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日志


2007/11/1

おばあちゃん

昨夜、NHK BS-2で、韓国の映画「おばあちゃんの家」が放映されていた。
見たいと思っていた映画なので、テレビで見ることができて、嬉しかった。
淡々と進む ストーリー、 言葉数の少ない 人間模様、 とりたてて 事件が起きるわけでもなく、これという感動のシーンがあるわけでもない。が、、。  
以前、予告編を見ただけで涙が出たのは、、、、おそらく そこに登場する おばあちゃんの姿が、私自身の祖母の姿に重なっていたからだろう。
 
一昨日は、私の祖母の 命日だった。 今年は、七回忌だった。 
事情があって・・・都合がつかず、法事には帰省できなかったが、普段と同じように、朝、写真の前に線香をあげ、ロウソクを灯し、拝んだ。
 
映画の中のおばあちゃんと 同じように、私の祖母も、いつも 背を曲げて あるいていた。 黙々と 仕事をしていた。
おばあちゃんの手のしわ、足の爪、白くなった髪を櫛ですく様子、杖をついて一歩一歩ゆっくり歩く姿、 それら いろんなひとつひとつに 私は祖母を思い出していた。
そして、不満をもらさず、黙って (孫のわがままや怒りや葛藤や、素直な感情を) 受け入れる姿、 その深いしわ以上に、刻み込まれている そこここの愛情の強さ、 
おばあちゃんって すごいなあ、、たいへんだなあ、、ありがたいなあ、、、そう思って 涙が出た。
 
私の祖母の頃の時代。。。 
戦前戦後、暮らし向きも楽ではなく、モノもお金も充分とは言えない中、子供のため、家族のため、黙って 体を動かし続けた 祖母。
私は、いつか、自分の祖母のように・・・ ( 黙って、微笑んで 他者を受け入れられる姿) なれるだろうか?、と考えてきた。
祖母のような苦労をしたわけでもないし、根性・頑張りがあるわけでもない、、、それはわかっている。
しかし、私は、”わたしのおばあちゃん ” が、誇りであるし、いつか、、、”おばあちゃん”のように、穏やかになりたい、と思っている。
 
映画の中の、男の子にとって、この”おばあちゃんの家”で 不自由・不本意ながらも、すごした時間は、一生の かけがえのないものとなっただろう。
これが 人間が生きることの上で 貴重な体験になったことは、彼が大人になって 初めて気付くことかもしれないが・・・。
意地悪をしても、我が儘をいっても、わざと困らせることをしても、おばあちゃんは けっして 怒らない、黙って受け留めて、精一杯 尽くしてくれる。
その ありがたさ を見るとき、涙が溢れる。  あの、すべてを受け入れる 大きな心は、覚悟(自覚と悟り)は、どこからくるのか・・・どう培われたのか?
あれほどの 大きな 愛を 与えられた子は、幸いだ。
また、おばあちゃんにとっても、男の子と 過ごした時間は、晩年に与えられた 宝石のような、輝ける温かい贈り物だったことだろう。
静かに、坦々と、 しかし、 画面に吸い込まれる 映画だった。 
 
おばあちゃん、、、 私は、おばあちゃん孝行 できたんだろうか?! 
いつも 与えてもらうばかりで、 何も 恩返しが できなかったのではないか、、、いくらしても、足りないのは解かっているけれど、 それでも時々、そう思う。
おばあちゃん、、、おばあちゃんから 私が与えられたものは、 けっして 色褪せない。 忘れない・・・いや、覚えているというより、消えないという方がいいのかもしれない。
私が生きている限り、、、(いや、私の娘も、) おばあちゃんの 愛情を、強さと優しさを 私は体現していくだろう、 そうできることを願っている。
おばあちゃん、いろいろ 私に与えてくれて、 私を育ててくれて、ありがとうね。
 
映画の最後で、 男の子が、おばあちゃんに 「ごめんね」 とジェスチュアーをしたけれど、私も、、、おばあちゃんには、”ありがとう”より、「ごめんね」を言えなかった、言わなかったように思う。
ありがとう・・・おばあちゃん、たくさんの愛をありがとう、
それから、、、「ごめんね」 おばあちゃん、ごめんね。 我がまま言って ごめんね。 心配かけてごめんね。 口ごたえして、文句ばかり言って ごめんね。 もっと優しくできなくてごめんね。
おばあちゃん・・・・ごめんね、、、、、おばあちゃんの 願いを かなえてあげられなくて、ごめんね。  ごめんね。 
もう遅いって解かってる・・・ でも、ずっと 後悔してきた。 あの時、どうして、もっと おばあちゃんの気持ちになって おばあちゃんの希望をかなえようと頑張らなかったのか、後悔してる。
ごめんね、おばちゃん・・・・ たくさん もらったのに、何も 返せなくて、、ごめんね。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2006/10/14

温かいスープ(中三・現代国語教科書より)

「温かいスープ」という 作品が、中学三年の、現代国語教科書に載っている。
著者は、今道 友信 さん。
彼が、戦後 昭和三十年代に、パリに住んでいた頃のエピソードだ。
その当時、通っていたある食堂での、できごと・・・「温かいスープ」を 味わったことが書かれている。
 
おそらく、厳密に言えば コピーライトの問題などがあるだろうから、ここで 全文を写すことはしないが、最後の方の数行を
紹介したい。
 
「 ~ こうして、目の前に、どっしりとしたオニオングラタンスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。
 涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらいめに遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切の
ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。
 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。
それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。 その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、
口ごもり恥じらいながら示してくれたあのひとたちの無償の愛である。 ~後略 」
 
 もし、近所に 中学三年生がいて、光村図書の 現国の教科書を使っていたら・・・ ぜひ、読んでみてください。
 胸がつまるほど・・・ 私は、 嬉しいとともに、現実が 哀しく、 しかし、涙が出るほど、 この ”人類に絶望することはないだろう” という
人々の さりげない 優しさが この社会に生きていることに 感謝を覚えたのでした。
 
 
2006/6/2

気になる男の子 ① ヒロ君。

出来の悪い子ほど 可愛い.・・・ なんていうのは、最近は、言わないのだろうか?!
どの親も、”良い子”になるように、子供を 育てようとする・・・。
それは、それでいいのだけれど、 やっぱり、どの親子にもそれなりに 葛藤はあるのだと思う。
 
 さて、
私の子供は、女の子なので、 ”男の子”と話すチャンスというのは、意外に少ない。
思い起こせば、娘が 幼かった頃は、男の子も女の子も 一緒に 公園や砂場で遊んだり、
お誕生会に招かれたりしたけれど、個人的に遊ぶ相手となると、オンナの子の方が やはり多いことになる。 
それでも、うちは、小学校に入ってからも、オトコの子の友達との行き来が多かった方だろう。
ウチに遊びに来たいと、クラスの男の子が言っていると娘に言われた時には、ちょっと驚いた。
娘も、オトコの子の家に、ぜんぜん 違和感なく遊びに行っていた。
                                   ---日本に帰って来るまでは・・・・。  
 
そんな私には、時々思い出す 気になる男の子が何人かいる。 
前に書いたパトリシアの息子たち(前のブログ ”友達①”、カテゴリー【ありがとう】参照)、ハンサムな セバスチャン と ステファン兄弟も気になるけど、彼ら以外、そして、娘のボーイフレンド(日本に帰国してからは、縁遠くなったみたい・・・)以外で、”理由は解からない”・・・なのに気になるという 男の子の話をしたい。
 
