| ジャカランダ 的个人资料Jacaranda通信照片日志列表 | 帮助 |
|
|
2009/8/13 ISG 初参加ウェリントンに来て、初めて ISG に参加した。
今日は、いつもより 参加者多く、36名?くらいだったらしい。
名前が、アルファベットのNより前の人は、セイボリー、 Nから後の人は、デザート系のものを一品持ち寄っての
フェアウェルランチョン。
※ savoury
私は、デザート系に入るので、あずき入り抹茶のパウンドケーキにした。
ニュージーランド人の人が、一人参加していて、彼女は、パヴロワ(パヴロバ)にクリームとフルーツをたっぷりのせたものを
提供していて、とても美味しかった。
それにしても、やっぱり こういう 集まりをするためには、車を止める場所、、、ターンできるようなスペース、が、家の前に
あることは重要だなあ~。
家の中の、ダイニング、リビングやサロンの広さも、もっと重要だなあ・・・。
うちは、仮に、10人くらい 呼べるとしても、車が、、、、。
車を止めてもらうスペースが、三台くらいしか確保できない・・・。 あとは、坂のふもとから歩いて登ってきて~となりそう・・・・。
そりゃ、あんまりだわ・・・ この急な坂、誰も 登りたくはないよね~。
2008/10/8 世界の警察今朝は、ノーベル物理学賞を日本人三名が受賞~!のニュースがトップを切ったが、 連日のように、
「アメリカに端を発した 世界の金融危機~」 というような、“アメリカで始まった~” という枕詞がつく 景気不安のニュースが続いていた。
~~~ 今も、テレビにトップで流れないとしても、影響が続いるのは、明らかだろう・・・ ~~~
で、この類のニュース紹介を聞くたびに 思うのだ・・・
アメリカは、「世界の警察」を自称自認していたけれど、今の世界情勢じゃあ、、、 警察どころか、積み木崩しだなあ~って・・・。
いや、
違うかも、、 積み木崩しっていうのは、積み木を崩す子供を育てた “親”がいたのであって、今回のアメリカの場合は、崩す子供を育てたのも、
実は、自らのアメリカ的モノの考え方・・・、価値観~経済・資本主義、民主主義、物質の豊かさを追求する、競争社会~ ではなかったか?!
とすれば、世界の、、、積み木崩しを自作自演でいっている~ということか?!
しかも、崩された土壌に乗っかっていた 世界各国は大変だ~。
自作自演のはずが、いつのまにか 大道具・小道具その他諸々、みんなで舞台を作り、そこに上がっていたわけだ・・・。
まあ、でも、 世界の警察、、、という 呼び方に 似あっていないことだけは、確かだろうなあ。
では、
世界の警察 転じて、 世界の“駄々っ子” っていうのは、どうだろう?!
駄々っ子が泣くと、親は振り回される・・・。
放っておくと どうなるかわからないので、必死にご機嫌をとろうとする・・・。
なだめすかして、泣きやませようと必死になる。
子供が自暴自棄になって “立ち上がれなく”なったら、大変だからだ。
せめて、自分の足で歩いてもらわなくては、親は、大きな駄々っ子を 抱っこして 歩き続けるわけにはいかない・・・。
わがままで どうしようもない 子・・・。
だけど、放っておけない。。。
機嫌よく、遊んでいる時は、賢くも見え、明るく、元気いっぱいの希望に満ちた “フロンティア”精神旺盛な、“優等生”で、
多少は、傲慢な いばりんぼのところがあるとはいえ、隣近所の 他の子の面倒もちゃんと見るような優しい子だったはずなのに~。
どこで 何を どう間違ったのか、、、 駄々をこね始めてしまった。。。
もっと 厳しく しつけるところは 躾けなくてはならなかったのではないか?!
親の中には、そんな気持ちも ふつふつとわきあがる。。。
でも、とりあえず、今は、泣きやませないことには、、、先に進めない。
この子を置いて行くわけにはいかない・・・。
今の、世界は、そんなところだろう~。
世界の警察 転じて、 世界の駄々っ子・・・
その陰には、、、 世界の警察が、もっと 異文化(宗教)に理解のある、心豊かな、隣人を公平に愛する警察だったら、世の中も少しは違っていただろうという反省点も
あるように思われる。 自分のいいなりにばかり 世界を(親を)動かそうとせず、 親の立場を理解しようと・・・・(まあ、子供を育て・躾けるのは親の役目だが。)
いう目線の持てる警察であったなら、、、 もう少しは丸い世界になっていたかもしれない・・・。
駄々っ子を育ててしまった 親(世界)も、子供・警察のいいなりになるばかりが 良い世界なのではないと、ようやく気付き始めただろう、と思いたい・・・。
2008/10/2 家族って・・・・。みんな 二言目には、
家族が大事、とか、家族の絆の大切さ、とか、口にするくせに、、、 その家族が一緒にいることを はばもうとする~むずかしくする~、別々にいてもあたりまえのような風潮 が 大手を振ってまかり通っている。
そりゃ、子供は成長して いつかは、親元を離れていく・・・。
夫婦だって、四六時中一緒というわけにはいかない。 仕事次第では、(仕事=家族を養うためなら、なおさらのこと)、 離れている時間が長いこともある。 兄弟だって、大人になれば、それぞれの生活・家庭を持ち、 顔を合わせることが、少なくなることだってある。 家族と言っても、(前にも書いたが、)血のつながりのみのことを言うわけではない。 生みの親も、育ての親も、養子縁組であろうと、内縁であろうと、どんな形をしていようとも、、、家族だと思えば、それが家族だ。 そう、それと同時に、
家族だから、ぜったい、ずっと 一緒にいなくてはならない、というわけでもないし、家族であっても、別々に暮らすことは、今に始まったことではない。上にも書いた通り、一緒にいられることもあれば、そうでないことも大いにあり得るわけだ。 私だって、大方の親戚の予想(期待?)をよそに、家を継がずに(男兄弟がいなかったから婿をとって実家に残るというのが、昔ながらの考え方でしょう…ふつうは。)実家を離れて、暮らしている。
妹だって、別の苗字になったし、父は、15代続いた我が家も、自分の代で“この家”は終わりだと思っているようだ。 それはそれでいい。 私は、私なりに、先祖の供養もしていくつもりだし、親や家を忘れているわけでもないし・・・。 両親は、年老いてきて、娘たちが傍にいないことを多少、(以前に比べて)さびしいと感じることが増えてきたようだが、仮に、私や妹が実家近くに住んでいるとしても、それが“良い”とも限らないことを知っている。 そう、一緒にいたはずの“家族”の面々が、いつのまにか別々に暮らすようになることは、家族にとって、ある意味、自然な流れともいえる。 でも、だからこそ、みんな、家族が一緒にいられる“その時間”を大事にするんだと思う。
子供が巣立つ前は、なおさら、、、子供が幼ければ幼いほど、安心感の持てる家庭が、その生活・人生が保護される場所であり、生きていくための糧を得る精神の基礎となるはずだ。 それが、各々、生きていく上で、かけがえのない大切な“人間関係”を育む場であり、愛を慈しみ覚える場所だと思うから・・・。
しかし、、、現代社会を見渡すと、、、
“仕事”という(各自、さまざまな) 理由で、家に帰らない大人とか、 ( 家に、帰りたくない、・・・とか、) 学校から帰り、さらに夕方は、塾に通い、親と会話をする時間もない子供とか、とかく家庭内での会話、顔を合わせる時間などが、どんどん減る~減っても当たり前のような 状況があちらこちらに 伺える。 それどころか、親の転勤の際に、「子供の人生は、親ものじゃない」という子供(小学生)が増えているという・・・。 特に女の子は、きついらしい。(父親に冷たいことを言う。) これには驚きだ。 そりゃ、子供の人生は、親ものではない。 確かにそうだ。 けれど、、、 そういうセリフを親に向かって口にする子供って、いったい、どのような親子関係で 育てられてきたのだろう?!と 疑問に思うのだ。 そして、それを「しょうがない」として、単身赴任になるケースが少なくないとも聞く。 もちろん、赴任先の事情で、家族を同行できない、というのなら仕方がない。または、このご時世、学年が上がれば上がるほど転校すると不利になる(受験等)とか、“子供がおかれる状態”を考えて、子供が転校せずにすむように計らう家族もいるだろう。 しかし、“家族は、できれば一緒にいて、支え合う、助け合うもの” (仮に離れ離れで遠くにいても、精神的に助け合うことはできるが・・)と考える私としては、 「お父さんの仕事の勝手な都合で私がなんで転校しなくちゃならないの?」などという子供の、、、その神経がわからない・・・。 “転校したくないけど、お父さんと一緒にみんなで暮らそう”とは、思えないのだろうか・・・。 どうせ、、、いつか、親元を離れていくのだから、それまでの間…一緒にいる時間を大事にしたい、、、それは、そんなに不思議な考えだろうか?! とはいえ、家族の思惑だけではなく、社会の~景気など~状況変化により、稼ぎ手の移動に同行しづらいような事情もどんどん増えている。
それもこれも、“お金がかかるから” というような理由が多いのだが、利益のために、または、金銭の節約のために、目に見えない大事なものをどれほど失ってきたか、、、それでも、まだ足りないというのだろうか?! たとえば、親が、、、多少の苦労をしても、子供には豊かな暮らしをさせたいとか、お金に困らせるようなことはさせたくない、、、と考えるのは、ある程度、愛情の表現だろう。また、愛する者を喜ばせたいとか、楽しませたい、という思いやりの現れだろう。
だから、この貨幣経済の世の中、なにかにつけお金がかかることは、必至であり、それゆえ だれもが 一生懸命、(単身赴任であれ、夜遅くの帰宅であれ、)働いて、少しでも多く稼ごうとするのだろう。 ただ、、、お金が大事、、、お金が必要、、、これは、解っているとしても、そのお金を大事にするあまり、家族が一緒にいる時間や場所を得にくくしている構造が今の社会にある。
無駄遣いはいけない。
しかし、合理化、節約、利益・・・そのために、家族が、一緒にすごしづらいとしたら、それは、悲しいことだと思う。 それは、家族の絆が大事だといいながら、家族が一緒にいることが一番だといいながら、社会では本末転倒のシステムのまま、動いているということに他ならない。 それでは、家族の崩壊は、内からというより外から、“家族が大事”と口々に叫ぶ人々が属している社会(家庭の集まり)からの圧力によって、本来なら家族仲良く暮らせる社会を守るはずのその“社会”的風潮価値観が、基礎となる“家族”円満な家庭のあり様を壊そうとしているといえるのではないだろうか。 いろんなところで いろんなものが つながっている・・・。
「アメリカがくしゃみをするとイギリスが風邪をひく」
(英国ではなく、日本とも、言える…?!)、 同じように、全然関係ないと思っているような社会現象が、まわりまわって、家族という単位、その絆、人のつながりの基礎になるものを、むしばんでいる~~~~。ウィルスは、どこにいるのか?! 結局は、お金、経済第一、、、と考える 物質社会を頼りにしている私たちの考え・・・がウィルスを増殖させているのかもしれない・・・。 豊かな暮らし、、、それは、お金だけに・・経済だけに 裏打ちされたものだろうか?!
