れない、)、結局、肉体関係は持たなかったものの、いわゆる 一対一で個室で夜を過ごしても、彼は、私を責めたりしなかった。
なぜなら、その私の行動によって、私の彼・oscar に対する気持ちが何も変わることが なかったからだ。 彼のほうも、そうだった、私の言動によって、ふらふら 彼の私への気持ちは 変わったりしなかった。 また、 彼との関係で 満足感というか、彼とのつながりに自信をもっていたから、(あの頃は、自信があったなんて、思ってなかったけど、彼の気持ちが誰かに向くのではないか、とか、自分の気持ちがフラフラしているのではないか、、というような不安は全く持ってなかった・・・あれこそ、絆への自信というものだろう、と今になって 恐ろしいほどに 思います。) 自分達の行動に 後ろめたさもなければ、相手の行動について、いじけたり 自分勝手に悩んだりすることもなかったのだろう。
むしろ、他人を抜きした 自分達の 互いへの言動が、 私たちの関係の『鍵』だったと思う。
また、
私としても、”後悔 先に 立たず” の 気持ちを二度と 味わいたくなかった。
”その場が好ければいい”というわけではなく、 その時々を 大事に過ごしたい、 一緒に楽しみたい、そういう感じだった。
彼との関係は、ほんとうに "若かった"から 有り得たものだったのかもしれない。
それは、後になって、私に " [ I love you ] というのは、しばしば 「I trade you this and that 」の代わりに 使われる。 人々は、愛しているという関係と、 アナタが私に与えてくれるもの&その見返りにアナタにあげるもの、という関係 (愛しているなら、△△してちょうだい、そしたら、私は、××してあげるから・・・、△△してくれなかったら、愛してあげない。それに××もしてあげないワ、という関係)と勘違いする、愛しているとは、自分の欲しているものを貰ったりする関係ではない、与えてくれないからといって、愛していない状態になるようでは、それは、愛ではない、” というセオリーに出会った時に、あの頃の純粋さを 思い起こさせた。
幸い、私は、この I love you と I trade you の違いを後年に、実体験する人間関係に出会うことができた。 oscar とのことが、土台 & 基礎学習となっていたからこそ、見過ごさず、手放さずに ”愛する”ことを 自覚できたのだと、感謝している。
あの頃は、実感がなかったが、 今思うと本当に、見つけたくても、見つけられないくらい、稀な(私にとって)めぐり合わせ、関係だったと思う。 Oscar との ”未来のない恋”は、それなりに、私のその後の未来へと 繋がっていったのだから・・・・。
近年、私が 学び、かつ 理解し、最もだな~と思ったことを あげてみる。 この二つから 距離をおいて、”二人”の関係をみつめる時、それが、本当に 愛していると言えるのかどうか、みえてくるのではないだろうか・・・。
[ Expectations ruin the relationship. ]
* (相手に何か)期待する事は、その関係をダメにする。
[ Needing someone is the fastest way to kill the relationship. ]
* ”あなたがいないとダメなの”という は、 その関係を 壊す 一番の早道だ。
また、私が 好きな愛というものを 描写する言葉を紹介しましょう :
『愛は、自由で 無限で 条件はなく、見返りもなく、 そして always says,"YES". 』
夏、暑くなってくると アイスクリームが食べたくなる、そして Oscar を思い出す・・・
彼は、ストロベリーアイスクリームが 好きだったなあ~と。 でも、今、私は宇治金時が好き!