むかし、、、まだ娘が幼稚園にも行っていなかったころ、住んでいたのは横浜市だったのだけど、
同じ集合住宅に住んでいた ”ヒロ君”という 男の子がいた。
ヒロ君には 2つ年下の弟がいて、ヒロ君は、ウチの娘より 4つか5つ、年上だったと思う。
残念ながら、弟の方は、名前さえ思い出せない。
年齢差から言ったら、弟の方が 近いのだけど・・・。 
この兄弟とうちの娘は、いっしょに遊んだことというのは、ほとんどなかった。
同じ敷地で 遊ぶから 顔を合わせたこともあるし、ヒロ君の家に1度、遊びに行ったことがあるくらいで、声をかけあって一緒に遊ぶという関係ではなかった。
なのに、なぜか、ヒロ君は、私の記憶に残っている。
私が観察した限りにおいて、ヒロ君は、乱暴でもなく、おしゃべりでもなく、無口でもなく、のろまでもなく、生意気でもなく、汚いことをすることもなく、小さい子供を虐めることもなく、うるさくもなく、
つまり、私から見て、もし、娘が一緒に遊ぶとしても、問題が何もない男の子だった。
それどころか、私が ヒロ君に 惹かれた一つの理由は、彼が、木登りをした・・・・ことなのだが、
活発で、よく外遊びをしていて、彼から にじみ出てくる子供らしさが、私の注意を ヒロ君に向けさせたのかもしれない。
ヒロ君のお母さんは、それなりに大変なこと&悩みもあったようだし、また、兄弟喧嘩もあるようで、
 『大変なのよ~、男の子って、女の子と違って、普通に言って聞かせてもだめなの。迫力がないと、言うこと聞いてくれないのよ~、女の子を持つお母さん達は、なんでミンナあんなに優しい声で
”だめよ~”って叱っていられるのかなあ、って不思議に思うわ・・・。うちなんて、怒鳴らないと駄目だもの。男の子相手のお母さんと女の子相手のお母さんって、ちがうなあ~って思うわ~』などと、
ヒロ君兄弟の 子育ての大変さを 時折 話しておられたが、お母さん自身が 明るい感じで
大らかそうでもあり、私から見たら、”子育て上手なママ” に見えたものだった。
 
もともとヒロ君のお家、山○さんちとは、それほど親しくなかったので、私たちが引っ越す前に、山○さん宅が 転勤で引っ越して出られて以来、このヒロ君が今、どこで何をしているのかは、わからない。 
 でも、ガキ大将でもなく、女々しくもなく、・・・明るく、”おばちゃん、見てて!”といって 木に登って見せてくれたヒロ君が、どんな若者に <そろそろ大学生のころかなあ~> なっているのかなあ~と
思うと、なぜだか、”がんばってね~”と 彼に向かって心の中で 唱えてみたりしたくなる。
どこで 何をしているのか解からないけど、元気でいてほしい・・・。
あの頃、言葉もうまく通じない2、3歳のうちの娘を 虐めることもなく 適当に相手をしてくれた・・・ 
ヒロ君、ありがとうね。 
木の上で 得意げに ポーズを取っていた ヒロ君の姿は、今でも、忘れない。 
 
2006/3/4

友達 ② Happy Birthday

大人になると、友達といっても、学生の頃よりも 年齢幅が広くなる、、と思われる。
今日は、私より15歳ほど年下の Lara という友達のことを 思い出していた。
なにより、今日は、彼女の誕生日だ。
 
 私が彼女と出逢ったのは、通っていたダンススタジオでのこと。 私が、そこに通い始めて二年ほどした頃だっただろうか、彼女が、レセプションで受付として働き出した。 私が知っているだけで、4人目のレセプショニスト・・・。 当時、私は、娘のタップダンスも含めると週に2~3回は、スタジオに通っていた。 あの国での、第二の家みたいなものだ・・・。
 新しく来た、彼女は、昼間は大学に通い、夕方から夜10時頃まで受付のバイトだった。 
少しずつ、話をするようになって判ったことだが、彼女は、大学の授業料を自分で働いて工面しているため、一年もしくは、半年働いて、そして 学校へもどり、また、働いて、また戻りというくり返しで、ようやく 3年を終えた所だった。 あと一年余となったので、掛け持ちにしたのだそうだ。つまり、人の倍の時間をかけて卒業を目指していた。 アラブの国において、夜10時まで働ける女性というのは、限られているため、自給もそこそこ悪くないらしかった。ただ、逆に、”女の子が夜遅く働いている、しかもダンススタジオなどといういかがわしいところで・・・”という嬉しくない評判が立つのは、覚悟していた。
では、なぜ 男性のレセプショニストではないのか?! う~ん、難しい。が、私は、そこに四年余通ったが、男性が受付にいたのは、”夏休み”の一時期だったり、インストラクター兼DJ兼、人がいないから仕方なく・・・というものだったり、、、。もしくは、単にオーナーが、オンナの子の方が、いいと思っていたのかもしれない。
 
前回書いたことだが、なぜだか、私にとって 友人になる人とは、第一印象や初めの接触が とても好いよりは、少々 クセがある方が、あとあと仲良くなる率が高い・・・。 
この Lara とも、例外ではなかった。 初めから、仲良く親密だったわけではない。
彼女は、レセプショニストとして、大事な常連客である私をフレンドリーに、そこそこ上手に扱ってくれていたが、ある日、暇にまかせて、ちょっとした込み入った話をしたことが わたし達が親しくなる始まりとなった。 しかも、初めは、不味い雰囲気で会話が終わったのだった・・・。
 
私は、クラス後、時間があるときは、受付のある待合サロンでコーヒーを飲んで、その辺の雑誌から目ぼしい情報を得たりして、少し休んでから帰宅することにしていた。 そんなある時、Lara と話をしたのだ。 話しの流れは、忘れたが、私が彼女に、「 イスラムでは、ムハンマドが最後の 預言者とされているけれど、そんなことはなく、現代も預言者とは呼ばれてはないけれど、神の存在やあちらの世界とコミュニケーションをする人というのは、いくらでも現れている。ただ、それを受け入れるかどうかなのだ。 クリスチャンにおいてのキリストであり、イスラムにおいては、ムハンマドが最後なのかもしれないが、それが 絶対の最後ではない。」 というようなことを話したのだと記憶している。 なぜ、そんな種類の話しになったのか、今となっては詳しくは、思い出せないが、彼女が私の読んでた本について、それは何の本かと聞いてきたので、その内容を・傾向を話したのだ。 邦題:「神との対話」の book 2 か、3を読んでいたのだと思う。 ところが、彼女は、私の話を聞いて、かなりアプセットしてしまったようだった。
私も、途中から、彼女の顔色が変わったので、不味いな~と思ったが、ウソをついているわけでもないし、作り話をしているわけでもないので、”結局は、その人が、何をどう受け留めるか次第なのだと思うわ。”と、話をまとめたのだが、彼女は、あきらかに、私に反論しつつも、(少し、涙ぐんでさえいた)
私の話を打ち消すことはできないようだった。 ただ、彼女は、”イスラムでは、ムハンマドが最後で、それが全てだといわれている”と、私がそれを認めるように、繰り返した。 別に私は、宗教の勧誘をしているわけでもなかったし、イスラムを否定するつもりもなかったので、”そうね、イスラムではそうね。 でも、この世界にはそうじゃない人々もいるでしょ? もし、アッラーが 慈悲深い神だったら、そんなふうに、人を分けるかしら? あいにく私はムスリムじゅないから・・・。あなたの気分を悪くしたのなら、ごめんなさいね。でも、世の中にはいろんな考え方があるわ。” と スタジオを後にした。 
 