いや、違う。 悲しいかな、、、お金がないと、辛い。確かに、困る。 でも、豊かさをそれだけに拘るような暮らし方には、かりたくない。 そう思いながら、暮らしにくくなった世の中だ、と感じている今日この頃。。。 時々、思う・・・ あ~ お金がもっとあったらいいのになあ~。
でも、思う・・・
いやいや、それは、いつか消えるもの・・・。 それに、今、あるもので満足することを覚えなくては、、、、きりがないではないか・・・。 愛は、自ら(愛そのものから) 愛を生み出す。
お金は、、、数字の上では、お金を生み出すかもしれないが、 “お金”自身は、お金を生み出さない・・・。 できれば 愛とか、情とか、友達とか、リンゴとか、self-sustainable で、self-productive(produced) なものを 大事にしたい。 家族も、、、そうなのかもしれない、そう思う。 それに、今、問題となっている世界的に流行しているアメリカ発の大風邪、、、。 これは、倒れても当たり前なのだ。 根っこは小さくて、木ばかり成長した、、、そんな“お金重視”の代物ものなのだ・・・。枝をはり、葉を茂らせ、実をつけさせた。 しかし、根っこは?! 根を張る土壌のない、、、ビジネスなのだ。 基礎が揺らいでいては、~もともと根っこなどない~ 倒れて当然だ。 (価値を計るためだった貨幣が、その価値の対象物となり、その対象物だけを相手に、みんな商売をし儲けようとしていたってことだろう!?。) しかし、その揺らいだ根っこから倒れた巨木のおかげで、、、 しかも、その巨木が実らせた果実は、、いったいなんだというのだろう?!・・・お金がお金を生み出すわけがないのに・・・。 種をまいて、、、土があり、水があり、陽の光があって、作物が実るのだ。 それにしても、お金の心配のない、 ふつうに 豊かな国、 (不可能じゃないと思うけど、、) いつか そう ならないのかなあ~~~~。
2007/7/2 映画「ブリッジ」 The Bridge [ 「自殺を『語ることのできる死』へ」をテーマに、自殺対策について考える官民合同のシンポジウムが1日、東京都内で開かれた。
借金苦で父親を亡くした女子大学生が自分の体験を涙ながらに語り、自殺をタブー視せず、社会全体で考える必要性を訴えた。
NPO法人「ライフリンク」(東京都)などで作る「自死遺族支援全国キャラバン実行委員会」と内閣府が共催し、約600人が参加した。 ]
こういう会↑が、今日、あったとは知りませんでしたが、
本日、「The Bridge」(ブリッジ)を見てきました。 http://the-bridge-movie.com/ ニュースで、このシンポジウムの様子を少しだけ見ましたが、 自殺で父親を亡くしたという少女が語っていたように、 「他人事ではない」ということを私も、伝えたいと思っています。 私なりのアクションは起こしていますが、まだ、広がってはいないのが現実です・・・。 世の中には、「自殺しそうなタイプ」というのは、ないのです。 老いも若きも、男も女も、アメリカ人も日本人も、お金持ちの人も貧しい人も、昔の人も今の人も、学者もスポーツマンも、学歴の高い人も そうでない人も、仕事のある人もない人も、名声のある人もない人も、、、、誰にでも、起こりうることなのです。 なんと多くの人が「自殺」をしていることか、つまり「自殺者の遺族」として心痛を抱えている人がどれほど多いということか、その意外なほどの多人数という現実もそうですが、「自殺者にはタイプがない」そういう意味でも、他人事ではないと私は思うのです。 映画を見て、改めて思ったことがあります。 この映画に対してでさえ賛否両論あるようですが、 いずれにしても、関心を持つことが まずは、大事なのでは?---それが初めの一歩なのでは?、ということです。 今日の映画「ブリッジ」は、米国のもので、大きく見たら、自殺の原因(傾向)は、多少、異なるかもしれませんが、遺族として・・・家族や友人を亡くして、ショックであり、悲しいのは、誰にとっても同じです。 宗教観・社会風潮などで、自殺者に対する気持も、米国と日本とでは多少の違いもあるかもしれませんが、それでも、「人が自ら命を絶つ」という選択をすることが増えているということは、似ています・共通の、現代の問題といえるでしょう。 もう一つ、この映画を見て、再確認(確信?)したことがあります。 それは、自殺をする人(おそらく9割がた)は、「死にたくて死ぬのではない」ということです。 ヘンな言い方ですが、彼らは、生きたいのです。死にたくて死ぬのではなく、生きたい・・・けれど、死だけが、選択肢であるかのように思ってしまう・・・生きたいのに死んでしまうのです。 「生きたいのなら、死なずに、生きればいいじゃないか!」と言う人々も、いるかもしれません。 が、逝った彼らは、それが、できるのなら、自殺しないでしょう。 「生きたいのなら、生きればいい、死ぬことなんてない。死ぬことは逃げだ、~云々~」 周囲の人が、こんな↑風に思っている限り、自殺者は、減らない、と私は思います。 それが、ある意味、社会における自殺予防のキーなのではないかと私は思います。 まずは、「死にたいやつは、死ねばいい、」そういうふうに捉えず、いや、それでもいいから、”関心”を持つこと、、、 なぜ、人は自殺をするのか、選ぶのか、、、考えようとすること、自殺者の&遺族の気持ちを想像してみようとすること、、、他人事ではないのだ、と知ること、それが大切だと思いました。 2007/6/13 効果音テレビドラマや 映画で、画面、場面の向こうに流れる 音楽などの 効果音・・・
これって、かなりの影響があるなあ~と 今更ながらに 感じている。
なぜか・・・
それは、あまりに そぐわない 音楽や 音を 聴く場面が あったから・・・・。
合っているものを 受け入れるのは、自然に 入ってくるので 考えもしない・・・
ただ、いいな~ と思うだけなのだが、
一方で、 大げさだったり、 合っていないな~と 感じたりすることが多いと、
ついつい、
その音が気になって仕方がないので、 音の使い方、音楽の選び方、大事だなあ~と思った次第。
2007/4/11 「さくら」再放送・日本人再考NHKーBS2 で、この4月から 連ドラ「さくら」の再放送が始まった。 (午前7:45~)
今、ハワイから日本にやってきた日系人の主人公”さくら”が、赴任先の高山の中学校で”英語のアシスタント教師”という
生活が始まったところで、今日は、職員室の一こまが出てきた。
日本の英語教育(受験英語)や ヒエラルキーのような人間関係、そういうものに疑問感じ、矛盾点を見つけ、
学校の英語教師とは、ウマも合わないし、それどころか、自分は受け入れられていないような気がする・・・と
ちょっと 弱気になっていた彼女だが、ハワイの家族からの email + 添付写真で 元気を取り戻しつつあるところだ。
国籍はアメリカ、でも、流れている血とか、姿や見た目は ”日本人”ということで、 いったい自分は何者なのか?!という
”自分探し”も、テーマの一つであるようだ。
ハワイでは、「私はアメリカ人だけど、流れている血は日本人だ、」(国籍は米国だけど)といって憚らない さくら・・・。
日本の伝統文化などを大事にしたいといって、家庭内では、日本語を話している。侍映画などが大好きだ。
ところが、
日本にやってくるや否や、電車の中で、飛び出す言葉は、”英語” = 感情的になるととっさにでてくるのが英語だ。
見かけが日本人なので、電車の周りの人にヘンな顔をされ、「おまえ、日本人だろ?日本語 話せ!」といわれ、
「私はアメリカ人だもん。」という・・・。
今日の、職員室のシーン、 = 自分の立場に疑問があること、なぜココに呼ばれたのか、どうしたらいいのか?を
校長に話しに行ったところ、その後、教頭に、「困るよ。。。 私を飛び越えてもらっては・・・。校長のところへ行く前に、
私=教頭のところに来てもらわないと・・・・。」 と言われ、途惑う・・・・。 「解かるよね?」といわれても、首を傾げる さくら。
すると、次に教務主任に、呼ばれ、「教頭の前に、私・・・・。そうじゃないと、私の管理能力が問われるんだよ。。。」と言われ、
ますます 解からないさくら。
ナレーターである”亡きおじいちゃん”=ハワイ日系二世、が、「日本のこういったことは、解からないだろうなあ~、苦労するだろうな~」という感じで
コメントをするのだけれど、 彼にいわせると、「面目が立つ」「面目がつぶれる」と言うヤツだそうだけれど・・・・、
それを聞いて、そういえば、あったなあ~・・・・と思い出した。
日本では、面目をつぶさないために、面目を立たせるために、いろいろ”根回し”などが必要だったりする。。。
私は、日本のそういう社会・柵が 苦手なのだけれど、意外なことに、気持ちとして苦手(=好きじゃない)なわりに、根回しは得意だ、ということが
自分の経験からわかっている。
根回しというのは、面目だけに 必要なものではないとは、思うのだが、 根回しをする理由の一つは、それぞれの 立場とか、面子・面目を
つぶさないためだったりするのだろう。
さくら を見ていると、うちの娘の ことが よく解かる・・・、というか、娘や私達の経験を通して、 さくら の戸惑いや疑問が よく解かる・・・。
ヨルダンにいたときに、この「さくら」を見たのだが、あの当時は、ようやく真正面から日本の英語教育に疑問をぶつけるドラマが 始まった!と
喜んでみていた・・・・ ストーリーも明るめで、現代劇ではあるけれど、高山の和蝋燭作りなど 日本のふだんはみれない伝統なども紹介され、
(その上、さくらの母の実家は、東京 江戸川の金魚屋)興味深かった。
が、今、帰国して すでに三年以上経ったが、日本に帰ってきて、 自らが体感した 疑問・矛盾・へんだなあ~という出来事などを 踏まえて
見るせいか、余計に 頷ける部分が多い。
それに、我が家の娘も、感情的になると、出てくる第一言語は、 英語 だ。
日本語を不自由なく 話たり聞いたりするし、自分のストーリーを日本語で書いたり、テレビの日本語の字幕も ちゃんと読めるくらい文字を追うスピードもあるのだけど・・・。というわけで、さくらを見ていると 娘が この三年間に 出会ってきた ジレンマと ダブルのだ・・・。
日本の英語教育うんぬんだけではなく、 よそからみたら、フシギな日本人の ”人間関係”といやつだ。 今日の、”職員室”みたいな・・・。
さくら が ハワイを出てくる前に、さくらの 父と 会話を交わした場面がある。
そこでは、空に大きな虹が ダブルにかかっていて、日本人なのか・? アメリカ人なのか? と 二つの祖国のハザマで右往左往するさくらを
象徴的に現しているようだった。 ダブルの虹ではあるけれど、虹というのは、アッチの端とコッチの端をつなぐ”架け橋”でもある。
私は、生まれも育ちも国籍も、親の国籍も、見た目も日本人であるけれど、だからといって、それが「日本人」の定義だとは思わない。
そもそも、、、、日本人 っていうのは、なんなのか?! と思う。