=つづく=
2005/6/1 月のない夜・未来のない恋 ⑧二通の手紙 と 一枚のハガキ : 離れていられなかった・・・だから、会いに行った。 彼は、私に何通もの手紙をくれた。私がカナダ、彼がフロリダにいた 12月中でさえも10通以上。 その後、離れるたびに、彼はこまめに手紙を書いてくれた。その中から、二通の手紙 と 一枚のハガキ を 振り返ってみる・・・。 『Dear Chiquilin ここへ来るまでの間、ボクは君の手紙を読み、君の写真を見て、そしてボクは機内で泣き出した。ちょっとばかり、これは面白かった、なぜって、ボクの隣のオジサンがとても驚いてボクを見ていたから・・・。ボクの家族(注:ホームスティ)は、親切でいい人たちだよ、でも二つだけ、好きになれないことがある。 ①彼らが、ものすご~く食べること! ②彼らはベッド・メーキングをしないし、台所もキレイじゃない、家中、散らかっているんだ。犬と猫を飼っているんだが、彼らも汚れている、ってこと・・・。 あ~ 酷いもんだよ、”my friend !! ” でも、ボクは、子供たちは好きだ、とてもカワイイ。そのうちの二人は太っているけど、他の子は普通だよ。ここに(同じようにホームステイしている)日本人の女の子も、普通だよ、チヒロ(クラスメイト)の写真を見せたら、驚いていたよ。 お願いだよ、フロリダへ来てくれないか?一月に、来れたら、来て欲しい。 I miss you a lot, a lot, a lot ・・・・ 君を恋しく思っているよ、とても、とても・・・。 Chiquilin, 君は、そっちで、楽しんでいるのか?I love you ( 愛しているよ) ボクは、コロンビア人だから、ためらわずに言うよ。 そうだ、おい、コラ!チキリン( Chiquilin )!ボクは、君に出会ったことを後悔なんてしていないよ、もちろん! どうか、フロリダに来てほしい、お願いだから。 君の未来が、明るく、幸運であるように、祈っているよ。 君に出会ったこと、一緒に時間を過ごしたことは、そりゃあ、うれしいことだったよ・・・。 愛しているよ、チキリン、 愛しているよ。 返事を待っているよ、 体に気をつけて・・・。 それと、電話、ありがとう。愛しているよ、 Concentida ... 愛をこめて、 Oscar 12月12日 』 この手紙をもらったから、というわけではないが、私はフロリダに行くことにした。行きたくなった。会いたかったのだ。 私も、キャンパスを出て、空港へ行くまでの間、なぜ彼にもっと優しく出来なかったのか、人前であろうと、なぜもっと堂々と手をつないだり、キスしたりできなかったのか、と後悔していた。空港で泣いた。文中に、彼が自分はコロンビア人だから、愛しているとためらわずに言うと書いてあるのは、私が、気恥ずかしさのあまり、日本人は愛してるという言葉を、はっきり口に出して言ったりするものではないから、と言い訳したことがあったからだ・・・。 これも、私がフロリダに言った理由のひとつだ、自分の口からはっきりと気持ちを彼に言えなかったことを後悔していたから・・・・。 私たちは、短い間に結構、いろいろ旅(?)をした。 フロリダから、ニューイングランドへ、そこからオハイオへ、、また、ニューイングランド内で、オルバニーへ行ったり、ニューヨークシティへ行ったり、ボストンへ行ったり、、、。フロリダからもどってせかっく移った大学を、彼は、中断して、私と共に、クリーブランドへ行った。周囲の友人は、みな、彼が大学を辞めてクリーブランドへ行くのは、私が行くから、彼がついていくんだと言い、特に日本人男子学生たちは、それは無駄な回り道で、私のせいだ、私が彼を止めるべきだったと言っていた・・・。それでも、彼は一緒に来たのだ。私が、一緒に来て欲しいと言ったわけではない、本当に・・・。ただ、離れているのが、つらかった・・・たぶん、フロリダから戻って移った大学は、彼には馴染めない場所だったのだ、季節が悪かったのかもしれない、本当に冷たい部屋だったから・・・(前のブログ参照)。ヴァレンティンの車で私と一緒に戻ってきた時には、私は、なぜか?日本人の男子学生から、「お前のせいだ、」といわんばかりの視線を浴びせられた、、、私が彼を惑わせて、連れ帰った・・・と。