正直言って、後味は悪かった。 自分の考えを取り消すつもりはなかったが、彼女があそこまで
過敏に反応するとは予想外だったので、宗教的に踏み込みすぎたかな、彼女の気分を悪くさせるつもりはなかったのだけど、困ったな・・・と。あんな若い子を相手に、神様を論じたところで、相手は、ムスリムだ・・・こちらの考えを理解してもらうのは、(日本人相手でさえ、難しい場合があるのに、)困難だろうと思った、話すんじゃなかったかな~、適当に流せばよかったのかな~と。 例えば、外交の世界では、宗教と政治の話しは、タブーとされている。 外交でなくても、異文化の異民族が話をする場合、感情論に走ると、収集がつかなくなる。 宗教は、その最も危険なお題目なのだ。 私は、宗教論を話していたつもりはなかったが、神様というのが絡むと、残念ながら宗教がかってしまう。
しかし、宗教といっても、わたしには、宗教はないも等しいので、それを彼女に説明したかったのだが、それが、どうも、イスラムの否定=彼女の信じているものの否定に 受け取られてしまったようだった。
 そして、次回、スタジオに行った時、ちょっと顔を合わせるのは、躊躇われたが、ここで私が彼女に対してヘンな態度をとったら、ますます気まずくなるともったので、あえて、明るく、前と変わりないように、挨拶をし、話しかけた。意外にも、彼女も、前回の 涙ぐんで、”貴方の言っていることは、違うわ!”という少し攻撃的な物言いは、消えていて、わだかまりなく話し返してくれた。
その後、わたし達は、宗教を越えて、いろんな話をするようになった。
特に、娘がタップダンスをしている間、 Lara が、私に話し相手になってくれというので、そういう時間に恋愛問題から、彼女の家の話、将来のこと、そして、宗教のことまで、いろんな話をした。
宗教といっても、彼女が疑問に思っていることを聞いてきて、私が私の知識でそれに応えるといった程度だ。 輪廻転生について、精神世界=ニューエイジについて、特定の宗教にこだわらず、人日々の生活の中で祈りをどう役立てるか、、、などなど。 輪廻転生で、彼女は、「転生するのに、どうして、現代は、人口が多いの? ってことは、あの世の魂の数は、減っているの?」などと 率直に疑問を私に投げ掛けた。 そして、私がそういう彼女の疑問のあれこれに、ことごとく答えるものだから、しまいには、彼女も、面白くなったのかもしれない。 疑問が解明されるのは、楽しいことだ。また、恋愛問題では、国や民俗が違っても、恋する余に、悩みが増えるのは何処も同じで、毎週のように、あれこれ 相談を受けた。 セックスなどについても、あちらの国の若者の事情なんかも聞けて、私にとっても周囲を知るいい機会だった。
あるとき、彼女は、私が読んでいた 『 Journey to the Heart / Daily Meditations on the Path to Freeing Your Soul 』という本にとても興味を持った。 後に私は、旅行の際、別の国でそれを買って、彼女にプレゼントした。  初めのきっかけを作った『Conversations with God 』 (Book 1) もプレゼントした。
 実は、彼女の母親は、クロアチア人で、父親はヨルダン人。 母方はクリスチャンで、父方は、ムスリムだった。 彼女は、10歳ころまでクロアチアで生活していたのだが、その後、父の国に移ってから、クリスマス・ツリーを飾れなくなって悲しかった、と残念がっていた。 彼女は、おそらく、必死でイスラムに溶け込もうと、周囲からの圧力もあり、自分はムスリムなのだと、自分に言い聞かせて成長してきたのかもしれない。 その彼女が、必要に迫られて自分のモノとしてきたイスラムのビリーフを 私が、打ち砕いた(?)ようなものだった。 そんなわたし達の始まりだったが、彼女は、日常生活情報、アラビア語や、若者の話、ダンススタジオの人々のゴシップなど、いろいろ教えてくれた。 
もちろん、私の知らなかったイスラムの側面も教えてくれたのだ。 スタジオの外で会うこともあった。 
 
 他の若者に洩れず、彼女も、この国を出たがっていて、卒業後のある時、アブダビのお姉さんのところに数ヶ月、出産の手伝いに行くことになり、とても喜んでいた。仕事が見つかれば、そのままアブダビに定住したいとさえ言った。 が、結局、仕事は見つかったものの、アパートの家賃などの経費を払うと、あまり余裕のある生活ができない、そうかといって お姉さんのところにずっと居候はできない、などなどで、半年弱で戻ってきた。 が、仕事は、スタジオのレセプションではなく、別の所で秘書のような仕事を見つけたとのことで、喜んでいた。 ようやく、少しキャリア・アップできたわけだった。
その後、また転職し、去年は国際流通関連のアラブ諸国でかなりの大手の会社でレセプショニストとして働いていた。
 
  年齢差はあったけれど、こんなふうに、わたし達は、友人関係を育んだ。 Lara は、うちの娘のこともとても可愛がってくれた。 アラブの若い子の話は、どこまでが 本当で、 どこからが、見得なのか、測るのが難しい事がある。 彼女の場合も、そうだった。 え~?そんなことがありえるの?という話(恋愛面)もあったが、 その話が真実だろうと、多少、脚色されていようと、わたしには関係のないことだった、ただ、彼女が ”what do you think ? ” どう思う? と聞いてきたら、それに対して、私の考えを率直に、答えた。 彼女の周りが出すステレオタイプの答えと 違う答えを私がすることがあるので、その刺激や、彼女の言動を宗教的観点から批評しないところで、かえって、ほっとしていたのかもしれない。 
 
そんな彼女は、今、結婚して、ザグレブ(クロアチア)に住んでいる。
去年、会った時、夏になったら休暇をとって、クロアチアに行くんだと彼女は話していた。
その休暇の時、出会った相手らしい。 二ヶ月の休暇の後、彼とともに帰国した彼女は、家族に紹介し、(結婚式もせずに、) クロアチアに移って、11月、結婚生活を始めたそうだ。
今日、電話で 話して 聞いたのだ。
相手は、クリスチャンだという。  そっちの生活はどう?と 聞いたら、仕事はしていなくて、退屈なのよ~といいながら、まんざらでもない感じだった。 
 
今日は、彼女の誕生日。 
実は、ふと思い出した彼女のことが気になって、Happy Birthday を 言いたくて、彼女の自宅に電話をしたら、お父さんがザグレブの連絡先を教えてくれた。 
「 君は、ラーラの、日本人の 友達だね、」と、直ぐに判ってくれた。 私は、つたないアラビア語を思い出し、電話番号を復唱し、アリガトウ ( shukran )を繰り返した。
そして、私は、ザグレブに電話をした。 インターネットカフェが近所にないので、メールを送れなくてごめん・・・と彼女は言った。 携帯のテキストメッセージは、どう?と聞かれたが、日本は無理なのだ。
携帯電話のSMSが、日本の周波数ではあちらのようにはできないのが、残念だ・・・。
でも、わたし達は、”先週の土曜日にスタジオで会った”時のように、話ができた。嬉しい。
 
5年前、彼女の誕生日に、私が 彼女に見せた 『 Journey to  the Heart 』の 
三月三日の部分・・・。 
 
March 03.  【 経験を大切に・心に留めおこう、】
 Treasure Your Experiences :    
Gather experiences. Treat them as precious jewels.
The purpose of the journey is not to guard and restain yourself.
The purpose is to learn. You do not teach and lead your soul. Your soul leads and teachs you. It takes you wading across streams, strolling through meadows, deep into valleys, and high onto mountaintops.  = 中略  =
 Gather experiences. Go through them. Select the gems from each.   =  中略 =
Then, when you break bread and sip soup with others, open your heart and joyfully share
what has happened to you along the way.  
 
Having experiences is called living.
Sharing experiences is called loving.
Let yourself enjoy both.
 