むしろ、アメリカ人とかの方が、解かりやすい・・というは、ネイティブ・アメリカン以外の、 移民してきたアメリカ人にしてみれば、新大陸の
”あの国”にやってきて そこを生き場所として 住んでいる人たちが、”アメリカ人”なわけだ。 ルーツが 北欧であろうと、南欧であろうと、ユダヤであろうと、
アフリカ系であろうと、アラブ系であろうと、あそこに住む、自分は、”アメリカ人です”という自覚のもと、アメリカ国籍を持っている人たちのことを
アメリカ人というのだろう・・・・。 だから、さくらも さくらの家族&先祖=一世~3世も、アメリカ人なのだ。
しかし、日本人というのは? その血が流れているから・・・・とはいえ、じゃあ、そもそも その血というのは、どこからきたのか?・・・・
モンゴルか?大陸中国か? いや、それだけではない、ず~っと ず~っと その昔は、南洋方面から だったり、大陸の北の方から
渡ってきたりした人々が 混ざり合ったものではないのか?! ・・・ そう思うと、日本人の血というのも、へんな考え方だなあ、と思うのだ。
私の娘は、 血の 論理でいえば、日本人だ。 両親とも 日本人の血を 引いているし、国籍も まちがいなく 日本だ。
生まれたのは、豪州シドニー。 けれど、豪州国籍は持っていない。
しかし、育ったのは、今のところ、彼女の人生の半分以上が、 日本以外の国である。
彼女の両親が彼女に与えた環境や育て方によって、 彼女は、「日本人」っぽくない 性格・気質というか、考え方を持ち、
帰国してからは、日本のあれこれに さくら 同様に 疑問を持っている。 さくら のように これがはじめての日本の生活というのではなく、
うちの娘は年に一度以上、里帰りしてきたのに・・・である。
生活をそこでする=システムに入る、というのは、尋ねてきている時には、感じなかったもの・何かかがあるのだ。
娘には、 日本国籍で、 日本人の両親を持っている、日本人、、、ではあるけれど、自分は何人だから・・・という狭い範囲を基点にしての
人生を送っては欲しくない、。 狭い基点 というと、 マイナスイメージかもしれないが、何人という立場にこだわってほしくないということだ。
自分のルーツというのは、やはり 知りたいものらしい。 自分が どこからきた 何者なのか、わからないと、人の心理は安定しない・・・
そういうことを扱ったドラマや 物語は、いくつもあるし、昔、「ルーツ」というものが とても流行った。
今だって、「ファミリー・ツリー」というのが流行っているらしく、豪州人の友人の母親は、自分の家族のルーツを求めて、= 豪州大陸に
やってくる前はどこにいたのか?!= アイルランドあたりの~~~と ヒマさえあれば図書館へ行き、探しているらしい。
何世代前までかは、すでに掴んだらしい。
だから、それは、それで、いい。 自分の親は、 どこからきた、誰誰で、そこは どういう国で・・・と、知りたいことを知り、自分というものの
存在を 確かめる・・・。
しかし、 だからといって、それを 他者との関係の、 壁に しては 欲しくない。 できることなら、 虹にしてほしい。
自分が、日本と オーストラリアの、、 もしくは、日本と ヨルダンの、、、もしくは、日本とアメリカの、、、と、つないでいけたら、差別なく、
生まれた場所は違っても、みんな同じように生きていると自覚できたら どんなに 素晴しいことか・・・・、そう思うのだ。
日本には、日本の”やり方”が ある。 日本語 という柔らかいことば、繊細な和食、深く厳かな伝統文化、季節に応じ自然から生まれた習慣もある。
それは、それで 残したければ、 個々人が 受け継げば いい。 そういうものを 大事にしたい、という気持ちを 敬えばいい。
それらを ないがしろにしろ、というのでは けっして ない。
しかし、できることなら、何人(日本人)だから、とか、ここは何処何処(日本)だから・・・、という拘り、囚われを 他者との 壁を作る理由や、対話・交流の逃げの理由にしてほしくない。
娘には、日本の”好いところ”を 身につけ、受け入れ、かつ、他の国・民族の 同じように 好い点、優れた点を受け入れ、自分らしさを
作っていって欲しい。
日本人だから、、、ではなく、 自分=○○だから・・・ということを・・・。
ということで、今後の さくらの日本との関わり、奮闘振りから、相互理解、にいたるまでを また楽しみにしている毎日である。
2007/2/9 天邪鬼の疑問: 誰のため?某大臣の、少子化対策にともなう発言を巡って、いまだに あれこれ 取りざたされている。
私個人としては、あのような言葉を選んで発言した人が、国を代表するような立場にいることは、残念だけれど、
辞任・罷免と 騒ぎ立てるほどではない、むしろ、その周囲や その他の人々が、それについて どう考えているか、
そういう方面で、もう少し プロダクティヴな 見解と方向性が 見えてくることを願っている。
ただ、この一連の 発言
≪ 産む機械 、 結婚すること&子供二人以上という健全な ~ 、 結婚したくないとか産みたくないというのが大勢を占める社会になると困る~≫
を聞いていて 疑問に思ったことがある。
女性が、子供を産むのは、、、、だれのため?!
国のため? 夫のため? 家のため? 社会保障(年金分を稼ぐ人)のため? 女性自身のため???
どれか一つという答えを 求めているわけではない。
が、国のためや社会のために 子供を産むわけではない、ということは (少なくとも私の考えでは)確かだと思う。
私は、国や 誰かのために 子供を産んだわけではない。
強いて言えば、孫ができたら、私の両親が喜ぶ・・・ そういうことは考えたが、両親のために結婚し、子供を産むように予定したわけではない。
次の社会をになう若者、とか、子供達、とか、 様々な形で、 未来を子供に(次世代に)託すことが 語られるが、
社会を続けていかなくてはならないから、子供を作るのだとしたら、本末転倒もいいところだ。
人々の日々の営み、生きている中で、自然に 子供が生まれ、子孫が増え、その結果として社会が繁栄していく、そういうものなのではないか?
社会の繁栄や安定のために、子供を増やそうなどという 政策は、やっぱり ”自然”ではないと思うので、それゆえ どうしても、いずれ、ひずみが出てくるt、
私は思う。
男女が 愛し合えば、(夫婦とは限らない。) 子供は生まれる・・・ (自然な結果として)。
中には、不妊症などで ほしいけれど子供を授かるのが難しい人や、もしくは 愛し合っているけれど、子供を持たないという選択をするカップルもいるだろう。
それぞれの 生き方を それぞれが 認め合う、そういう思いやりのある社会のなかで、 昔の日本のように、(いや、今だって、日本のどこか、世界のどこかでは、
そうなのだが・・・)、他人の子供も 自分の子供のように、おやつを分け合う、危ないことをしていたら注意するとか、叱るなどの愛情をもった目で、見守る社会が
出来たら、みんな もっと 気を楽に持って 子供を持とう、と思えるのではないか?
今は、何かとプレッシャーが多い。
そして、社会の中からみても、子供を産むというのは、他の誰かや・国のため ではなく、結局、自分達が望んでこそ、ということに繋がるように思う。
誰のためであっても、自分が産みたいと思って、産む事、それが 基本なのではないだろうか?
女性は、産め!産むのが当たり前、産まないといけない、というのではなく、その女性が 産むかどうか(有無かどうか)の選択権を持ち、
(女性とその相手の男性、二人の選択であってもかまわないが、生む側の女性の意見が反映されるということが肝心だと思う。)
生まれたら、パートナーと一緒に、そして、家族ぐるみ、社会ぐるみで 子供を育んでいく、そういうものではないだろうか?
日本の育児手当は、ほんとうに 厳しい家計へのちょっとした”お小遣い”程度だ。 が、これも、結局、一定以上の収入がある人(家庭)には、
育児手当が出ない、ということ、 何人目という子供の数によって 金額が変わるなどという面をみると、
これは、 ”子供のための”手当て、子供を大事に育てよう、元気に育ってもらいたい、社会は子供を愛しているよ、社会に出てくるのを待っているよ!
"Welcome" という子供へのメッセージではなく、 育てる親への、負担を少し軽減するための表面的システムとしか、思えない。
このような意図では、どんなに ”育児手当”を論議したところで、 子供は、嫌がってこの世には、生まれてこない。
子供の数や両親(保護者)の収入に関わらず、子供一人一人が、いつか社会に出てくる、社会の一員として、この世界で育っていく、そのための
”愛情・ 歓迎 welcome”ファンドのような手当てとして、どんなこどもでも 一律に 国(少子化対策が国のものなら、)から支給されることが、大事だ。
多額をというわけではない、ただ、子供のためなのか、親の支援のためなのか、その背後の意図・動機が問題なのだ。
そういった政策を踏まえて、後は、各自治体が、保護者の収入によって、子育ての支援の意味で、育児手当てというものを支給するのは、かまわないと思う。 現状の育児手当は、どう考えても、生まれてくる子供達のためのものではない。
とすると、やっぱり、 ”産んでもらわないと困る”という考え方が、背後にあるようで、それは、本末転倒だと、
思う次第だ。
子供を産むのは、誰のためか?
なぜ、なんのために子供達が生まれてくるのか???
子供の寝顔は、天使だという。
それまでは子供のことを好きだと思ったことのない人でも、自分の子供が生まれてからは、可愛くてしかたがない、ということに
気が付いた、そういう人も多いだろう。
子供は確かに、私達の生活に、笑顔と、心の癒しのモトのような、喜び、を与えてくれる。
100点を取ってこなくても、徒競走で たとえビリでも、なんであっても、子供は可愛い。
いい子に育つように、とよくいうが、子供は、生まれたそのままで、すでに ”いい子”なのだ。
精神的意味で、子供をこの世に 迎え入れる 目的・意義は、確かにある。
社会の経済状況に関係ない。
どの時代、どの民族、どんな社会形態であってもだ。
しかし、その社会のために子供を産む、作るのではなく、
あくまで、それは、私達が、 人間として生きている・人生の営みの中で、望んで その子供を迎え入れる(産む)個々の心の選択だと
私は思う。
まずは、意識改革が必要だろう。
そろそろ、”結婚したから、子供が出来る、” というような 社会のシステムにのっかった認識を改めるところに来ているように思う。
子供は 社会のために生まれてくるのではなく、その子自身の人生・その子の魂の選択として、ここに生まれてくるのだから・・・。
2007/2/5 what is 選挙 ?選挙って、競争なの?
どうして、選挙に 勝つ、 負ける、っていうの?
選挙 って、 選んでもらうこと、選ぶこと、選ばれることでしょ?!
勝ちますとか、勝つんだ! とか、勝たなくてはなりません! というのではなく。
『 ◎×△◇です、これを指示してくださる方、 これを選んでください! 』
そういうものじゃないの?!