でも、事実はちがう、自慢じゃないが、私は男性を惑わすほどの美人ではないし、あれは、あくまで彼の選択で、私は彼にその大学を辞めて一緒に来て欲しいなどと言った事は1度もなかった。ましてやクリーブランドに一緒に行こうと誘ってもいなかった。 でも、外から見ると、私のせい、、になるみたいだった。 もちろん、一緒に過ごせて嬉しかったし、一緒にいると安心した。 クリスマス前の教訓があるから、もう、私も世間体(?)など気にしていなかった。それで一緒に行った。 そして、その後、彼は、多分、両親から諭されたのかもしれないが、大学の専攻を考え直すことにして、クリーブランドからヴァーモントへ戻ることになった。 『 Dear △△-chan ボクは、こっちの学校、次のコースについて、満足してる。こっちへもどってきて、友達や、P.I.M.の新しい学生にボクたちの経験を話したりしたよ。だけど、君なしでは、ここはまるで違う世界、物事は同じじゃない。ここは、君がいるのが当たり前の景色なんだ、ボクの心には君が今もここにいるイメージがしているんだよ。 ----------- 中略 ------------ チキリン、気楽に行こう、、。それから、ボクの心の中には、いつでも君の場所があけてあるって事を覚えていて欲しい。 もう1度、君に会いたいよ。 会えたら、どんなに嬉しいだろう。 ボクのルームメイトによろしく伝えてくれ。 your baby (君の), Oscar. 2月2x日 』 彼は、私をおいて、一足先にヴァーモントへ戻った。 『 君の手紙を今日、受け取ったよ。嬉しかった、ありがとう。どの手紙も、ボクにとっては、大事なものだ。 君を信じているよ。 君がボクに言うことの全て、ボクは信じているよ。 ボクが、前みたいに、毎日は君に手紙を書いてはいないとしても、それでも、ボクは、君を愛しているよ。 I love you Chiquilin, more than before you are always in my heart. 君はいつもボクの心にいるから。 君のことを、ここでは、周りの人には話さないんだ。以前みたいには、君の名前を出していない。でも、ずっと君を好きだよ、それに、君は、とてもいい人だ・・・。 ---中略ーーー チキリン、君に早くまた、会いたいよ。 ボクは、W.I.P.に入ろうかと考え始めている。そしたら、君を訪ねて二年間、日本に行ける。 インターンを日本でできるように、やってみるつもりだ。君が、ボクの気持ちを解かってくれるといいんだけど、、、ボクにとって、君とのことは、決してゲームみたいなものじゃないってことを。 君のとの関係は、とても真剣に考えている。 もうすぐ、オードトリアムで、ミーティングがある。でも、行かない、いつ、行っても面白くないからな~。もっと強くなるように努力する、そして、周りの人に、ボクが君を恋しがっていることを見せないようにするんだ、、、でも、時には、、、。君が、遠くに居るように感じるよ、それは多分、君をこの目で見ていないからだ・・・。去年の、タレント・ショーみたいに、君の姿がそこにないからだ・・・そう思ったら、ボクは泣いてしまった・・・・。 この頃、私と彼の関係をはじめから知っている学生達の半分は研修に出ていて、彼が、私とのことを話題にしづらいというか、そういう感じの場所ではなくなっていることは、想像できた。 この手紙と同時に、ボストンからのポストカードが出されて私のところに届いた。 ボストンでその日、クィンシー・マーケットに行ったこと、夕方は半年前に知り合った共通の友達であるバリー(米国人の女の子)に会って、映画に行く予定だ、などと書いてあり、 『なぜだか、わからないけど、とても今日は、ハッピーな気分なんだ。たぶん、それは、君が、ここに来ると言ったからだ、 Concentida, 会えるのを楽しみにしているよ、 気をつけてね、 それから、笑顔を忘れないで!君を思っているよ、 oscar 3月5日 』 とあった。