【 経験することは、生きているということ、経験を分かち合うことは、愛し合うということ。
 さあ、生きて、愛し合て、人生の経験を、楽しみましょう。 】
 
彼女と、こういう分野の話をすることができるようになるとは、、、、出逢った頃には、想像できなかった。 が、 彼女は、わたしにとって、数少ない、心と魂の話ができる相手となったのだ。
 
ラ~ラ、お誕生日、おめでとう!  そして、元気でね、また、会う日まで・・・。
 
  
2006/2/22

友達 ① my dear friend

 
 私の勝手な思い込みなのだろうけど、私には、相手の第一印象・相手との初めの感触がとても良かった相手とは、長続きしないというか、第一印象が 良くないほうが、後から仲良くなって長続きする確立が高い・・・というヘンなジンクスがある。 私の友人・知人(苦手な人を含めて)の、10人が、10人、これに当てはまるかどうか、印をつけているわけではないので、絶対とは、言えないが、このような傾向があると、ずっと感じてきた。 理由は解からない。
 
これは、日本人相手でも、外国人相手でも、同じだ。
 
 つまり、、、初めに”もしかしたら、こういうタイプの人とは、合わないかもしれない・・・”なんて 
思った相手に限って、意外や意外、その後、十年以上も親密に付き合える友達になっていったりする。 現状をみても、第一印象からして 好かった、& その後も好い仲で 付き合いが続いたという友達は、わずかなのだ。 また、フレンドリーすぎる相手には、要注意、っていうのも、ある時点で、学んだ・・・・。 私は、すぐに、心を打ち明けてしまうというか、素をさらけ出して本音の話をしてしまうので、単に調子を合わせているだけの、”浅く・楽しい”つきあいを望んでいる相手とは、結局上手くいかないことが多い。 無意識ではあっても、一呼吸置いて、接触を試みた相手との方が、親しくなれる。
 
ただ、、、とても親しく付き合っていても、引越しなどで、縁が薄れていくこともある。
一期一会とは、いうものの、 会えなくなってからも、連絡が取れたら嬉しいと思う。
もう二度と地球上で 会うことはないかもしれないが、どうしているかな~と 思い出したりする、そういう友達が何人かいる。 また、会えるか、会えないか、会える距離にいるかどうか、それは別として、
私にとって 私の心の、ちょっと特別な位置にいる友人のことを 書いてみたい。
 
 
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 コロンビア人の パトリシア、、という友達が、最近、無性に懐かしい。 
(( 注: 私のブログにある『月のない夜・未来のない恋』のOscar とは、全く無関係の人です。))
 
 前に住んでいた国で、彼女とは、婦人むけの、ある”クリスマス・ランチ”で 出あった。
席は、自由だったので、私は8~10人がけの 丸○テーブルに、他の日本人女性と供に座った。
わたし達の向かい側に、金髪+少しダークの混じった髪の西洋人女性が座っていた。
 日本人女性4~5人が、日本語で ぺちゃくちゃ 話しているテーブルのその反対側に座っていた彼女は、私が、久しぶりに、見た”美人”だった。 冷たいくらいに キレイな横顔とでもいおうか、本当に、美しい顔立ちで、正直に言うと、ツン!とすました感じさえしたのだ。 
何人なのか、見かけでは判らず、顔のパッと見では、フレンドリーな笑顔・・・というのはなかったが、話しかけてみるまではどういう人か判らない。 黙って、解からない言葉を聞きながら、じっと1人でいるのは、つらいものだ。 同じテーブルにいながら、ひとりで座っている彼女を放っておくのは、悪い気がした。 それで、話し掛けることにした。 こういう、人に話しかける時、私は、あまり 躊躇わない。 
初対面なのだから、お決まりのパターンだ。 「何処から来たの?」 である。
 
私は、英語で 「Where are you from?」 と話し掛けた。
意外にも、彼女は、コロンビア人だった・・・。欧州のどこかの国だろうと思うっていたので、意外だった。
名前は、パトリシア。 メキシコ人の友人、クリスティーナに誘われて、このランチに参加したのだが、クリスティーナがまだ、来ていないのだった。
その後、クリスティーナが到着し、ランチの合間に いろいろ話しをしたところ、パトリシアと私の住んでいるところは、けっこう近いということが判って、わたし達は、電話番号を交換した。 
子供が二人いて、彼女の子供は、フレンチ・スクールに通っている、彼女の夫はフランス人、この国に来たのは、数ヶ月前、そんなことが 解かった。
ただ、彼女は、あまり英語が 得意ではなく、私のスペイン語は、挨拶の域を出ないので、
クリスティーナなしの会話で、どれだけ 意思の疎通が量れるか、多少、不安でもあったが、
今度、お茶でもしましょうと、”社交辞令”のような、パーティの最後の決まり文句で、別れた。
== こういうとき、Oscar と付き合っていたときに、ピックアップした 言葉だけは、出てくる。
そして、あの時、もっとスペイン語を覚えればよかったのに・・・とこういう時に必ず、思う。 ==
 
それから、新年が明けて、少しした頃、我が家の電話が鳴った。 午前10時半頃だっただろうか、
パトリシアだった。 「Hello ~」と、話しはじめて 直ぐには、判らなかったが、「コロンビア人の~」と言われて、あああ~~~~! Yes, I am fine, and You? である。
その日の午後、お茶に来ないかと 誘われて、私は彼女の自宅へ行くことにした。 
娘が帰宅するまでの、2時間ほどだが、彼女の家までは、車で5分の 距離だったので
二時間もお茶ができれば、充分だと思った。 
 
この日から、 私とパトリシアは、 英語とスペイン語の ちゃんぽんの不思議な会話をしながら、
たまにお茶をするようになった。 お茶といっても、たいてい、彼女の家に行って、彼女のいれてくれる
コロンビアン・コーヒーを 楽しむ・・・というものだ。 
彼女の2人の息子達とも 顔見知りになり、ウチの娘も、たまに一緒に遊びに行くようになった。
いっしょに ゲームなどをして 喜んでいた。下の息子、ステファンは、低学年だったので、午後早く帰って来るときは、いっしょに迎えに行ったりした。 
彼女の息子達は、とてもハンサムで、特に 上のセバスチャンは、学校で英語を学んでいるおかげで
面倒な会話は、彼に通訳してもらうこともあった。 
中学生にして、仏、西、英語に堪能だというのは、羨ましいかぎりだった。
彼女は、国に里帰りしてくると、必ず、コロンビア・コーヒーを買ってきてこれた。
また、彼女の家には、中南米&スペインの女性が 遊びに来ていることが多く、そんなときは、
私は、全身を耳にして、スペイン語を 聞くのだが・・・・ ほぼ 解からない・・・・。
それでも、ひとしきり、スペイン語会話が終わると、その中の誰か、英語を話せる人が、私にいろいろ話をしてくれたり、通訳してくれたりした。 
パトリシアは、別の南米女性、ロクサーヌと一緒に、フランス語を習いに通っていたのだが、フレンチ・カルチャー・センターが催している”モザイク実演&展示会”に一緒に行こうと、私を誘ったりした。
三人でタクシーに乗って、ダウンタウンの方へ行ったのだが、私が普段、行かない地域なので、ちょっとしたドライブ気分でもあった。 
また、あるときは、子供の癌患者のために、病院へ玩具を届けるというチャリティをしているグループに
玩具を届ける日に当たったこともあって、”一緒に来ればいい”と 引っ張られて、それこそ、
スペイン語圏レイディ~ズ 集合みたいな所に 一緒に行ったこともあった。 
 EU代表部から駐在していたスペイン人のご夫人とも、パトリシアを通じて知り合ったのだが、彼女の御宅での ”お茶”にも招かれて、行ってみたら、私以外は、み~んなスペイン語圏の女性ばかりだった、ということもあった。 それでも、そういう場に参加していると、いろんな耳寄り情報が入ったりして、助かることもある。民族によって、持っている生活圏というか、必要としている情報が異なったりするので、日本人同士からは得られない情報も多かった。 モザイク展のように、日本人同士の情報からは、得られないテリトリーの差というか、私の行動範囲も広がった。
スペイン語は上達しなかったが、楽しかった。 
 今思うと、どうやって あれほどの意思の疎通を量っていたのか、自分でも不思議になる。
だが、大した話をしなくても、難しい単語を使わなくても、わたし達は、お互いが そこにいることが
苦にならなかったようだ、たとえ 言葉が うまく通じていなくても。。。
同じ日本人同士で、日本語で充分、意思疎通が量れるのに、親しくなる人もいれば、そうでない人、考えが合わない人(言葉が通じるゆえに、好き嫌いがハッキリしてしまうのかもしれないが・・)もいる。 言葉ができるに越したことはないが、言葉だけが、親しくなる要素ではないと、パトリシアとの 付き合いを通じて、私は、そう思うようになった。
昔、まだ、ろくに英語が話せなかった頃、それでも英語で四苦八苦、他国の友人とコミュニケーションをとっていたことを思えば、それは、当然なのかもしれないが、 同国人・同国語を話す人が周囲にいるという環境で、あえてパトリシアの家で、コーヒーを飲むことが、私にとって。とてもリラックスできる時間であったことは、人間関係・友達関係というのは、言葉以上のというか、言葉の他の何かが
あって、うまく育まれるものなのだろうと、思うのだ。 
 