そろそろ 意識を切り替えようよ。。。。
これじゃあ、いつまで たっても、 そして 誰が、”勝っても”、 競争社会が続き、それこそ、戦争も、二極分化も、解決されないよ・・・・。 地球温暖化もね・・・。 なぜなら、 地球には、競争じゃなくて、 協力が求められている今!だから。。。。
2007/1/19 異端は・・・先週の 「英語でしゃべらナイト」 の中に 出てきていた言葉・
「 異端は、文明の原動力である。」
なるほどなあ~と 思った。
それに、日本の場合は、稀な、もしくはユニークな才能は、祖国よりも、海外で先に認められることが多い・。
まさに、異端児ともいえる人のことを指すのだろうが、日本は、寛容な一面、そこの属さない人へは
冷たいという風土も持ち合わせている。
いろんなものを くっつけて、統合させて、変化させ、新しい物を 作り出る才能にも、日本人は恵まれている。
”前例”を大切にするという点もあるけれど、
ずれにせよ、異端扱いされるものは、意外と 時代の先端をいくか、もしくは、時代の変化を見抜いていると
いえるのだろう。
異端が原動力となって、その社会・文明が進んでいくには、その異端が 異端ではないように社会が受け入れる状態になることが
前提なのだけれど・・・。
2006/12/22 出会い近所の とある喫茶店・・・・というか、カフェ。。。 禁煙席と 喫煙席を合わせると60席ほどの、サンドウィッチ、パンケーキ、パイ、ケーキなどの軽食が取れるカフェだ。
それほど 頻繁に行くわけではないが、平均すると、月に一度は行くだろうか。
そこに、しばらく前から、とても 感じの良い ウェイトレスさんが いる。
カフェのウェイトレスさん達の中でも、どちらかというと、年上の感じだが、はっきり通る声をしていて、笑顔で、
いらっしゃいませ~ などの 言葉もいつも 感じが好い。 リアクションを聞いているだけで、元気が出る感じだ。
その彼女と、少し前から、簡単な 会話を交わすようになった。
あちらは、私の名前も知らないが、一応、常連客みたいな感じだろうか・・・。
今日、郵便局や書店、クリーニング店、写真屋さん、などを はしごした後、何週間かぶりに そのカフェでコーヒーを飲もうと思った。
結果、コーヒーだけに留まらず、ケーキも食べてしまった私だが、会計の時、ちょうどレジに立っていた、その感じの好いウェイトレスさんが、言った、
「私、今月末で退職なんです」・・・・。
「え?」 と思ったけれど、あ、もしかして、と 理由の予想はついた。
このカフェに前回来た時は、判らなかった・・というか、気付かなかったのだが、今日は、、、もしかして、お腹が大きいのかな~と、
そんな感じがしたのだ。
案の定、彼女は、「一月まで働くことも考えたんですけどね・・・」といいながら、出産の予定日が 3月で、それでいろいろ準備もあるので、早めに
辞めることにしたと、話してくれた。 そして、休職ではなく、退職なのだと・・・。
とても残念だった。 彼女には、出産という 嬉しいこと・お祝い事が理由での 退職だから、私が 残念だと思っても、しかたのない
ことだけれど、彼女の快い応対が もう ここでは 得られないのか、と思うと、やはり ちょっと残念だ。
それに、個人的な話など何もしたことはなかったが、少し会話をし始めただけに、そういう ちょっとした”知り合い”が、いなくなるのは、
寂しいものだ、そのカフェのケーキや コーヒーの味は、変わらないとしても・・・。
彼女は、ここから 急行で駅1つのところに 住んでいるので、プライベートでも この辺りに来ることは、よくあるらしい、だから、
今度は、このカフェで 「”お客”として居る時に、お会いするかもしれません、」と彼女は言った。
私は、結婚してから、3~4年ごとに 引越しをしているので、馴染みの喫茶店が できることはあっても、”地元の~” というのとは、
少し違う気がする。 その中で、1番長かったのは、ヨルダンの 4年と八ヶ月だ。 そこでは、確かに、馴染みの喫茶店が出来た。
ただし、あそこは、ウェイターの回転が早くて、 私が、毎週のように通って、顔なじみになったとしても、ウェイターさんたちが、数ヶ月ごとに
変わっていった。 それに、場所が場所なので、あまり 親しく彼らと話をすることもなかった。 常連だとわかっているので、けっこう 融通が利いたり、
親切にもしてもらったが、、、会話をして親しくなるというものではなかった。
別の喫茶店にも、同じように、私の顔を覚えてくれたウエイターさんがいたりしたが、同様に、”ちょっと親しく挨拶をする”程度だった。
でも、だからこそ 思う、
擦れ違うことばかりの この 世の中で、同じように擦れ違いながらも、会話が出来て、それぞれが 相手の存在を認め合える出会いというのは、
貴重なものだなあ、と。
特別な仲になる、というのではなく、たとえば、その喫茶店で、 ”ケーキやドリンクを注文するだけ”の 言葉のやりとりから、
笑顔と会話が、プラスされて、友達というほどではなくて、「今日は、天気がいいですね~、でも寒いでしょう~」とか、
「この辺りに、○○を買うのにいいところ、知らない?」などと、話ができる相手、場所があるというのは、心強いものだ。
特に、新しく引っ越した場所や、外国においては・・・。
それに、そういうところから、新しい友人関係を築けることもある。
それで、帰国して、今回、この近所のカフェで ウエィトレスさんと話ができるようになったことは、私のささやかな 喜びだった。
わずかな出会いではあるけれど、こういうものが 心の泉というか、日常に 優しさを添えてくれる花のようなものなのではないかと
思うのだ。
喫茶店に限らず、よく足を運ぶ お店では、ありえることなのだろうけれど、ふだん 意識していない こういった出会いでも、それは、
確かに、一期一会 なのだ、と思った次第である。
その出会いのひとつひとつに感謝し、それを 大事にしていけば、世の中、もう少し 温かく、優しく なるかもしれない、と。。。。
2006/12/14 どうして?! 郵便EMSと税金と・・・。10月下旬に 南アフリカあてに 送った EMS.
なかなか 届かず、ついに 3週間過ぎた頃、郵便局に行って 尋ねてみた。
そしたら、日本から南アフリカ行きの EMSは、日本を出るところまでは、自動的に調べられるが、
それ以後は、手続きをしないと 相手国に到着したかどうか、解からないというので、その追跡調査を依頼する紙に記入し、
それを依頼した。
もし、英国経由だとしたら、(テロの影響で) 荷物が 混雑していて、手間取っているかもしれないということと、
クリスマスが近付いているので、ふつうに郵便が 混んできたせいかもしれない、などと、いろいろ 郵便局の人とも話してきた。
数日後、郵便局から電話があって、一応、南アフリカ国内に入っており、集配局に届いている、という報告があった、と言われた。
私の友人が使っているのは、 ポストネットといって、日本の郵便局とちょっと事情が違う、、、私設の郵便事務所みたいなものだ。
日本も、民営化ということで、それに近くなっているのだろうが、そういうのとも、ちがう・・・。
あちらには、郵便局 = ポストオフィス と、 ポストネット があって、ポストネットは、 郵便や文房具や コピーなどを 扱う小規模な
いわゆる”お店”で、私書箱を置いており、(ポストオフィスも、これは、ある)、郵便を出すこと・受け取ることはできるが、
このポストネットが、いわゆる集配局ではないのだ。
それは、ポストオフィスの仕事なので、ポストオフィスから、ポストネットへ 運ばれなくてはならないことになる。
でも、依頼した追跡調査では、 その 集配局に届いているのか、友人の私書箱があるポストネットへ届いているのか、そこまでは
判らないということだった。
ありがとうございました といって、電話を切ったものの、、、、 EMS とは、名ばかりでちょっと ガッカリ・・・。
でも、今までに、こんなことはなかったのだ。
同じように EMSで、 同じアドレス・ポストネットの私書箱あてに 何度も出しているが、ちゃんと二週間程度で 届いていたのに。
それで、友人に連絡して、私書箱のあるポストネットに届いているかもしれないから、番号で照合してみて欲しいと伝えた。
それが、、、11月末のこと。
つい先日、友人から メールが来た。
どうやら、、、、
届いてはいたらしい、、が、 税金の支払いを 拒否したため、 私の送った荷物は、”おそらく日本に送り返されたはず” と いう。
税金?!
以前、ヨルダンから、DHLで 送った時にも、一度だけ このトラブルがあった。
まっすぐ 届くこともあるのに、(中身の品物の金額に大差はない。) たまに、税金が かかる・・・・。
今回は、 1500ランドだという。
送った荷物(1番小さな ゆうパック 〒)の 中身( EMSなので、一応、品物名と 金額などを記入)は、タオルやシャツ、そして 音楽CDで、
たまたま、今回は二万円ほどになった。 郵便局の人が、二万円を越えると、〒にかかる(かける?)保険料がエキストラになるが、このままで
いいか?と 聞いてきたので、ほぼピッタリ?二万円内なので、 このままの保険でいい、ということにした。
それに対して、 1500ランドの税金・・・。
私が住んでいた頃、10年前の ランドの両替レートでいうと、3万円を越える 税金である。
今は???いくらなんだろう? 一ドル = 6 もしくは 7 ランドくらいのはずだ。
とすると、1500ランド = $200ドルちょっと ということになる。
それにしても 高い! ほぼ 100% の税金、いや、ドル 対 円 を考えたら、100%以上だ。
さて、、、無事に、もどってくるだろうか???
今日、出かけるついであるので、 EMSは、どのように返送されるのか、郵便局によって 尋ねてみるつもりだが、
それにしても、、、 まいった! また 税金だ。
2万円の中身にたいして、二万円の税金をはらって、受け取る・・・・???。
そりゃ、私だとしても、 ためらうだろうな~。 よほど、 自分が 誰かに どうしても!!!って 頼んで送ってもらったものなら、自ら税金を払う覚悟も
しておくだろうが、、、誕生日プレゼント+α で送ったものだったから、、、相手には、それほどの税金をはらう義務はない・・・。
問題は、送り返されてきたものを、(一応、プレゼントなので)、今度は、どうやって 送ろうか?!