さて、そして、私は、そこから、一緒にキャンパスへもどり、次に私たちは、二人の最後の旅(?)ニューヨークへ一緒に行った、彼が、私を見送りに・・・・。 彼は、素直に私の前でも涙を見せる人だった。もちろん、若かったから・・・でも、彼は、涙だけではなく、心根も、ほんとうに素直な人だった。 プライドというものを、もってはいるが、それをバリアにしない人というのだろうか、プライドがあっても、見栄を張らない・・・。 大事なものに、気がついたときは、もう、別れの時間が近かった・・・。 *彼の手紙には、concentida と書かれていたけど、consentida ではないのかな?と思うのだが・・・。ま、どっちでもいい、意味は、”甘やかされている(子供)”というものらしい、、。 2005/5/6 月のない夜・未来のない恋 ⑦ △△年5月 ◎変な気分: ●思い切り、ひとりになれる時間。 ●昔の恋人と友人になる時間。 ●時差に体がついていかない時。
今は、それも 叶わない 時が 二人を 隔てている 広い天を 仰ぎ 見上げて あなたが この世界の どこかに 同じ星空をみつめて 昔 思うでしょうか あなたの 胸に 飛び込んで ゆきたかった だけど 微笑 交わすだけが 精一杯の 今の 二人 つらい あなたの気持ちを 救うのは 私じゃなくて いつか また 会える日が来ると 信じて 見送るだけの わたし See you again いつか また See you again この世に 生きていれば 会えることもある ☆ ★ ☆
それらのことばが、決して偽りではなく、その時の彼の、心からの表現だったのだと、私には解かる。今だから解かる。 たとえば、、
1月17日 ドミトリーを移ったよ。ああ、SITが懐かしいよ。もちろん、ここでも人々は親切だし、手伝ってもくれる。でも、どこか違うんだ。 一緒にダウンタウンに行ったり、 the other side に行ったりする感じじゃない。 ボクがここに着いたばかりだから、というわけじゃない。 ただ、違うんだ。 ここには少なくとも5月まではいることになるだろう、その後は、わからない、、これから次第だ。 Love, Oscar 1月18日 ボクは、独りだ。 まだ友達はいない、というか、気分が沈んでいる。部屋は、良くなった。気に入っている。ルームメイトはいない。今日は、本を買い込んだ。今、取っているコースに加えて、 Humanities も取ろうか考えている。 I miss you, but ...だめだよ (Damedayo...)金曜日には会えるね。君は大丈夫か? 金曜に会おう、待ってる。 Love, Oscar + ボクたちは、100マイルも離れ離れになるかもしれない。でも、いつもボクは君を思い出し、君はいつもボクの心の中に居る。 愛をこめて。 Oscar 月のない夜は悲しい、だけど、未来のない恋は虚しい、、、。そう言った彼の切なさを解かってあげられなかった私は、「もっとやさしくすればよかった.・・・」と、バス停から空港まで、ずっと泣いていた。だから私はフロリダへ飛んだのだ。自分の立場がなんであろうと、周りがどんな風に私の行動をとらえようと、そういうものは、二の次なのだと、、、。私が何を求め何を感じているのか、あの時は、自分の気持ちにしたがうことしか私には考えられなかった。 信じていた、、と思い込んでいたものが、自分にとって大きければ大きいほど、それが崩れた時の失望は、さらに深い。その時は、相手の心の痛みを思いやる余裕など、ない。なぜ、どうして?と問うばかりだ。 そして、さらなる時を経た現在、彼の出会ってからの全ての言葉も、手紙の一句一句も、けっしてウソではなかったこと、私が去らなくてはならなかった時の彼の心の痛みがどれだけ深いものだったのか、あの頃の私たちの関係は(今から思えば子供っぽいとも思えることも。)若かったけれど、他に損得のない互いだけを見ていたものだったということ、だから、彼が”心変わり”をしたとしても、決して責められるものではない、ということが、よく解かるのだ。 私たちが共に過ごしたキャンパスに、私たちの歌がある。 2月XX日の手紙の後に、彼がくれた手紙に、『みんなでボクたちの歌をうたったよ、何も変わりはしない、ただ、君の姿だけがない・・・』と書かれていた・・・。あのつらさを思う時、私は彼の気持ちに応えられなかった自分がやりきれない。 【FRIENDS My friends, I will remember you, think of you, and pray for you, And when another day is through, I'll still be friends with you. 