 英語・スペイン語、スペイン語・日本語の辞書が我が家にはあったので、辞書持参で彼女の家にいくこともしばしばあった。 彼女と2人きりの時は、買い物の話をしたり、彼女たち家族が以前、滞在していた国、ウクライナの話を聞いたり、休暇の話や、彼女の息子の学校での話をきいたり、とりとめのない日常のことから、外国人ゆえに ==私も、彼女も、その滞在国においては、外国人であるので== 抱える不便さや不満、(それでも、日本という国籍と、コロンビアという国籍での違いがあったりする、) 習慣の違いで 戸惑うことなど、愚痴まじりの話もした。
あるとき、彼女が買い物に行きたいと言っているのは解かったのだが、うまく言葉が通じなくて、実は、”時間があったら、今度(=次回) 行こう、”という意味で、私は話を聞いていたところが、彼女は、”次=この後すぐ 時間があったら 行こう”という意味で話していたようで、”well, let's go !”といわれて、えっ?と思いつつも土砂降りの中、彼女を地元スーパーへ買い物に連れて行くことになった&行ったことがあった。 (彼女は、運転しないので、雨の日の買い物は、大変だった。彼女の夫は、隣国で仕事をし、数週間に一度、週末のみ、帰宅するので、普段は、彼女ひとりで家のきりもりをしていた。) 私に急ぎの用があるわけではないから、2時間余計に外出したところで、我が家の夕食が遅くなるだけ・・・その日、娘は彼女の息子さん達と遊んでいるし、ま、いいか~、と予定外の買い物。 ひとりで雨の中、タクシーを拾って買い物に行くだろう彼女を想像する方が、辛かった。車を運転しながら、これっぽっちのことでいいのなら、私のできることなら、手伝おうと思った。 
いつもの美味しいコーヒーのお礼だ・・。 
そんな言葉のすれ違いも、何度かあったが、不思議とイヤではなかった。 
彼女の家の裏庭に住みついた捨て子猫たちは、遺伝的なもののせいで目が悪く、そのネコたちの目の手当てをするため薬局から点眼薬を貰ってきて世話をする、そんな彼女だった。 
 
我が家よりも早く、彼女達家族は、転勤になり、エジプトへ移動したのだが、半年ほどで事情が変わり、本国《フランス》へ帰っていった。 私と彼女の、あの土地での付き合いは、二年半ほどだった。
その後、何度か メールのやり取りをしたが、私が帰国してからは、途絶えてしまっている。 
彼女とのことを思い出すとき、 私と彼女を結びつけたのは、なんだったのか? 
今でも不思議に思うことがある。
彼女には、同語圏の、私には日本人の、他の友人たちがいた。
けれど、言葉の たいして通じない状況であっても、一緒に過ごす時間が楽しい、と思える、
そんな貴重な体験を私に与えてくれたパトリシアに 私は、感謝の気持ちでいっぱいだ。 
 
 
 
 --- そう、私が持った、彼女の第一印象は、 とっつきにくい感じの、すました美人・・・でした。
   まちがっても、”この人と、友達になりたいわ~”と、話し掛けたのではないのです。 
   だから、縁というのは、不思議です。 ☆☆☆☆☆ 
 
2006/1/1

手紙

 
大晦日、今日、また机の中の、茶封筒を取り出した。
 
それは、私が一度は、失くしてしまったか、と心配した、祖母からの手紙が入ってる封筒。
 
東京でOLをしていた頃、実家の母や父から手紙が来ることがあり、その中に、たまに
祖母からの手紙も入っていた。
 
祖母からの手紙は当時から、読むたびに、私は胸が熱くなり、涙があふれるものだった。
 
けっして 長い文面ではなく、厳しいことばもなく、四字熟語のようなかしこまった”諭し”もなく、
ただ、ただ、 風邪をひかないように、とか、体に気をつけて、とか、そういうことが書かれている。
「お前は、はりはりが好きだったから、入れてあげましょうね」などと、いうことも書かれている。
”はりはり”というのは、私の住んでいる地域では、ある種の佃煮のような、漬物のような、そんなかんじのお惣菜で、年末になると祖母がよく拵えてくれた。 私の仕事場は、年末が超忙しい時だったので、
就職してからは正月に帰省したことがなかった。その前は、米国に行っていたりしたので、かなり長い間、実家での正月を迎えることがなかった。
 
そんな時期の、祖母からの 短い、 そして、、、、ひらがな だけの 手紙。
 「あれこれ まよわず こうときめたら それをしっかり べんきょうしなさいね。」 というようなことが
 毎回書かれていた。 もう、学業から離れていた私にであっても、そう、書いてきた。
 
今になっても、とても 心に響く言葉である。
人生、死ぬまで 勉強である。 学問だけが勉強ではない。
 
「人生という名の学校」に人は生まれてきて学び、そして課題を終えたら、卒業(他界)するのだ、と
いろんな人が表している。 反論はしない。 が、私は人生を学校とは、思わない。私の捉え方とちょっと違うから・・・。
ではあるが、確かに、わたし達は、 人から学ぶ、状況から学ぶ、いろんなことが 日々、学びである。
育児をしても、それは 育自であり、子供から学んでいることも多い。
人生が 学校のようなものだと、祖母が思っていたかどうかは判らないが、それでも、明治生まれの祖母が書いてくれた ひらがな だけの、 文字の揺れる 文章は、 読むたびに涙がでる。
小学校しか 出ていない祖母の、、、子供に、孫に、より良い、より広い機会を与えたい、支えたいという 気持ちが、いたいほど解かるから・・・。
そして、 あの頃は、 ”おばあちゃん、私は学校には行ってないよ、仕事してるんだよ、”なんて
手紙を読みながら、つぶやいていたけれど、 ”あれこれ迷わず” という所は耳が痛かった・・・。
”ゆうわくにまけないように”と書かれていたこともあった、切ない・・・。
私は未だに、自分が何をすべきなのか、何のために生まれてきたのか、自分は何が出来るのか、決めかねている。 何でもできそうなのに、何が自分にとって天職なのか、感じられないまま20代を過ごした。そして30代も、自分に目を向け始めたものの、何をしたりいのか、判らずにいる。
そして、手紙には必ず、”毎日 神さまに 拝んでいるから、”と書いてある。それが私を涙させる。
 
もっともっと、祖母の話しに耳を傾ければよかったと、今、悔いても しかたがない。
 
なぜだか よく解からないけれど、辛くなるのを覚悟して、私は、帰郷のたびに、これらの祖母からの手紙を読み返す。 
 
ひらがなだけの 手紙。 震える文字。 それが 余計に わたしに 反省を促す。 
しっかり、 迷わず、自分の道を歩きなさい、、、
それが、 人生の 生き方であり、逝き方になるのだと、、、、。
 
新年は、さらに、迷いを捨て、自分はどうありたいのか、どう生きたいのか、しっかり考えてみたい。
そして、 迷わず、実行できるように、、、おばあちゃん、見守っててください。
 