ちなみに
私が払った このEMSの郵送料 は、 3120円でした。
2006/10/31 トンネルへの分かれ道岐阜県瑞浪の中学生が自殺した事件。
クラブ活動の中で、つらいことがあったという。
クラブ中に 嫌なことを言われて、辛かったという。
どうしてだろう、
何時頃からだろう、、、
昔から、嫌がらせとか、きついことを 言うとか、人の失敗をからかうとか、そういうことは、学校でも、部活でも、大人の社会でも、
幼稚園の中でも、よくある・・・(ないほうが よいけれど、ありがちな・・・)ことだったと思う。
何時の頃からか、、、コミュニケーションの 力不足が、 社会に 充満しているように 思える。
ネット、携帯電話、メール、・・・ 顔を見なくても、 声を実際に聞かなくても、 適当に つくろえる メールという手段。
メールの返信が直ぐに来ないと、”友達じゃない”などと 言われてしまう そんな 脆い 人間関係にしがみつく若者達。
一方で、ラジオ番組の、若者(中高生)の電話相談は、増えているという。 それについての、全国からのコメントも、ネット(ラジオ番組のホームベージ)を
通じて、多数、寄せられるという。
ミンナが ラジオに頼るのは、そこに ”一緒にがんばろう”と 言ってくれる肉声・・・ 声があるから、その声を聞くと、気持ちが温かくなるからだと言う。
メールが あれほどに 氾濫するのも、 誰かと 関わっていたい・・・という 満たされない思いを抱える若者の 叫びなのかもしれない。
ネットや携帯電話 などの メールが どれほど普及しても、やはり、 直接の声で、目を合わせて、人と人のつながりが感じられるモノの方に
結局 人は、還るものなのだろうと、思うj。
度の過ぎた 嫌がらせとか、傷つくとわかっていながら、わざと 酷いことをいうとか、面白がって ”いじめる”とか、
面白がるわけではなくても、相手の気持ちを考えないで、相手が傷つく・嫌がることを解かっていながら、続けるというような
行為は、止めなくてはならない。
大したことない、と誰かが思っても、別の人にとっては、それは 傷つくひと言だったり、ずっと気になる嫌な出来事だったりする。
人の気持ちが どれほど 個人差があるものか、、、、だから、それは 計りにかけたり、平均化したりはできないけれど、
昔に比べて、 心を打ち明け狩り、正直に話したり、自分の気持ちを伝えるときに、誤解が生じても、それを直そうと務めたりということが、
できない・・・若者が 増えているのではないかと 思う。
ゆえに、彼らは、どうしても、 自分の気持ちを 抱え込み、話ができないまま、外に漏れないように耐え続けることになるのではないか・・・。
また、
幼いうちから、「いい子になりなさい」といわれ続け、何らかの成果を(親の言うことを聞くことから始まって・・・成績などまで・)期待されるうちに、
子どもは、耐えられるだけたえなくては、ならない。 弱音を吐いたら、親に嫌われる・見捨てられるかもしれない、というような 恐れを
密かに抱いていることさえある。 周囲への気配りや、親の期待に沿うようにがんばろうとする子ほど、抱え込む悩みは大きいだろう。
誰かが、そういう目にあっている、とわかったら、見て見ぬふりをせず、励ましたり、酷いことを言う人をたしなめたり、
そういうことを する人はいなかったのだろうか? 荷物を分け合おうね、、、といってくれる 弱音を吐ける 家族や友達・・・。
たった一人でもいいから、「あなたのことが好きだよ」と 言ってくれる人が いるだけで、救われることもある。
しかし、である・・・。
命を絶つほど 辛いことは、他人には、なかなか相談できないものかもしれない。が、
心がそこまで 傷つく前に、
誰かに、相談できなかった者だろうか、
誰かが、話しかけて やれなかったものだろうか、
部活を・クラブ活動を、辞めよう、と思えなかったものだろうか?
それでも、もし、
その部活動・クラブ活動が、大好きだったなら、
辛いことを我慢してでも、 続けようと おもえなかったのだろうか?
・・・・ということは、それほど。 クラブの活動内容には、思い入れがあったわけではない、ということだろうか?
部活動を休んで祖父のお見舞いに行ったと言う。
そのまま 休み続けても 私は、良かったのに、と思う。
休んだことを非難された、とも 報じられているが、
それを 家族に 打ち明けられなかったのだろうか?
その場にいない私達にとって、あれこれ 推測のまま 非難めいたことを言うのは、良くないかもしれない。
しかし、、自殺をしようと、思い到るまで・・・その 自殺にいたる思考の トンネルに入るまでには、
ある程度の時間と徴候があったはずなのだ。
本人が自殺を自覚していなくても、悩んでいたはずだし、それは、一時間や二時間ではなく、もっと時間があったはずである。
家族も 彼女の様子がおかしい、クラブ活動のことで悩んでいたようだと、察しているのだから、
もっと 踏み込んだ話が 家族内でできなかったものなのだろうか・・・?
その、トンネルに入る前に・・・。
トンネルに入る前なら、引き返すことは、できるのだ。
トンネルの入り口に入ったとしても、引き戻す手があれば・・・防ぐことは可能だ。
充分に 話を聞いてやること、それが まずは、大切だけれど・・・。
ある人は言う。
学校の先生に 悩みを打ち合けるというのは、(公立の場合、特に) よほどでないかぎり、家庭や生徒の方からは、相談をしづらいのだと。
なぜなら、、、「めんどうくさい生徒」 と思われると、”内申書”に よくないから・・・・。
家庭の方から、また、生徒からも、極力、トラブルを避けようとするのだそうだ。
ある人は言う。
内申書のためには、クラブ活動を していないより、している方が 点が高い。
しかも、運動系のクラブ(部)活動をする方が、文科系の活動よりも、 点が良い・ 運動部を熱心にしていた、成績がいいということが、高い内申点に繋がる。
だから、本当に、そのスポーツが好きではなくても、内申書のため、進学のために、部活動などに参加する・と言う子が 少なからずいる。
その活動を続けなければ、「高校への進学に響く」といわれれば、子どもは、嫌でも、塾に通うのと同様、親の言うように、先生の言うように、成績を上げるため、
内申書の点数を上げ、印象をよくするため、無理をしようとする。
自殺したその子は、まじめな、クラス委員なども務めるような子だったという。
14歳の誕生日に、、、彼女が何を考えていたのか、、、それは、解からない。
遺書が見つかったとしても、彼女の心を覆っていた闇が、どんな色をして、どこからどこまで続いていたのか、それは、解からない。
まじめな、14歳 には、耐えることのできない 葛藤や 苦痛が あったのだろうと 思う。
クラブ活動の中で彼女が受けた ”広い意味でのイジメ” のような 言動が、 自殺の直接的な原因だったかどうか、解からない、という校長の話は、
おそらく 本音だろうと思うし、ニュースを見ている私としても、そうなんだろうと考えられる。
クラブ内での、ことばが 引き金になった。のかもしれないが、
自殺に到るまでには、彼女は、かなり 耐えたはずだ。
その彼女が抱えていた物の 重さに 気付けなかった点でいえば、 学校や クラブメンバーだけが 加害者ではない。
すぐそばにいた 家族や友達も、同じなのだ。
トンネルに入り、自殺を決心した人は、なるべく 周囲に それを気付かれないようにする。
が、実は、彼らは、 死にたい と思って 自殺をするのではないのだ。
彼らは、 生きたい・・・・ と 思っている。 しかし、トンネルに入ってしまうと、行く先の選択が、「死」しか、ないように 思えるだけなのだ。
生きたいと思いながら、彼らは、死を選ぶのだ。
事件が 起きると、 すぐに 責任の所在というものが 問題に挙げられる。
逝ってしまった人の、、、家族は、 被害者の遺族となる・・・。
彼らは、心の苦しみや悲嘆ゆえに、どこかに その理由を 求めようとするし、責任を追及したいと思うだろう。
親として、子どもを守れなかったという 念に囚われ、それがなぜ起こったのか、原因はどこにあったのか、と 周囲に答えを求め、他者を責める。
ある意味、あたりまえの ことなのかもしれない。
しかし、
原因・責任は、 単純に 学校や 文部科学省の対策に あるのではない。
私を含めた・・・遺族を含めた
大人に、、、、子供たちを コミュニケーション力が 弱くなっている子供たちを 育ててしまった社会を 作ってきた大人に、
その心を二の次にした、受験や成績を優先した教育システムに 甘んじてきた 大人全体に責任があるのではないか・・・。
学校や教師に、素早い対応を・・・と 関係者の会見が ニュースで 報じられる、しかし、忘れてはならないのは、
その 子どもを 加害者にするも、被害者にするのも、 各家庭次第・・・ 各家庭が その子どもを どう育てているか、が さらに大きいのだということだ。
学校や教育システムに 責任があるとしても、それだけのせいではない。
誰かが、苛められていたら、 見て見ぬふりをしない 勇気を 持つ子。
弱いものいじめをしない子。 苛めることを 好し としない子。 嫌なことは嫌だ、と言える子。
弱い立場にある人を 守れる子。 人に影響されて 自分はそう思ってないのに、釣られて”イジメに”加担してしまわない勇気を持つ子。
悩みがあったら、話し合える子、 相談できる人間関係を育める環境。 子どもの声を ちゃんと 聞く耳をもつ親・・・、親子関係を築くこと。
一人一人が、 各家庭が、そういうことを意識して、 改善しようとしないかぎり、
教師や学校が、どれほど 目をサラのようにして、 自殺予備軍を 探そうとしても、限界がある。
まずは、家庭という 砦で、 子どもが安心して、話ができるような環境を造ることだ。
そして、集団社会を経験する、学校という場で 教師と協力し、彼らを見守ることだ。
彼らは、死にたいと 思って 自殺するのではないのだ。
生きたい・・・・けれど、選択は 死しかない、という 勘違いのトンネルへ 入る前に、、、、
なんとか、手を差し伸べられるように・・・・
自殺事件が続いているが、 彼らが 身をもって 私達に、それを 警告し、教えてくれているのではないか、と、私は、思う。
2006/10/25 ありがとう、電気をつけてくれて・・・。今日、お昼のNHKの番組で 東京タワー を 照らす 照明(電球)を 取り替える作業をする人・・・が
紹介された。 そして、その番組中に、一つの 電球を 取り替える作業を 見せてくれた。
その美しい 夜の東京タワーを 私達が 楽しむことができるのは、その電球を取り付け、取り替えてくれる人・・・が
あってこそ・・・というわけだ。
東京タワーのこの照明電球を取り替える仕事を見ていて 思い出したのは、電力会社(?)か何かの、作業をする人のことだった。
台風など、雨風の日、また、私の実家のある新潟では、冬の吹雪の時など、 幸いにも現代は、ひんぱんには起こらないが、、
停電ということが 起こりえる。
また、東京のある一帯が 数時間 停電になった事故は、記憶に新しい。 天候被害だけではなく、こういう時も、あの高い位置に
ある電線に 関する仕事をしてくれる人・・・が 欠かせない。
停電になったりすると、(悪天候の場合でも、通常、私達は、屋内にいるわけだけれど・・・)、早く 電気がもどらないかな~と
今か、今か、と待ち望み、そして、時間がかかると、いらいらさえするけれど、
実際に、そういう”悪天候”のような時に、作業をしてくれている人のことを 思えば、イライラなんてできない、ものなんだ、と思ったことがある。
世の中には、、、こういった ふだん、私達の目には 映らないけれど、その人たちの仕事なしでは、”普通の生活”と思っていることが
充分には成り立たない、機能しない、という仕事をしてくれている人が、とても 多いと思う。
以前、【 プロジェクト X 】 という番組があったけれど、ああいったところで紹介されるまでもなく、 大きな&高い橋 や トンネルや、 建物、大型船など、
いったい 人は、どうやって そんなに 大掛かりなモノを 建てるんだろう?! ・・・と、不思議&偉いもんだと思ったことがある。
もちろん、私には、そういう大きなものを どうやって 建てるか、なんて、解からないし、勉強しようというほど興味もないけれど、
人間って そういうものを 造る執念、、、(情熱という方が いいのかな?!)って すごいなあと、感心する。
飛行機だって、宇宙に飛んでいくロケットだって、ナンだってそうだけれど、、、でも、その、すごいモノ!を 造る人間が、、、
ふだんの 何気ない日常生活・・・現代社会、日本のような、水道や電気に 不自由しない生活、バスや電車が いつもきちんと走っていて、
電話も通じて、手紙も届いて、ゴミの収集をしてくれて、上下水道の管理がされていて、お店に行けば欲しいものが買える、食べられる、(自分で
魚を釣らなくても、野菜を作らなくても) そんな 便利な生活 & 夜景を眺めてホッとしたりする生活、家族や友達と娯楽を楽しむ生活を、おくることが できるのは、地道に、人の見えないところで作業をしてくれている人が いてこそ、なのだと、あらためて考えた。
番組中で、 東京タワーの照明は、一年で、夏仕様と 冬仕様で 電球の色が少し違うのだ、という話などがされ、
東京タワーに見物に来る人は、ガラス越しに タワーからの絶景を 見るわけだけれど、電機の作業をする人たちは、
その少し上の方から、ガラスではない、素のまま・鉄骨の合間からの 景色を見ることができるのは、特別なことで嬉しい、と
作業の方が話された。 その時、このひと目にはつかない&危険な仕事をするにあたり、どうですか?と 質問されて、
その人は、 ”やりがいと 誇りを 感じている”、と答えていらした。
この、 やりがいと 誇り これこそ、今の、不祥事といわれる事件や事故が いろんな職種で 起こっていると報道されて
いる日本の、 職業人に 改めて考えて欲しい、、、仕事をする時、選ぶ時、感じて欲しいものだ、と 思った。
いろんなところで 働いて、生活の基盤を支えてくれているみなさま、ほんとうにありがとうございます・・・・。
2006/10/4 人間の良いところ人間、って ウィルスみたいに、 ・・・いや、人為的な意図があるだけ、”自然”に生きてるウィルスよりも性質が悪いと、私は思うのだけど、
でも、、
いいところもある・・・・と、そっちを 考えてみた。
今朝・・・ニュースで見た、豪州シドニーで、嵐のために木がたくさんなぎ倒され、それによって たくさんの ひな鳥が 巣から落ちた、それを
保護して、また野性に返そうとしているというもの・・・。
ちょうど、ニュースの初めに移った鳥=野性のオウムは、私にも馴染みのある ロリキート というカラフルな鳥だった。
私たちがシドニーに住んでいた頃、我が家の周りに ロリキートは、あまりこなかったが、車で15分ほど北に行ったところにある友人宅の
庭には、その隣人宅周辺をあわせて ロリキートがた~くさん 飛んでいてというか、木に停まっていて・・遊びに行くたびに、楽しみだった。
思い出話は、これくらいにして。。。。と。
そう、
=== まあ、これが裏を返せば、他の生物、動植物を人間の意のままに交配させるなどして、横暴な行為というものに結びついているのかもしれないが・・・。===
品種改良という名で、さまざまな環境に適応できる 穀物や果実を 作り出し人間の生活を豊かにする・・・・ 便利でありがたい 世の中ではある、
マグロまでも、人工的に孵化させて、流通に載せ == 資源保護とは、都合の良い名目だが・・・== 食卓へ運ぶ、養殖というのは、誰もが不思議に思わない
”食材” となる生き物については、だれも不思議に思わないような、、、そんな世の中になっている。
人間の胃袋に入るとなれば、なんでもあり、! みたいな世の中になっている。 --- ほんとうに これでいいのか?! おぞましい!!