】 2005/4/26 月のない夜、未来のない恋⑥ あの頃は、若かった。確かに今よりも・・・。その分、損得勘定もなかった。 私が、めずらしく風邪をひいて、RAに「寝ていなさい」と、授業に出ることさえも止められたほどの熱を出して、ドミトリーの部屋で寝込んでいた日、彼 Oscar は、私を放っておいて、ダウンタウンへ買い物に行った。「うっそ~、放課後になったら、見舞いに来てくれると思ったのに~」と内心がっかり・・・。 そして、ダウンタウンから戻ってきた彼は、バラの花を一輪、クリスタルの小さな花瓶にいれて、持ってきた。 クラスメイトであり、ドミトリーも一緒だったYさんによると、彼はダウンタウンでその花瓶を買ってきたのだとか・・・。ありがとう。 [the other side]という名前のバーが、キャンパスの片隅にあって、夜になると、みんなビールを飲みに行ったりした。飲むだけではなく、情報交換とか、ダンスとか、ピンボールやダーツのゲームとか、何でもありの社交場だ。 なんで、そんな名前なの?と聞くと、 そこのトイレの電気のスィッチを、ほとんどの学生がまちがえるのだと言う、それで、「where is it?」と学生(客)が聞くたびに、カウンターで働いている人(といっても学生アルバイト)が 「the other side 」と答えるために、そのバーの名前自体が そうなったのだそうだ。 その the other side で、oscar は、よくディスコ&ラテン音楽にあわせて踊っていた。私はとってもシャイな日本人(?)だったため、踊ろうなんて誘われても、フロアに出て行く勇気がなかった。彼と出会う前のセメスターのパーティで、実は、踊ったことはあった。楽しかった。が、私は、”誰か”とパートナーを組んで踊ったことはなかったし、ひとりで踊るにしても、人が見ているようなフロアでは、恥ずかしかった。それで、いつもためらっていた。 同じドミトリーに、イタリアから来ていたキャラという女の子がいた。女の子といっても、同年代だ。お父さんが、大臣だ、といううわさがあったのだが、気品みたいなものもある彼女は、とてもキレイで、キャンディキャンディよりも長めの濃い栗毛の巻き髪を優雅に肩まで垂らして、クールで、タバコをくゆらせ、ツンとすましていても、お高くとまった風ではなく、男子学生からも人気があった。「アメリカ人は、私の名前をチャラって発音するけど、あなたは、ちゃんとキャラって言ってくれるから、好きだわ、」と言われた時は、そんなものか~と思った。私はイタリアのアリアを何曲か歌ったことがあったから・・・。 ある夜、そのキャラと、彼が踊っているのを私は、カウンターに座りながら見ていた。 私も彼女のように踊れたらよかったのに、、と思いながら。 *ウワサによると、キャラは、スイス人のヴァレンティンと付き合っていたらしい、が、ヴァレンティンは踊るというタイプではなかったなあ。。。 彼とヴァレンティンは一番、仲がよく、彼らは、その後も付き合いを続けていたようだ。 また、私も彼もヴァレンティンにはお世話になった。 12月9日、私がキャンパスを出てカナダに発つ日。 前の晩のパーティから夜通し、ほとんど寝ずにパッキングをし、彼と一緒に過ごしていたが、それでも別れはつらい。 キャレッジ・ハウス脇から、車で出る私を友達が見送りに集まってきていた。私はそこから、ふもとのバス停まで送ってもらい、そこからはバスでオルバニーへ、そこから飛行機だった。別れというのは、不思議で、たくさん言いたいことがあるはずなのに、肝心な言葉は、何も出てこない。また会えるのか、どうかさえも、確約できていないのに、それでも何も言えないし聞けない。人が見ているから、恥ずかしくて、抱き合って泣くこともできない・・・。(なんてシャイだったんだろう、昔は~)キャンパス内で、彼が手をつなごうとしても、初めは恥ずかしかったくらいなのだから・・・。何がどうなったのか、覚えていないが、ついに私は彼に向かって叫んだ、 私たちは、トロント(カナダ)とフロリダ、と別れてはいたが、彼はほとんど二日とあけず手紙をくれ、私も書いた。電話もした。