2005/11/18

初添乗

 
今朝の NHK朝の連ドラ「風のハルカ」、、、 ハルカさんの初添乗でした。
ハルカさんは、【大阪こてこてツアー】という一日周遊バスツアーの添乗でした。
 
さて、、
私の初添乗は・・・・
ああ、もう何年前になるのかな~。
新婚旅行のみなさんをお連れしての、カナダ、スキーツアーでした。 
成田空港、、、さすがに緊張しましたね~ カウンターのあれこれはもう慣れていたけど、
お客様に説明だけして、『行ってらっしゃ~い!』っていう今までのお仕事とはちがって、
このまま、一緒に飛ぶのだから・・・・。
あ、私ね、スキーは 当時、初心者に毛が生えた程度・・・。 
でも、現地には、すっごーい スキーガイドがいるから、スキー場では大丈夫。
 
思い起こせば、
みなさま、お世話になりました
私が お連れした新婚旅行の方々の中には、北海道の、スキー指導員というご夫妻がおられて、
奥さんのほうは、学校の体育の先生、ご主人の方は、会社員・・・。
 
そう、その北海道のご夫婦には、私、スキーの指導もしていただきました。
年齢も、そのご夫妻の方が上で、、、人生経験ももちろん、あちらの方が上で、、、
私のとりえは何? 英語がちょっとできるってことと、ツアーのあれこれに勘が働くって事?!
それでも、温かく私の初添乗を 見守っていただきました。
ほんとうに、 ありがとうございました
 
PS: ホテルのロビーにあった長~いベンチで、 
新婚さん、みんなが、それぞれ”彼の膝に彼女が抱っこされて” というポーズで一緒に、
写真撮りましたね^^。 みなさん、お元気でしょうか~~?!
別れちゃった方もおられるかな? --- それぞれだと思いますけど、お幸せでありますように。。。
 
 
 
2005/8/5

ただいま & 休暇のまとめ 

 
私のブログに 来てくださる みなさま、 いつも、 ありがとうございます
 
約10日ぶりに PCの前で ブログを ちらちら みております。
 
ちょっと、体力的に 疲れております。 休暇のおかげで、メンタルには、結構元気になったつもりですが、さすがに、旅の後で、この 蒸し暑さにもどってくると・・・・・ いや~~ 疲れ倍増!!!
 
今日は、取り止めの無いことを ぼろぼろと・・・。
 
 
☆ いや~ 今回は、 古巣に 旅行に行く& 古くからの 親友に会いに行く ということで 油断してしまって、 到着時に 現地通貨の現金が、ゼロ! ま、到着したら、換金すればいいや~って思ってたから・・・・。国際線ターミナルから 国内線に移動するための通貨=現金がなくて、・・・というか、そういうお金が必要だってことさえ忘れてた・・・国際~国内移動したことなかったから・・・・直で、飛んでばかりいたから・・・・ で、 見知らぬ 赤の他人 に 、移動のシャトルバスの中で、お金を恵んで貰いました。
 
ほんとうに、 アリガトウございました! 
 
どこの誰か、 お名前さえ わかりませんが、バス内で困っていた私たち母娘を救ってくださった、あの女性!!!日本円にして約800円、ほんとうに、助かりました。 
今後、あなたに何かの助けが必要な時、
宇宙の計らいで あなたに必要な助けが与えられますように・・・・。
それから、私の エンジェルが アナタを 救いに 行きます。 ありがとうございました。 
 
 
この 赤の他人である女性に 「お金貸してください」って 私が言った時、娘は、なんと恥ずかしいことをこの母は言っているのだろう?!と 「何言ってるの!」と 辞めさせようとしたのですけど、このバスを降りてしまうと、乗り継ぎ便に 明らかに 間に合わず、バスをここで降りるわけにも行かず、万が一、このままバスがターミナルに着いても乗り継ぎ便に間に合わないかもしれない くらい ぎりぎりになっていたのだけど、便を仮に変えるとしても、むかえに出てくれる予定の友人に連絡する術がない!という大問題が残っていて・・・・。ほんと、あの時は、恥ずかしいとか、そんなことを冷静に考える余裕が皆無でした! ただ、 いまさら、だからいえるのですが、ああいうときの、何も考えない時の優先順位っていうのが、本当に 優先されるべきことを 無心で 選んでいる・・・のだとも 思います。 
 
 
☆ 今回は ソウル経由で 行きました。 ★★★ 成田空港より ずっと 使い勝手が
好かったなあ~ 
帰路は、なんと、 到着便が遅れたので、 トランジットが 30分しかなく、内心焦ったけど、
  スルーの バゲージも、すべて 成田に無事に 届いたので、よかった、よかった (拍手~!)
  終わりよければ、すべてよし、ってね★ これ、シェークスピアでしたっけ?!★☆★
 
 
☆ それにしても、成田って 遠いよね・・・・ 成田に無事に着いて、無事にバゲージも出てきたけど、成田EXPRESS に 間に合わないかも、、、と思い焦りました。ただでさえ、到着時間から NEX の発車時間まで一時間弱しかないので、始めから、気になっていたのですが・・・。これに乗れないと、帰宅する手段が さらに 限られて、しかも帰宅時間が NEX利用に比べて 約1時間も 遅れる・・・ あ~ 遠いな~って思いました。 いっそ、私の実家のある新潟に 帰るのだったら、潔く 成田周辺のホテルにでも 泊る覚悟ができるけど、交通手段が ないわけではないけれど、終電あたりの帰宅時間になる、というのは、考えただけでも、旅の”最後”が、恐いというか、イヤになってしまう・・・。 そして、帰ってきた その日は、熱帯夜~~~ 外の空気は、温かかった~~~。
私が今回、娘と 訪れた 場所は、南半球だったので、解かるでしょ~~~ そう、あっちは冬だったのです! あ~~~~~ この 暑さ! 休暇でリフレッシュしたはずが、一気に めげてしまう。
 
☆☆☆
体力が少し回復しましたら、また みなさまの ブログにお邪魔したいと思います。
コメントの 返事も 遅れていてすみません。 これにこりず、また来てくださいね~~。 
 
 
☆☆☆ 留守中に 録画してもらった 月曜のドラマ『スローダンス』を見ていて思ったんだけど、 
 
若いって、いいね~~^^  確かに、私も 20年前は 相当 今からは信じられないこと してたけど、、、 なんで、 若モノ向けの恋愛ドラマって あんなに 自由で 人間関係 軽かったり、速かったり、気軽だったり・・・・。 でも、考えたら そうだよね、 既婚者対象 じゃ、 つまんないもんね。
既婚者 & 年齢層上 を対象にして 恋愛ドラマ造ったら、不倫ドラマっていう方向になっちゃうのかな、、既婚でも、恋愛してかまわないと私は、思うけど、世間は、そうでも、ないらしいし。
若者ドラマ、、、(未婚者対象、未婚者同士の恋愛ドラマ)って、 うらやましいくらい 変化があって、自由で、 人間関係も 面倒くさい & お気軽で面白いなあ っておもいました。 未婚のうちは、 男女間の コミュニケーションが 密だなあ~ って思った。 男女間っていうのは、 カップルに限らないよ、 つまり、気をひこうとしているからなのか、どうか、わからないけど、 未婚の男女は、その関係が どんなタイプでも、 既婚者の男女同士よりも、密に コミュニケーションをとる・・・。
 
===結婚後って、男女ともに、エサを あたえなくなるから、つまんなくなるのかな?===
 
そうそう、今日、私にしては珍しく出かけたのですが、 電車の中で、いろんな人見て思ったの・・・
 
 女の子(若い子)って、 オトコを 惹くために、 いろいろ 服装に気をつかったり、デートだというと下着を新調したりするけど、 オトコって、、、 オンナの子の 気を惹くために、何か そういう目に見えることってするの???・・・一般的に・・・・ 男性諸氏は、デートするからといって、下着を(新しい&清潔なものを着用するのは言わずもがなだけど・・)あれこれ、どれにしようか考えたりするのかな???  1回、寝ちゃえば、後は、気を使わないのかな???  
そういえば、ドラマの『電車男』も やってますが、普通の 男性諸君の場合は、あの 電車男クン タイプの男性諸君と そんなに違うの??? 『電車男』を見ている限りでは、 男の子も必死だね~ってかんじだけど、今日、電車で見たかぎりでは、♀の方が、オスを 得ようと必死だよね?!
 