それに、
地球を荒らす・・・ 開発という名で、荒らし放題・・・・:
地を掘り、 海や川を汚し、 木を切り、 山を崩して・・・・ アマゾンまでも、海での核実験までも・・・。
とはいえ、
一方で、
人間は、荒れた大地に 木を植え、水を引き、 迷子になったタヌキや イノシシの 世話をしたり、 鯨やイルカを海に返したり、
アサガオを育てたり、 チューリップを世界に広めたり・・・・、
(( ああ、そういえば、 ”そこにいるはずのない 魚 ”などを 原産地から運んでしまうのも、人間の悪い癖・・・かなあ~。 ))
そう、そう、
だから、、人間は、傷ついた 他の動植物を 世話して、元気にさせる、という、そういう いいところもあるし、
そういう 事ができる ”能力”を備えた 生き物だ、と 思うのだ。
そりゃ、犬が、狼の子を育てるとか、 キツネの子を育てるとか、 違う種の生き物を 世話するということが
他の動物でも見れないわけではない。
が、意識して、 行うこと、どうやったら 効果的かと 考え発展させること、そういう能力は、人間だけだと思うのだ。
シロクマ・・・・ 水族館のシロクマを 見るたびに 私は、 もし、地震が来たら、この熊は、どうなるんだろう、、、、と 思っていた。
動物園の ライオンや キリンや、 小さな動物だって同じだが、 大きな地震が来て、 人間が右往左往する事態になったら、、、
もし、水槽が 壊れるような地震が 起きたら、シロクマも、 ペンギンたちも、、遠い故郷から、 人間の”欲”と 興味のために、
連れて来られた彼らは、いったい どうするのだろう??? 逃げ惑うのだろうか??・ それとも、 戦争時の 動物園の象のように、
人間優先の犠牲になるだろうか??
動物園や 水族館があるおかげで 私たちは、 身近な所に住んでいる動物以外にも、 いろんな動物・生物をこの目で見ることができる。
なんと、嬉しい 世の中・・便利な世の中だろう、、、とも思う。ありがたいとも、思う。
が、 人間の 横暴さ・・・ 自分本位の考え方の 現われでもある、と 思うと、辛くなる。
しかしながら、、、、
こうやって 天災 などで 傷ついた 生き物を いたわり、癒し、また、 元気に生きていけるように 世話する、
そういう人間の いいところは、 素晴しい、 それこそ ”生きている地球”に 生まれ住み続けている人間である 所以なのではないかと・・・思う。
2006/9/23 海外旅行のマナー中国人の、海外旅行先での マナーについて、人々に礼儀をわきまえ、エチケットを守るように注意をしているという記事を
読んだ。 ところ構わず痰を吐く、とか、大声で話すとか、我先にと乗り物に乗り込むとか、いろいろ例が挙げられていたが、
ビュッフェ(バイキング式)で、取りすぎて残すとか、ホテルの備品を持ち帰るなど、日本人旅行者にも 似たような傾向があるのではないかと、
思った。 日本人が、海外旅行に大勢でかけるようになってから、もう何十年にもなるが、あいかわらず マナー、エチケットで、
日本国内では気にならないことも、海外・場所によっては、不味いということを あまり 自覚しない人たちが、今でも結構いのでは?ると思う。
たとえば::::
欧米(西洋)のホテルで、パジャマ姿のような格好(日本の温泉のように浴衣が備え付けられているわけではないので、それに似た、
プライベートすぎる格好ということになるか・・・)で 廊下を歩いたりする、ということが今も見られたり・・・。
夏休みに、箱根に行った際、泊ったホテル(和風旅館ではなく・)の部屋には、わざわざ ”浴衣で廊下や ロビーに出ないように”という
注意書きがあった。
最近、そういえば、どこかで、「まったく、うるさいな~」と 思って、ため息をついてしまうほど、走り回っている子供達を みかけた。
親御さんは居たはずだが、・・・・注意の声は聞こえなかった。
子供は、元気で、、、少しくらい 走り回っても 目を瞑りたいとは、思うが、他人が大勢いるような場所では、周囲の迷惑も考えて欲しい、と
思った次第だ。
海外や 航空機内でも、 比べると・・・日本人の子供は、うるさい&行儀が悪いように、思う。
日本は経済大国といわれ、モノは豊かで、そして、夏冬の休み時には、多くの日本人が海外旅行に出かける。
一昔前、 黒髪のアジア人、めがね・カメラ の集団といえば、日本人だった。
今は、 カメラをぶら下げて グループで 観光地にいるアジア人たちの話す声からは、中国語や韓国語が聴かれる。
外国で中国人=「礼儀を重んじる民族」というイメージを守るようにという 中国共産党の注意が功を奏して、遠からず、中国人は、
生活習慣や考え方の大きく違う 西洋社会でも、問題なく 礼儀正しい・・・マナー、エチケットの問題のない観光客になるだろう。
日本人も、
多くの日本人を知る&日本に来たことのある外国人が、日本人に対して「礼儀正しい」という印象を語るように、
海外の旅先においても、礼儀正しい・問題の少ない観光客に、早く なれたらいい・・・と 思う。
「旅の恥は かき捨て」という言葉があるが、一人二人の行儀の悪さ、マナーの悪さが、日本人というものの”印象”を決めることもないとは言えない。
海外旅行歴の長い日本人であるから・・・こそ、
もっと 自覚して、国内でも、海外でも、公共マナー、 対人エチケットを 意識していたいものだ。
追伸: アラブのある国の、スーパーやショッピング・モールで、「禁煙」、No Smoking のサインも、マーク(たいてい世界共通に理解可能だと思う。)も あるところで、 堂々と煙草を 吸う人々を見かけたことがある。 何処で 誰が 見ていて、 どう 思っているか、わからない・・・・。 人の目を 気にしすぎるkとはないが、
「アラブ人って、自分勝手だよね~。横暴だよね~、禁煙のルールさえ守れないのかな~」 という ・・・ただでさえ きな臭いニュースが多いゆえに、・・・ 印象を 与えかねない振る舞いは、周囲に対して更なるマイナスイメージとなる、私は思ったのだが、果たして 彼らは どう思って煙草を吸っていたのだろう・・・。
日本人も 注意するに越したことはない のではないかな~。
2006/9/17 またもや・・・宗教とは、なんのために あるのでしょう?
宗教とは、誰が、いつ、 作り始めたのでしょう?
”宗教”を 心の支えにしている人、 生活の基準にしている人、 人生の指針にしている人、
”宗教”なくしては、自分の考えが 揺らぐ・・という感じを 無意識に もっている人、
宗教に囚われている人は多いだろう。
神とは 何か・・・。
ある人はいう、 それは、 人生・生活、生きていること(=命) その存在 そのものの代名詞だと・・・。
人はなぜ、宗教のために 争うのか????
争う理由になる 宗教など・・・・ それは、少しも、 そこに「神」をいただいてはないのではないかと
私は、もう三十年以上、そう思ってきた。
争う理由にある 宗教など、 いっそ、 みんな 忘れてしまえばいい・・・
そして、 神を 崇めたいなら、神に何かを求めたいなら、
自分の”人生”そのものに、それを 見出したらいい・・・ 他人が創った 宗教 という中に自分を置くことをせず、
自分なりの 人生=神 と 向き合えばいい・・・・。
法王の発言が 論議を呼び、反発を招いている。
なぜ、 みんな 自分の 宗教観 で、 それ以外を みるのだろう?
なぜ、 みんな 自分の 宗教、 自分の国、 自分の民族、そういったものが、”1番優れている” などと
思うのだろう・!?
その 選民主義 こそが、 宗教の始まりであるけれど、それこそが、他者と自分を分ける対立の原因なのに。
2006/9/6 天邪鬼の嘆き : 公務 子どもの、存在について、
「 子は、鎹 」 とか、「愛の結晶」 ということが 言われるが、
今日、TVのニュースで、 秋篠宮妃紀子さまの 出産に関し、その 男児=親王の ご誕生について、
「公務」と言う言葉を つかってコメントをしていた 方々がいた。
皇室の方々には、いわゆる”公務”というものがあって、 (皇太子妃雅子さまが、公務よりも、自分の療養を優先したなどと、週刊誌に
書かれていることもあるが・・、そういう類の公務のこと。)、これは、なさらなくてはならない、職務、お仕事であるわけだが、
今日、ある番組で コメントしていた(お祝いの言葉として・・・)人たちは、
「男の子の誕生、親王が誕生ということで、秋篠宮さまは、1番のご公務を果たされたことになる。」
「いろいろな公務↑が、あるけれど、 この 男児を産むということは、まさに、1番の 公務といえる。」
というような話で、公務ということばを使っていた。
皇室・皇統の維持ということを考えると、男児が生まれること、産む事は、 一大事の、最も大切は ”公務”なのだとか・・・。
公務・・・ 解からなくもない。 ひらたくいえば、皇室でなくても、 昔から、跡継ぎを産むということは、
その家に入った嫁に課せられた 責任みたいなものだから、 この現代にあっても、皇室のようなところでは、 跡取り息子 というのが、
重要視され、(重要どころか、国を挙げての論議になるわけだから・・・)、子どもを作り、しかも 女児ではなく、男児を生み出す、ということが、
一大事なのは、・・・それは、事実として、解かる。
しかし、である。
これを、 公務 と 表すのか? 公務と受け留めて 遂行させるのか?!