いつの間にか、私は会いたいあまりに、彼の誘いに乗ってフロリダへ行くと決心した。経済的にゆとりのなかった私を気遣って(?)、フロリダへは私がチケットを買ったが(冬はカナダからフロリダへは格安がたくさん出ている)、フロリダからVTへ戻る航空券は、彼が出してくれることになった。(彼のお父さんに、なんとか、頼み込んだらしい。。。) とにかく、一緒に居ることが出来るということが、全てだったのだ。 だから、その後の2~3ヶ月、いろいろあったが、 あれから10年以上たっていたのに、数年前に、私がダンスを習い始めたのは、そのキャラと彼が踊っていたのを見てた時の、後悔から来ていたように思う。 下手でも踊ればよかったなあ、、、と。で、もし、ルンバでもチャチャでも、何か踊れたら、ラテンの音楽に馴染みがあったら、もし、彼と再会した時に、踊れるのに、、、と再会する予定など何もないけれど、密かにそんなことを考えた。で、結局は、サルサにはまってしまった。が、彼と再会することは、おそらく、ないだろう。でも、そのダンスをするきっかけを与えてくれた彼には感謝している。 もちろん、、、会えたら、会いたいものだ、ランバもチャチャも、ワルツもスィングも、今度は一緒に踊りたい。 2005/2/13 月のない夜、未来のない恋⑤明日は、ヴァレンタイン・ディだ。 その昔、米国に行った時、初めて”バレンタインデー”というものが、「男性から女性への告白の日」という意味だけのものじゃない、ということを知った。チョコレートだけ、でもないということも知った。 2月、私たちはオハイオ州にいた。oscar は、風邪を引いていた私に可愛いハート型の、虹色全てが揃ったメモパッドを、トップの一枚にメッセージを書いて、プレゼントしてくれた。恋人同士だけではなく、家族間、親しい友人間などで、普段の感謝の気持ちを込めたりして、チョコレートに限らず、贈り物をする。そのための、いろんなパターンのカードも売られていた。遠く離れている人へのもの、おばあちゃんへのもの、妻へ、夫へ、同僚へ。 私が風邪を引いたその時、原因は何であったか忘れてしまったが、私たちはケンカをしていた。といっても、ちょっとすねてみる程度のものだったのだが、体調が悪い時は精神的にもそういうのが、かなり応えるものだ。なかなかドミトリーの部屋に見舞いに来てくれないので、気まずいなあと弱気になっていた所へ彼がそのメモパッドを持ってやって来た。そこにあったメッセージには、 私がどんなチョコレートを彼に渡したのか、忘れてしまった。が、メモパッドはまだ、実家の私の机の中にある。 追伸: ヴァレンタイン・ディからさかのぼること一ヶ月。フロリダの彼の両親の別荘に滞在していた時、彼のお母さんが、小さな壁掛けを私に買ってくれた。残念ながら、私はスペイン語が話せなかったので、彼のお父さんとはほとんど意思疎通が図れなかった。お母さんは、英語が少し出来たので、簡単な会話だけ、なりたった。ショッピングセンターにみんなで出かけた時、お母さんは、爪のお手入れにも行った。私はお金を払って、爪の手入れをする女性というものをそれまで見たことがなかったので、驚いた。彼の家には使用人が何人も、用途別に雇われていると聞いてはいたが、ほんとに”奥様”なんだなあ、と思ったものだった。別荘にいた間は、使用人はいなかったので、今思えば、食事の用意はお母さんがしてくれていたはずなのだが、何を食べていたのか、思い出せない。ただ、プラタノ、という青いバナナを使ったものが、何かとても美味しかったことだけ覚えている。彼のお父さんは、人種的には学校で習うところのメスチソで、お母さんは白人系だった。綺麗な人だった。そのお母さんが、小さいPlaque を私にくれた。虹がかかった緑と花をバックにしたユニコーンの絵柄で、そこには「Discover the magic within yourself.」というメッセージ。 このメッセージは、私が彼女の義理の娘にならなかった今も私のそばにある。ありがとう。