ま、自然界では、♂が より 多くの♀を ゲットするために、 繁殖相手を得ようと がんばるけど、、、、♀も、より良い条件で 子育てするための より良いパートナー(繁殖&生活力のある相手)を 見つける= ♂を呼び寄せるために、必死だね~~~。  若いっていいね! 
 
 
2005/4/24

あの時のあの人へ感謝の言葉 -②ドイツ編

キッコーマンに勤める佐治さんという方だった。初老といったら失礼かもしれないが、中年という雰囲気ではなく、もう少し上品な感じの、しかし、当時すでに50歳近かったのではないだろうか?

今から15年前のことだ。お仕事でドイツに転勤となり、その年にして初めてドイツ語を習うためにその語学学校へ来ていた。私と同じクラスだった。私は、隣村の寮に入っていたが、佐治さんは、学校のある町のどこかに下宿(ホームステイ)していたと、思う。クラスの面々は、ポーランドからドイツへ戻ってきた(?)移住者も多く、日本から企業の駐在のため、という人がやはり多く、平均年齢はそのお蔭で、私の年をかなり越えていた。が、佐治さんは、クラスの中でも、学校の中でも、あきらかに”年上”だった。だから、めったに私的な会話はしないし、ピクニックやショッピングとかにも行かないし、食堂で会うことも少ないし、個人的に旅行とか一緒に出かけたことなどなかった。

 それが、私がその学校を出て、友人の居る別のドイツの町へ移動する事になった時、私たちは話しをする機会を与えられた。学期末であり、みな、それぞれ休暇や移動で忙しい。私も、詳しくは覚えていないが、大きな荷物は列車で先に送ってしまいたいと考え、いろいろ荷造りをしたり、移動を楽にするための準備をしていた。が、やはり最後の最後には、スーツケースといくつかの荷物が残ってしまい、ひとりでそれらを運ぶのはかなりの苦労が予想されていた。 そこに、バス停にたまたま居合わせた佐治さんが、私の荷運びを手伝ってくれたのだった。古い言葉だが、バス停から荷物をチッキにする所へ、そしてそこからまた駅へ、と。 ほとんど話らしい話しをしたことのない方だったが、聞いてみると、サンフランシスコやシンガポールなど、仕事上では海外駐在が多かったとのこと。そして、このドイツ語講座を終えたら、奥様が日本からいらして、いよいよドイツでの職場へ戻るということだった。 おそらく英語なら何の苦労もないくらい、すでに海外勤務の経験がおありのようだったが、『ドイツ語となると、この歳では苦労していますよ、』と苦笑い。クラスでも、日本人独特の謙虚さ若しくは、シャイな性格もあってか、あまり目立つ存在ではなく、しかし、そのなんとも穏やかな風貌(且つ、おやじ臭くない)から、彼の発言がちょっとくらい間延びしたものでも、かえってそれが彼のキャラクターとして受け留められていたように思う。**語学学校へ通った経験のある方なら想像がつくと思うが、先生に指されて、すぐに”良い答え”が返ってくる生徒と、たいてい、それが辛抱強く待たないと”返ってこない”生徒がいるもので、あえて書かせてもらうと、あの時の佐治氏は、後者の方だった。私???ご想像にお任せします。** 

荷物を運んで&送っていただいて、お茶の一杯も一緒に飲んだんだろうか?よく覚えていない。が、また何かあったら連絡ください、と言われて、ドイツでの滞在先を記した紙をちょうだいした。しばらく私の住所録に挟まれていたのを覚えている。しかし、それきりお会いすることもなく、15年が過ぎた。おそらく数年のドイツ勤務を終えられ、また違う都市へ異動されたかもしれないし、その後、日本で勤めあげられたかも知れない。前に住んでいた国で買ったキッコーマンの醤油は、メイド・イン・シンガポールが多かった。その醤油ボトルを手に取るたびに、「そういえば~」と思い出したりしたものだ。

この佐治さんのように、私がお世話になった日本人の方は、他にもいる。いろいろ相談にも乗っていただき食事に招いてくださった三井物産の駐在(当時、デュッセルドルフ)であった鰐辺夫人、日本に居た時の仕事のご縁でお世話になった&モノのない場所でウドンの作り方、ドラ焼きの作り方などのレシピをくださり旅行にも連れて行ってくださった当時フランクフルト在住の菊地えつこさん、いつの間にか連絡が途絶えてしまったけれどフランクフルトの日本料理店で働いていらした鈴木さん、そして、佐治さんと私と、同じクラスで某車メーカーの駐在&某商社の駐在の男性諸氏。それから、同じ寮で過ごした東大阪のケイコさん、寮ではなかったけど一緒に旅行した美穂ちゃん、私があるドイツ語の歌を歌いたいと言ったら、その楽譜を探してきてピアノ伴奏をしてくれた韓国からの留学生、ソンヒちゃん。。。人の縁とは不思議なものだ。ちょっとしたきっかけでずっと交流を続ける人もいるが、それきり手紙も電話もお会いすることなくも、記憶の中だけに留まる人たちの方が、ずっと多い。とはいえ、そんないろんな人に出会ってきた経験が、今の私のある意味、財産でもあると思う。偶然(ホントは偶然という言葉を使いたくはないが、ひょんなことから、という意味で)出会った多くの方々に、本当にいろいろ助けられた。

【袖擦りあうも多生の縁】 みなさん、ありがとうございました。佐治さん、あの時のご恩は忘れません

2005/3/4

あの時の、あの人へ感謝の言葉。

ほんの短い出会いだったが、その誰かに助けてもらって、感謝している、ということがないだろうか?なぜか解からないけれど、最近、ふと、ある人のことを思い出した。もう、その人がどんな顔だったのか、覚えていないし、名前も苗字しか思い出せない。もう二十余年も前のこと。

当時、私は、渡米を1ヵ月後に控えており、ベビーシッターと喫茶店のウエイトレスというアルバイトに勤しむ日々だった。ところが、半同棲していた私は、もしかしたら、妊娠したかもしれない、という事態に陥った。私が働いていた喫茶店は、茅場町のあるオフィスビルの一階にあって、その周辺のサラリーマンが主な客だった。優しい温和な年配女性が切り盛りしていて、私の他に二人、アルバイトを雇っていた。その中では私が一番の新人だった。そこで働きはじめたのは、ほんの2ヶ月前だった。私の同棲相手は、飲食業をしていて、休みは不規則だった。妊娠したかもしれないことを私は彼に話さなかった。

あの頃、私は、杉並区に住んでいたのだが、アパートから歩いて数分のところに女医の産婦人科医があり、私はそこに行くことにした。初めから、産めない、産まない、と決めていたが、独りで行くのは不安だった。きっかけが何であったのか、忘れてしまったが、茅場町の喫茶店で、私は産婦人科に妊娠の検査に行こうとしていることを私よりも歳が2,3年上のその人にうちあけた。そして、思いかけずに、その人が「時間あるし、オレでよければ、つきあうよ、」と言ってくれ、ある日の午後、私たちは、早めに店を出て、その近所の医院へと向かった。私にとっては近所でも、その人は、千葉に住んでいたので、かなり遠くへ来てもらったことになる。何がイヤ、って問診表みたいな紙に、父親の名前を書くところがあり、中絶するとなれば、署名捺印が必要になる。ごまかすにしても、気分は良くない。1人で行けば、ウソは見え見えだ。私に付き添ってくれたその人は、父親代わりに名前を書く、そのつもりで来てくれていた。

結果、私は、おそらく渡米前の緊張などから、体調が崩れて、それで生理が遅れているだけだ、という診断だった。あ~よかった。妊娠ではなかったものの、あの時の心細さは、なんと表現していいのかわからない。田舎の両親にも言えないし、同棲している彼にも、言う気になれなかった。産まないと決めていたが、周りにあれこれ言われたくなかった。が、中絶となれば、費用も必要だし、手術後、安静にしていなくてはならない、医院からの行き帰りが1人、と考えただけで、『この世に自分は1人きり』的な気分になった。そんな私に、文字通り、救いの手を差し伸べてくれた人だった。何も聞かず、うるさいことは言わず、、、。