いや、遂行しろ、という意図が周りにになくても、 公務だと、思っている人々が、 それを 公務だと 言ってしまえば、
それは、「勤めを果たせ、」と 強制するような物言いと 捉えられるだろう。
一般的に、 それが、どんな 仕事であれ、 世の中、みんな 「仕事だから、イヤでも 仕方がないよ・・・、仕事だから、がまんしなくちゃ・・・」と
いうことは、誰にでもあるだろう。
そこで、である、 仕事で 子どもを産む?! 産ませる?! 男の子を産むのが、仕事=使命、、、なのか?
イヤでも、我慢して、 セックスをして、子どもを生むのか???産めというのか???
それが、 愛の結晶・・・・ なのか・・・・・・・。
勤めで努めて生まれた子どもは、確かに 鎹になることは、なるだろう。
しかし、
こういう受け留め方、 男児を、跡継ぎを生むべし、というそれが、勤めだという考え方で、政略結婚をしたり、させたり、
家と家をつないだり、財産を守るために駆け引きして、オトコの子を優先してきた時代・・・・、
子どもは、跡継ぎは、 大人の、 財産を守ったり権力を握ったりするための、道具として、”産まされて”誕生してきた。
生まれてしまえば、子どもは可愛い。
子どもに罪はない。
また、嫌な相手=男の子ども でも、女性は、自分が産めば、母は、子供を守るし、 可愛いのだが、それだけに留まらず、
せっかく 大変な思いをしてまで、歯を食いしばって生んだのだから、 この子を守る・権力を得る、(または、手放してなるものか、)・・・ということになる。
秋篠宮夫妻が、愛のない 子作りをしたとか、 子どもを”公務”のために 無理して 望んだなどと、いうつもりはない。
おふたりの気持ちや関係は、お2人にしか、解からない。
いろんな 憶測が 飛んではいるだろうが、私は、秋篠宮夫妻が、 夫婦仲が好くて、その結果として、妊娠、出産ということに
なったのなら、それは それで、 世間がなんといおうと、 喜ばしいことだ、と思っている。
生まれたのが、女児でも男児でも、それが、お2人の愛の結晶であり、自然の営みと いえるだろう。
しかし、
ひとたび、これを 公務と 受け留めるならば、話は別である。
秋篠宮夫妻が、公務として子作りをしたかどうかなど、私には、詮索する権利も、また、私は あれこれ いう立場にもない。
お2人が、お2人の気持ち、選択として 判断されたことに、他人が口を挟むことではない・・・・。
私が言いたいのは、、疑問なのは、
それを、 公務だと 称する 世間の ものの見方のことだ。
男性は、勃起した ペニスを 女性の器に入れ、 コトを終えれば、すむのだろう。
しかも、勃起するということは、それで 準備が整っているということだ、
やりたい・・・という気持ちで勃起するのだろうから・・・。
仮に、相手(女性)を 愛していなくたって、好きじゃなくたって、性欲を満たしてくれる対象として相手の女性を求めることが
あるだろう。 また、相手の女性が、自分を好きでなくても、自分さえ、”その気”になれば、相手を押し倒して、性欲&征服欲を
満たすことが可能だ。
もちろん、男性にも、”その気になれない”という コトもあるだろうが、だからといって、肉体的に 痛い思いをすることは、あまりないのではないだろうか?
エレクトしなくて、苦労することはあっても、それが 性交中の痛みとして感じることはないだろう。
よって、単に種をまくという行為は、「畑を耕す」ことより、簡単だと思われる。
男の方々、異論はおありでしょうか?
しかし、女性は違う。
勃起したペニスを受け入れると言うことは、ちゃんと ”畑”が耕されていなくてはならないのだ。
気持ち=情が 伴って、初めて、男性を受け入れることができる。
結婚しているとか、していないとか、そういう問題ではなく、どんな関係の二人であろうと (不倫が好い例だろう。どういう相手かよりも、相手に感じる本音ベースの情が重要。) 女性の方が、相手に対して、受け入れるという気持ちになっていない限り、( 一緒に、寝ることを覚悟するだけでは、そういう気持とはいえない。)求め、求められたいという気持ちでない限り、勃起したペニスを受け入れるのは、かなり 苦痛を伴うことになる。
精神的苦痛だけではなく、肉体的苦痛が、そこには、あるのだ。 だから、子どもを作ることが、 義務だとか、公務だとか、言われても、
相手に対して、その気持ちがなければ、セックスすること=子どもを作る行為をすること、は、目を瞑って、歯を食いしばって、我慢して、抱かれてはいても、
”痛い”ものであり、それは文字通り苦痛なのだ。
レイプ事件を 考えて欲しい。 男は、自分の 欲を満たすために、やればいいだけだ、が、 やられる女性は、精神的ダメージも大きいが、
肉体的な痛み・傷が かなり 大きいものとなる。
心の通じ合っていない、畑の耕されていない セックスは、女性にとって、 より過酷で、痛いものだということ、世の中の、男性は、意識しているだろうか?!
歴史上、政略結婚などで、幸いにも、息の合う相手と睦みあうことができたカップルは、少なくはないかもしれないが、
一方で、我慢に我慢を重ねて、耐え忍んだ女性も多かったはずだ。
また、庶民の間でも、戦さの時代、& 戦中戦後、兄と結婚した女性が、兄が戦死したからといって、そのまま弟の嫁さんになって、嫁としての務めを果たし、跡継ぎを産むように期待される、ということが あったわけだが、 よほど、兄が亡くなったあと、弟に、気持ちが移ったという女性でないかぎり、いくら”務め”と 言われても、「はい、そうですか、」と 別の男(弟)と、寝て、生活を共にしていく・・・っていうのは、かなり精神的にも苦しいものだったのではないかと、私は思うのだ。
弟の方も、自分の望んだ嫁さんではなくて、兄からの、お下がり・・ということで、不本意だった人も多いかもしれないが、いずれにしても、両人の希望ではない
かぎりは、こういう 組み合わされ方 & 務めということだけで、セックスを強要されても、困るだけだ。
== 中には、初めのきっかけは嫌々だったけど、やってみたら、セックスの相性は、意外と好かった!という幸いな組み合わせ・カップルいただろうけれど、。==
話を戻すが、
上記で、「公務」という言葉をつかった方々は、男性だったが、 セックスを いやいや やる、という経験はお持ちではないのだろうな、、
もしくは、 愛に溢れたセックスよりも、義理と形で、セックスをするということが、自分の務めだという類のセックスを、良しとして、経験なさって
きたのか? と思う。 いずれにしても、男性の方は、”痛く”は、ないだろう。
一対の男女が、気持ちを寄せ合って、求め合い(=求め愛)、セックスすることで、子どもが出来、生まれる、これは、
身分や立場が、なんであれ、自然なことなのだ。
そこに、なぜ、公務だと するのか? それを求めるのか・?
今朝、お生まれになった親王さまが、いずれ、天皇陛下になられる(可能性がある)ということで、その特別な教育は、いつごろから、始められるのか、と
いう質問が飛んだとき、その筋に詳しいある方は、「お父様(=秋篠宮殿下)や お祖父様(=今上天皇)のお姿を身近に見て、そういうところから、まず、自然に
学ばれていくことが 始まりだと思います。」 というような答えをされていた。
”そのお姿を見て、自然に・・・・” だそうだ。 (もちろん、そのほかに、知識・教養などのいわゆる”教育”がついてくるわけだが。)
将来、天皇になるための 教育のはじまりは、自然な姿から・・・
で、一方、 その 生まれ方は、 公務だとしたら、、、
公務というのは、自然な営みだとは、思えないのだが、跡継ぎを生むのが「公務」だと 思っている彼らは、そのあたりを矛盾に
感じないのだろうか・・・。 (注: 同じ人が発言したわけではない。)
41年ぶりの 男子誕生が、 めでたくないわけではない。
いや、ふつうに 男の子がお生まれになった・・・と考えれば、健康で、無事に、男児誕生というのは、何処の家庭にとっても、嬉しいことだ。
が、
なぜ、これを 「公務を果たされた」 と 捉えるのか?
( ↑上にも 書いたとおり、その言われ方をすることは、解からなくもない。 が、)
これ(=男児の世継ぎを産む事)を、 公務だと 捉えることは、人と人のつながりや、愛よりも、システム・権力・見かけ、そういったものを
優先するという ことになりかねず、それは、結局は、歴史において、 争いの種であったことなのに、今だに、そうなのか? --と、
愛や自然な人の気持ちの持ち方よりも、公務という名での交わりを優先することは、無理して、生み出されたものには、いずれ、そこに歪みが生じるものである。
そうなることが ありえるのに、、見かけのシステムに 囚われている、歴史から、学んでいるとは思えない 子作り=公務という考えを、私は、嘆かわしく思うのだ。
これでは、世間で 長らく、& ウルサク求められている、「開かれた皇室」など、望めないのではないか?
結局、 世間が、そして 皇室が、それを 特別視し、 動物園の檻にいるような、そんな 状態にしているのだから・・・。
まずは、跡継ぎを作り・産むことが公務だ、などと 考えることを 忘れた方がいい。 そうでなければ、・・・
『 こういう時に、こういう芸をしたら、エサをあげるよ。 飼育係りのいうこと聞かないと、動物園の期待に添えないと、エサ、あげないよ』 、
結局、皇室を そんなふうに 無意識に捉えていると言うことになるのではないだろうか・・・。
いや、動物園の動物よりも、自由選択の余地がないかもしれない・・・。
(そういえば、今日のテレビではないが、皇室・皇統の方は、もともと、特殊なお立場なのだから、多少の 不自由はしかたがないと、思っていただかなくてはならない。自由恋愛をあきらめ、継承すべき男児を儲けるように務めることを 覚悟してもらわなくてはならない、といっているお偉いさんもいた。
つまり、彼らには、特別な暮らしと立場が用意されているのだから、庶民のもっているような人間らしさは、あきらめろ、ということでもあるよね・・。 )
動物園の動物だって、”二世が望まれます”などといって、動物同士の、お見合いをすることが よくあるが、
彼らでさえ、 異性を 同じ 場所に 連れてきてもらったからといって、異性が来たからといって、その相手と必ずしも
交尾をするわけではない。 相性が合わなければ、互いに相手を気に入らなければ、 交わることはないのだ。
が、人間は、「社会の仕組み」という体裁と、<誰からの視点かは 時代と共に変わるが、> その、誰かの、利益・権力、財産を守るためには、どうすればいいか、などという ”知恵”(誰かを犠牲にしてでも、一方の誰かが、得をするという 競争・人間社会の 不自然な権力争い。 )があるゆえに、、、不本意でも、気持ちが伴わなくても、愛がなくても、イヤでも、”公務”だから、といって、 子どもを 作らされる・・・、 人間らしさよりも、(この点は、動物でさえ、自然な営みを謳歌しているのに・・・) 人間の他人の都合 (庶民の模範となるべく、皇室は、自分の意志や感情などは押し殺せ、と、)を優先して、人民に尽くせと言っている。
庶民の模範とはいっても、では、 庶民は、みんな 檻の中の動物になりたいのか?!