2005/2/11 月のない夜、未来のない恋 ④「ロミオ、ロミオ、あなたはなぜロミオなの?」で、ロミオは、月に愛を誓うと、「夜毎に姿を変える月は不吉だ」というセリフが後に続く。 でも、oscar も、「月のない夜は、虚しい、しかし、未来のない恋は、もっと悲しい、」と気持ちを月に例えた。スペイン語で書かれたこのメッセージを私が理解するのは、10年も後のことだった。 私が彼の姿を初めて見た時、それはサマーコースのためのフェアウェルパーティーの席だった。キャレッジ・ハウスのディナーの席で、たまたま私が座った斜め向かいに彼は座っていた。が、私の正面にいたホンドュラスから来ていたルイスがよくおしゃべりをするのに比べ、彼は、終始うつむき加減だった。その後、ラ・ティ円だで行われた催し物を見ていた時、私は彼の後姿をみていた。顔見知りが教えてくれた、「友だちとか、ガールフレンドとかがいなくなってしまうから、落ち込んでいるんだよ。」と。翌朝から、いろんな人がキャンパスを後にしたが、私は9月からの学期のために到着したばかりで、彼は、引き続き滞在する人たちの1人だった。私が6月にここを訪れた時、知り合ったキャロラインとクリスティーナも2、3日後にはキャンパスから発つことになっていて、私の滞在していた部屋の隣がキャロラインの部屋だったのだが、oscar は、彼女の荷造りを手伝いに来ていた。そして私たちは顔見知りになって話を始めた。 クリスティーナたちがキャンパスを発って、間もないある日、彼が、今度は私の部屋の片づけを手伝ってくれていた時、私は彼のネックレスに目を留めた。そして彼に私のブレスレットを見せた。まったく同じ色づかいの、同じ貝の素材で作られたものだったのだ。彼が、どこでそのネックレスを手に入れたのかは、聞かなかったし、私がそのブレスレットをどこで買ったのかも、今は忘れてしまった。が、こんな偶然があるんだねえ、と感じ入ったものだ。紫がかったネックレスとブレスレット。どこで、どう交わるものか、世の中、狭いものだ。その後、私たちは、日を追うごとに親しくなり、歳に似合わず、子猫と子犬がじゃれているようだ、と周りの米国人学生にからかわれるほど、一緒に過ごすようになった。 彼はこうも言っていた、「life is beautiful!」短い間だったかもしれないが、ほんとうに私にとっては、beautiful days! だった。
2005/2/8 月のない夜、未来のない恋③ arroz con carne今朝、NHK「スペイン語講座」で キューバ料理として【arroz con pollo】というのが出ていた。そしてふと思い出した。そういえば、昔は、よく arroz con carne を作ったなあって。 当時、勤めていた旅行会社の上司夫人が、スペインへフラメンコ留学をしたことがあり、ご当地料理を二品ほど教わった。それで、メーン州の大学に行っていた oscar を訪ねて行った時、何度か食事を作った時に、その二品もしっかり作った。 「ご米と肉」というその料理は、材料さえあれば、けっこう手軽に出来る。もう一品の、tortilla (ジャガイモを入れた、スペイン風オムレツと言われているヤツ)も作った。 男子学生3人で住んでいた彼らは、食事作りの当番とか、特には決めていなかったみたいだが、一週間余り、無料で泊めてもらっている身としては、食事くらい作らないと申し訳ない。何をしてその一週間を過ごしたのか、今はもう、途切れ途切れの記憶しかない。映画にいって、港にいって、彼らの大学に行って、公園に行って、彼の昔の彼女のフラットに行って、隣の建物にあるランドリールームで洗濯をして、そこに荷物を置かせてもらって、オハイオとノースカロライナの友人を訪ねて戻って、、、。 彼がどんな生活をしているかを見るだけで、もう”彼氏・彼女”じゃないけれど、楽しかった。そういう関係じゃなくても、一緒に居られる事が嬉しかったりもした。私が早朝、そこを発つその日から、彼らは試験が始まることもあり、 oscar は、空港まで見送ってくれなかったが、(到着した時は、空港へ来てくれた。)部屋のベッドの中で、「 I will miss your food.」と彼は言っていた。 私たちの未来は、ほんとに、何処へ行ったんだろう。考えてみたら、私がそのスペインご当地料理を習いたいと思ったのは、彼に会いに行くことを、前提にしていたのだろうから、そのかいがあったということだ。それでいいじゃないか、と今は思う。
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