なぜ、彼がわざわざ杉並まで付き添ってくれたのか、わからない。私とその人は、特に親しい仲になったわけではなかったし、喫茶店内で働いている時以外、プライベートで話しをしたり、電話をしたりすることもなかった。美術の勉強をしている、ということくらいしか、私は彼について知らなかった。私は、それから2週間ほどでその喫茶店を辞め、予定通り、米国へと発った。そして、その人に、それ以来、会うこともなかった。あの時、同棲していた彼に言えなかったのは、もしかしたら、私の『無意識』が、この人とはそのうち縁が切れるのだ、これ以上のかかわりは要らない、と予感させていたのかもしれないし、打ち明けられなかったということは、私の人生にとってその彼氏はそれだけの存在でしかない、つまり未来を真剣に分かち合いたいと思える相手ではなかった、ということになるかもしれない。米国から帰国した時には別れていた。

 さて、産婦人科へ一緒に行った、その人の名は、酒寄くんという。今は、どこでどうしているだろう?!あの時、私の心細さに黙って付き合ってくれたことに、20年以上経った今も、感謝しています。ほんとに、ありがとうございました。心の支え、ってほんの些細なことにみえても、本人にとっては、とても大事だったりする。本当に、ありがとうございました。産むつもりのない悲痛な覚悟だったので、付き添ってもらえたことがどれだけ慰めになったことか。あれ以来、接点は無いけれど、ほんとに、ありがとうございました。どこかで、幸せに暮らしておられるように、祈っています。 

2005/2/7

横浜の港

アルバムを見る限りにおいて、おそらくそれは私が3歳か4歳のころ。両親に連れられて横浜の親せきを訪ねた時だった。港のマリンタワーとか、あの辺りに連れて行ってもらったらしい。港に停泊している船の中を見物したり、その辺りの土産物屋に入ったりもしたようだ。 

そこがはっきりと、どこであったのか、なぜ私が独りでそこに立っていたのかは、覚えていない。覚えているのは、白髪に近いシルバーともブロンドともいえるような色のパーマをあてた(古い言い方?!)巻き髪の老年の外国人、白人女性が、私に近寄ってきてコインをくれたことだけだ。その婦人が、何処から来た人で、なぜそこにいて、なぜ私に興味を示したのか、わからない。ただ、私はそこで、人生初めての外国人との遭遇を果した。

優しそうなおばあちゃん、、、。何か私に話しかけたのかどうかさえも、覚えていない。私の母が私のところに来て、何しているのかと聞いたかどうかは、わからないが、私の記憶は、途切れる。独りで立っていた時間が何分だったのか、何十分だったのかさえもわからないけれど、大した長い時間ではなかったはずだ。が、独りでいた間に、外国人の老婦人から、私は小銭をもらったのだ。

親に見せると、それは、11円だった。当時の私はお金の数え方を知っていたのかどうか??ただ、後に、おそらくは記念にと思ったのか、タンスに入っていた水色のビーズのついた財布に十円玉と一円玉が一つづつ入っていて、これどうしたの?と母に聞いたら、あの時の小銭だと言われて、納得した。

なんで、お金なんてくれたんだろうねえ、と大人たちが話していた。その時の私の服装というのは、たしか春まだ浅い寒い日で(昭和40年代初め)、港の冷たい浜風が吹き付けてくるので、オーバーコートを着てその上に、私は、スカーフを頭からかぶり、スカーフは顎の下で結んであった。あの時、「乞食に、まちがえられたのかねえ」などと大人は結論付けていたが、自分で言うのもなんだが、あれが乞食の服装だとしたら、その外国のご婦人はきっと日本の乞食はとても小奇麗な格好をしていると、思っただろうなあ~。それで誰かが、慰めに、「外国では、可愛い子どもにお金をあげる習慣があるらしいよ。」と言ってくれたが、あれから40年近く経ち、いろんな国の人と接する機会を今まで得てきたが、可愛い子供にお金を(単に)あげる習慣のある国の人には、お目にかかったことはない。もちろん、知人の子供にお小遣いをあげる、というくらいはあったとしても、見知らぬ他人の子供にお金をあげるのは、、、やはり、物乞いをしてくる子供に対してだろう。

乞食であろうと可愛いからであろうと、理由はどうでもいい。ただ、あの老婦人が、十一円という中途半端な額を私に握らせた理由も知る由もないけれど、そ遭遇を覚えている自分がとても嬉しい。あのご婦人に、理由が何であろうと、「ありがとう」と一言、言えたら良かったのになあ。当時は、10円あれば、アイスクリームが買えた。消費税なんてものもなかったし。欲を言えば、どこの誰だか、知りたいけれど、それは無理だ。残念だ。ただ、ただ、あのおばあちゃんの日本滞在が快適だったのだろうか、その後、幸せに暮らしたのだろうか、と時たま、そんなふうに、思い出す。

 

 

2005/2/6

アジア人

私はなぜか小さい頃から、中国とか朝鮮、韓国が苦手だった。特に誰かが嫌いとかそういうのではなくて、政治体制が好きではなかったし、なんとなく恐い感じがしたのだ。「自分」を奪われそうな感じとでもいおうか。。。前世の私は、もしかしたら、中国大陸や朝鮮半島で、よほど悪いことをして、そこの人民に憎まれて、それが恐ろしくて近寄れないのかな、嫌な気持ちなのかなあ、などと子供ながらに思っていた。 

そんな私が、アジア人だから、ということで助けられたことがある。助けられたといても、命を助けられたとか、大げさなものではないけれど、とにかく”ラッキー”と思った。ありがたかった。

米国オハイオ州にいた時、最初のひと月は、大学内のドミトリーに滞在した。が、慣れてきて外に出たくなった。そしたら、フランス人のルームメイトのセシルが、やはり外での滞在先を探していて、自分が見つけたところは、女生徒が少ないから、空きがあったら、聞いてみてあげようということになった。そこは、キャンパス内といえるほどの近さで、とても便利だった。が、残念なことに、セシルが入ることになった学生たちの”ハウス”は、21歳以上でなくてはならないという。ちなみに私は20歳になったばかりだった。だめかな、、と思っていたら、ある日、セシルが「入れることになったよ」と朗報を持ってきてくれた。ラッキーとばかりにそこ、「Steiner House」をたずねていったら、二階の突き当たりにある狭い長方形の屋根裏部屋っぽいスタイルの部屋を見せられた。独りで住むには悪くないし、同じ階にあるシャワールームも、そこそこ、キッチンは一階で共同。夕食は当番制で、二人一組で共同で作り、みんなで食べるというのが原則。国際電話の出来る公衆電話も食堂横にあった。ふつうの民家を借りての共同生活だ。学生の国籍はさまざまだったが、女の子は、セシルと、インド人の(名前を忘れてしまった!)子だけだった。

私は、そこの代表であるマイク(米国人学生)に、どうして、年齢制限に引っかかるのに、入れてくれたのかとたずねた。そしたら、「アジア人の女の子がいなかったから」と言われた。インドも広域的にはアジアであるとは思うのだが、そのハウスにいた中国、韓国から来ていた学生が、「日本人なら入れてやって欲しい」と言ってくれたのだそうだ。インドよりは、日本の方が、”アジア”的には近い位置にあるん??いずれにしても、おかげで助かった。住む所が決まったのだった。

名前さえも忘れてしまったが、あの時、私を迎え入れてくれたアジア人学生たち、ほんとうにありがとう。

一緒に生活している間にいろいろ話をしたのだが、その中で、とても私の興味を引く話を聞いたことがあった。が、、、また、それは別の機会に書くことにしようと思う。 おしまい