公務と言うからには、突き詰めるとこういうことになる。 そうだとしたら、私は、これには、疑問なのだ。
いくら、それが ”皇室”という特殊な立場の 人々であっても、である。
子どもが生まれるのは、自然な営みの結果、その流れの中であり、公務や責務で、なされるものとは、私には、思えないのである。
2006/8/28 天邪鬼の視点 :へんじゃない?やっぱり。夏休みも もう直ぐ終わる。
すでに 新学期が始まった学校もある。
この夏休みの ひと月余り、街に出るたびに思ってたことがある。
どうして、こんなに 制服姿の若者が多いの・???
夏休みなのに、どうして、 みんな そんなに 学校へ行くの???
何しに行くの??? ---- 部活? 夏季講習?
どうして 夏休みなのに、学校行事に 関わるの???
どうして、夏休みなのに、学校に関連することに出かけるの???
ひと月くらい、学校から、離れられないのだろうか?!
日本人の若者って、それほど学校がすきなのかしら?!
それとも
学校へ行くわけじゃないのい、制服が好きで、 みんな制服をきて街を歩いているの???
ああ、そういえば、娘が美術部のみんなと 学展の表彰式の日、上野の美術館へ出かけた時は、
「制服着用」と なっていて、 この暑いのに!と 私は、目をむいた。
もちろん、部活に行く時は、制服で学校へ行くが、そうそう 日本の学校は、何かとあると、制服で、って
言うよね。
それにしても、
ホント、制服姿の 女子高生か、中学生は、いやいや 学生服姿の 男子学生だって、
それも 一人や2人じゃなく、大勢で、1つのグループと言うわけではなく、
しかも、この街だけ、というのではなく、どこでも、
制服姿を 見かけた ・・・・ 夏休み なのに。
2006/8/20 良い戦争、悪い戦争小泉首相の靖国参拝が、クライマックスであったような、今年の御盆の1週間・・・。
新聞記事を見たり、テレビ番組を聴いたりしていて、気になったことが1つあった。
太平洋戦争、日中戦争、第二次世界大戦、、、これらを総称してのことだと思うが、
「誤った戦争」という呼び方をしているのに、出くわした。
戦争に、 正しい戦争、間違った戦争、 良い戦争、悪い戦争、、、、そういうものがあるのだろうか????
西洋の列強から、アジアを開放するために、日本は、立ち上がった・・・・といって 中国大陸へ 進撃した日本軍・・・。
そう、思い込まされて、戦地へ、いや、戦地とは思わず、”よいこと=正義”のためと思って、軍に入ったり、協力したりした人は、多かったのかもしれない。
しかし、その軍関係の、、、日本人達が、それでは、大陸で、いったい何をしたのか?????? 南アジアで何をしたのか?????
米国がイラクの人々を独裁者から解放し、民主主義の国を作るため、、、と言って、「大量破壊兵器」があるのを隠しているから、、と言って、
イラクに進軍した・・・先制攻撃を掛けた。 それでは、イラクの国民にしてみたら、どこからが、敵国米国で、どこからが、自分達のため(民主主義・独裁政権からの解放)の戦いであるのか???? イラクの彼らには、そういうことを米国と話し合うチャンスを与えられただろうか????
巻き込まれて、いやおうなしに、犠牲にされるのは、一般庶民だ。それは、どの戦争でも、同じこと・・・。
アジアの解放のために、と、日本軍は呼びかけた、しかし、それは、受け入れた大陸側にしてみたら、侵略戦争と呼ばれるものになって、結果、どちらが、良い悪いなんていうことは、
誰にも判らないようになってしまっている。むしろ、日本にとっては、敗戦という結果を踏まえ、日本は、悪者=悪い戦争、間違った戦争になった。
イスラエル兵が、2人拉致されたことがきっかけになっただけで、レバノン南部は、瓦礫と化した。
拉致する行為は、悪い。
では、それに対して、空爆するのは、良いのか? 一般民衆の家々を壊すのは、良いのか? 正しい戦いなのか?
間違った戦争、とか、誤った戦争・・・・と 言う人がいるが、そういう見方で 戦争を 捉えている限り、戦争は、終わらないのではないかと思う。
ベトナムにしろ、他の国の内戦にしろ、 避けられるものなら、”戦争”は、避けた方がいいに 決まっている。 正しいも 間違っているも、ない、と思う。
正しいと思おうとも、間違ったもの、と捉えようとも、
いずれにしても、 戦争は、よくない! 戦争は、してはならない。 それだけだ 。
それを 学ぶために、人類は これまで いったい どれだけの犠牲を払ってきたのだろう・・・・・。
みんさん、戦争は、正誤の問題ではない、と思いませんか・・・・。
2006/8/3 海は広いな~、「命の札」先日、ネット上で、私の実家がある町に関する掲示板を覗いたところ、懐かしい言葉に出逢った。
「命の札 」 という。
これを、書き込んだ人がいうには、大学の友達に「命の札」の話をしたら、何それ?と、言われ、
これって、もしかしたら、全国的なものではないのだろうか?・・・と 疑問になったというのだった。
おそらく、これは、とてもローカルなもの。。。地域限定のものだったらしい。
この「命の札」、 呼び方は、違うかもしれないが、同じようなことをしているところは、おそらく他にもあるだろう。
これが、何か? というと・・・。
◇夏休み、海に遊びに行く時、必ず、持って行くもの。
◇海に入る時は、その札を、監視員の人に渡すか、もしくは、監視員の目の届くところに備え付けられている場所に掛けて、海に入る。
◇遊泳時間は、決められており、(ずっと海水に浸かりっぱなしだと、唇がムラサキになる、体によくないため、15~20分ごとに監視員が笛を吹く。)
海から浜に上がったら、その札を ピックアップして、浜で甲羅干しをし、体を温め、そして、また 笛の合図で、泳ぎたい人は、海に戻っていく。
もちろん、その際、フダは、再び、監視員の元へ。
そして、
◇遊泳時間が終わる時、(午後4時前後だったと記憶・・・)、浜から上がった子供は、自分の札もって帰宅する。
万が一、監視員の手元に札が残っていたら、、それは、その子が、行方不明か、沖に流されているか、(忘れてしまったか?)、ということになる。
今現在2006年は、どうなっているか解からないが、少なくとも、私の時代、そして 掲示板に書き込みをしていた若者の時代までは、
私の生まれ育った海沿いの町・・・ 夏になると、海水浴客が 長野県、群馬県などからやってくる・・・の、私の通っていた小学校には、あった。
同じ町でも、山間の地区の小学校は、子供が一人で歩いて浜へ泳ぎに行くことは、ない、と考えて、たいてい海水浴は、大人と一緒ということが前提であるらしく、
この「命の札」を利用していたのは、同じ町でも、浜沿いの学校区だったようだ。 ちなみに、我が家は、浜へ、徒歩10分ほどだ。 子供の足でも15分。
そして、監視員というのは、遊泳期間中(夏休み開始から、八月中旬過ぎまで。お盆を過ぎるとクラゲが多くなり、日本海のため水温も下がるので、一応、学校では、遊泳してよい期間というのを設定している。)、保護者の当番と、地元出身の大学生などのアルバイトがする。 アルバイトには、たしか日当も払われた。
私の両親は、働いていたため、海の監視当番になると、その日はどちらかが欠勤しなくてはならず、=祖母もいたけれど、炎天下、祖母には、辛い仕事であるし、=
おそらく 監視の当番は、めんどうくさいなあと思ってはいたのかもしれないが、それでも、責任というものとそれを果たそうという意識は、あったのだと思う。
昨今、 雪印乳業、三菱自動車、パロマ、そして、エレベーターと プールの、子供が犠牲になった痛ましい事故・事件、そういうものをみていて思うことがある。
それは、 その仕事に携わる人の、責任そして、その仕事を自分が担当し、請負い、任されている、自分がその仕事についている、という誇りが、失われているのではないか、ということだ。
もちろん、これは、問題となった企業に限らない。 役所の仕事が怠慢だとか、黙っていても残業代がもらえるから、仕事がなくてもだらだら残っているとか、どんな仕事にも言える。 総理大臣や企業の社長、病院の医師や 保育所の保育士、マクドナルドのカウンターのアルバイトから、年賀状を仕分ける郵便局の年末だけのバイト、↑海の監視のアルバイトまで、同じだと思う。
私が、自分の仕事の誇りというか、そういう意識に目覚めたのは、高校卒業後、大学に行くといって上京した、上野の喫茶店でアルバイトをしていた時だったように思う。(高校までは、バイトさせてもらえなかった。また、田舎だったせいもあって、バイトしている人は、極少数だった。)
たかが、ウエイトレスであっても、私の応対ひとつで、客の気持ちも、また、店への印象も、そして、その人がまた来店してくれるかどうかも、左右される
ことがあるのだと・・・。 お盆の持ち方から、コップの置き方、注文を復唱することから、会計のレジを打つ速度まで、速やかさと丁寧さ、穏やかさなど、たとえば、
後輩(? わたしより後に入ってきたバイトの女の子)に指導する時でも、しっかり 引継ぎをしよう、というところまで、責任と気配りは、ウエイトレスには、ウエイトレスなりのモノがあったと思う。
「命の札」 このシステムを誰が、いつ頃、考え出したのか、それは、解からない。 が、 万が一、遊泳時間が終わった時に、札が残っていたら、、、
==もしかしたら、すでに おぼれているかもしれない、、、が、== もしかしたら、浮き輪で沖に流されて、自力で戻って来れなくなっているだけかもしれない。
そんな時、ただ単に、”海を、浜の子供を見てました” という 監視に終わるのではなく、海からみんなが安全に上がってきたのかどうか、それを確かめようとする
工夫と、見守ろうとする自覚は、すごいものだなあ、と 今更に 感心した。
もちろん、それとて、システムに甘んじるのではなく、 その任された監視という仕事・役割を、どう受け留めて、対処するか、それは、各自の責任と仕事に対する・または自分に対する、誇り、自尊心なのではないかと思うが、 そういうものが、現代の企業や、問題がおきてしまっている所の働き手には、はたして、あるのだろうか、あったのだろうか? ・・・・、そんなことを 関連して、思い出した。
幸い、私の実家のある町では、私の知る限り、子供の「海の事故」は、起きていない。
大人で、釣り船で沖に出た人が、亡くなったこと、私が小六の時に、ある児童が近所の川の河口で、誤って落ちて、おぼれてしまったという事件は、あったが、
海水浴での事故は、聞いたことはない。
たとえ、「命の札」が、ないとしても、これからも 安全で 楽しい 海水浴が できますように・・・。
それには、みんなの、心がけ ひとつなのだ、と 思うのでした。
|
|
|